あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

深層心理は、自らを、精神疾患に陥らせることによって、現実逃避する。(自我その360)

2020-05-30 19:38:23 | 思想
人間は、苦悩が深いから、心がむしばまれて精神疾患に陥るのではない。深層心理が、深い苦悩から逃れるために、自らを精神疾患に陥らせたのである。人間の無意識の心の思考を深層心理と言う。人間の意識しながらの思考を表層心理での思考と言う。それでは、なぜ苦悩に陥ったのか。それは、自らの立場を維持できなくなり、それを失う可能性が大きくなってきたからである。それでは、なぜ、自らの立場を維持できないだけでなくそれを失う可能性が大きくなってきたと感じたのか。それには、三つの理由がある。他者から評価されなくなったこと、他者を支配できなくなったこと、他者と心の交流が図れなくなったことである。他者から評価されなくなったから、他者を支配できなくなったから、他者と心の交流が図れなくなったから、自らの立場を維持できないだけでなくそれを失う可能性が大きくなってきたと感じたのである。それほどまでに、人間は、自らの立場にこだわって生きているのである。さて、自らの立場は、一般に、自我と表現される。それでは、自らの立場、すなわち、自我とは、何か。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。それでは、構造体とは、何か。構造体とは、国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民という自我などがあり、家族という構造体には父・母・息子・娘という自我などがあり、学校という構造体には校長・教師・生徒という自我などがあり、会社という構造体には社長・部長・社員という自我などがあり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。人間は、常に、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動によって、快感原則を満たそうと、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて行動するのである。ラカンは「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、深層心理のことである。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って、論理的に思考していることを意味する。深層心理は、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。論理的に思考するとは、恣意的に思考するのでは無く、欲動に基づいて言語を使って思考するということである。次に、欲動とは何か。欲動とは、深層心理の心理を動かすものであり、四つの欲望から成り立っている。深層心理は、この四つの欲望のいずれかを使って、自我の欲望を生み出しているのである。欲動には、第一の欲望として、自我を維持したい、すなわち、自我を存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。第二の欲望として、自我を他者に評価してほしい、すなわち、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。第三の欲望として、自我で他者を支配したい、すなわち、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。第四の欲望として、他者と心の交流を図りたい、すなわち、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我の他者の共感化という作用である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望、もしくは、感情と行動のイメージという自我の欲望を生み出し、人間は、それによって、動きだすのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。人間が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。そこに、人間が毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしている理由と意味があるのである。深層心理は、まず、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、すなわち、生きていくためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。さて、人間は、常に、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのであるが、深層心理が、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、人間は、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動する場合と、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考し、その結果、行動する場合がある。前者の場合が、無意識による行動である。人間の生活が、ルーティンと言われる、決まり切った無意識の行動の生活になるのは、表層心理で考えることもなく、安定しているからである。だから、ニーチェの言う「永劫回帰」(同じことを永遠に繰り返す)という思想が、人間の日常生活にも当てはまるのである。次に。後者の場合、すなわち、表層心理で行動の指令について審議した後で行動する場合であるが、この時の表層心理での審議は広義の理性の思考と言われている。広義の理性の思考の結果が意志(による行動)である。日常生活において、異常なことが起こり、ルーティーンが崩れると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、傷心・怒りなどの過激な感情と相手を侮辱しろ・相手を殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちなので、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考するのである。これが広義の理性である。現実原則も、フロイトの用語で、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらせようとする欲望である。表層心理が許諾すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。これが意志による行動となる。表層心理が拒否すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、その後、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。これが狭義の理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出すから、瞬間的に湧き上がるのである。そして、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、行動の指令の通りに行動すると、後で、他者から批判され、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。しかし、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、傷心・怒りという苦痛の感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。これが狭義の理性である。この場合、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、深層心理が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。また、人間は、表層心理で、深層心理の行動の指令を意志を使って抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、所謂、感情的な行動であり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多いのである。さて、人間は、深層心理が生み出す自我の欲望、すなわち、自らが意識して思考して生み出していない自我の欲望に動かされて生きているのであるが、自らが表層心理で思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、人間は、犯罪を犯しても、自己正当化するのである。人間は、自己を正当化をしなければ、すなわち、自己を肯定できなければ生きていけない動物だからである。人間は、自我に捕らわれて、一生を送る。すなわち、自我のために生き、そして、死ぬのである。そして、自己正当化できなければ、深層心理は、自らを、精神疾患に陥らせることによって、現実逃避するのである。さて、快感原則とは、何か。快感原則とは、フロイトの用語であり、深層心理が、喜びや楽しさを得ること目標に思考することである。快感原則には、深層心理には、道徳観や社会規約は存在せず、ひたすら、快楽を求め不快を避けようという欲望である。次に、欲動についてであるが、欲動とは欲望の集団である。だから、欲動を欲望と読み直しても構わないのである。欲動が、深層心理を内部から突き動かして、思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させたのである。だから、深層心理は欲動に基づいて思考していると言えるのである。つまり、欲動とは、深層心理に感情と行動の指令という自我の欲望をを生み出させ、人間を行動へと駆り立てる、深層心理に内在している欲望の集団なのである。フロイトは、欲動をリピドーと表現し、性本能・性衝動のエネルギー、すなわち、性欲を挙げている。しかし、フロイトが挙げているリピドとしての性欲だけでは、欲動は狭小であり、人間の全ての感情と全ての行動と感情の理由と意味を説明できないのである。明確に、欲動は四つの欲望によって成り立っていると考えると、人間の全ての感情と全ての行動と感情の理由と意味を説明できるのである。すなわち、欲動には、第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。欲動には、第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。欲動には、第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。欲動には、第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我の他者の共感化という作用である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。人間が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。それが、人間が毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしている理由と意味である。深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。いずれも、自我を存続・発展せたいという第一の欲望、自我の保身化から来ている。次に、欲動の第二の欲望である自我の対他化であるが、それは、深層心理が、自我が他者に認められることによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我の対他化とは、言い換えると、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。他者に認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、認められれば、評価されれば、好かれれば、愛されれば、信頼されれば、喜びや満足感という快楽が得られるのである。受験生が勉強するのは、所謂名門大学に合格し、教師や同級生や親から褒められ、世間から賞賛を浴びたいからである。自我の対他化については、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉にその意味が集約されている。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。人間が苦悩に陥る主原因が、深層心理の自我の対他化の欲望がかなわなかったことである。つまり、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から好評価・高評価を得たいと思っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なった。深層心理は、快感原則の下で、傷心という感情とと不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出した。人間は、それを受けて、表層心理で、すなわち、広義の理性で、現実原則の下で、傷心という感情の中で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとするのだが、傷心という感情が強いので、不登校・不出勤になってしまうのである。そこで、人間は、表層心理で、すなわち、狭義の理性で、不登校・不出勤を指示する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとするのだが、それが上手く行かずに、苦悩に陥るのである。人間は、深層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。そして、深層心理が、この苦悩から脱出するために、自らを、精神疾患に陥らせ、現実を見ないようにするのである。すなわち、現実逃避するのである。次に、欲動の第三の欲望である対象の対自化であるが、それは、哲学用語で言えば、有の無化作用である。深層心理が、他者や物や現象という対象を自我で支配することによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。深層心理が、自我を主体に立てて、他者という対象を自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で支配すること、物という対象を自我の志向性や趣向性で利用すること、現象という対象を自我の志向性や趣向性で捉えることなのである。すなわち、他者の対自化とは、自我の力を発揮し、他者たちを思うように動かし、他者たちのリーダーとなることなのである。その目標達成のために、日々、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接している。物の対自化とは、自分の目的のために、対象の物を利用することである。現象の対自化とは、自分の志向性でや趣向性で、現象を捉え、理解し、支配下に置くことである。対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、物という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、現象という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で捉えている。国会議員は総理大臣になってこの国を支配したいのである。教諭は校長になって学校を支配したいのである。社員は社長になって会社を支配したいのである。人間は樹木やレンガを建築材料として利用するのである。科学者は自然を対象として捉え、支配しようとするのである。また、人間は、自分の志向性や自分の趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造する。それが、「人は自己の心象を存在化させる」、哲学用語で言えば、無の有化という作用である。人間はは、この世に神が存在しなければ生きていけないと思ったから、神を創造したのである。さて、志向性や趣向性は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。しかし、志向性(観点・視点)と趣向性(好み)は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性は冷静に捉え、趣向性は感情的に捉えていることである。右翼・保守系の大衆は、愛国心を金科玉条にして、安倍首相を趣向性で捉えている、すなわち、好みで捉えているから、安倍首相が悪行をどれだけ悪行を重ねても、安倍政権を支持するのである。また、自我による対象の対自化は、挫折しても、深層心理が、自らを精神疾患をするまでに苦悩しないのである。なぜならば、挫折しても、深層心理は、無の有化作用、すなわち、、「人は自己の心象を存在化させる」ことによって、空想、妄想を生み出し、乗り越えていくからである。むしろ、自我による対象の対自化にこそ、人間の生きる希望が見出されるのである。そして、また、自我の対他化は自我が他者の視点によって見られることならば、対象の対自化は自分の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者・物・事柄を見ることなのである。深層心理は、自我で他者を支配するために、他者がどのような思いで何をしようとしているのかその欲望を探ろうとする。しかし、他者の欲望を探る時も、ただ漠然と行うのではなく、自らの欲望と対比しながら行うのである。その人の欲望が、自分の欲望と同じ方向にあるか、逆にあるかを探るのである。つまり、他者が味方になりそうか敵になりそうか探るのである。そして、その人の欲望が自分の欲望と同じ方向にあり、味方になりそうならば、自らがイニシアチブを取ろうと考える。また、その人の欲望が自分の欲望と異なっていたり逆の方向にあったりした場合、味方になる可能性がある者と無い者に峻別する。前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。これを徹底した思想が、ドイツの哲学者のニーチェの言う「権力への意志」である。しかし、人間、誰しも、常に、対象の対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者になる可能性があるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、誰かの反対にあうと、その人の視線を気にし、自我を対他化するからである。だから、フランスの哲学者のサルトルは、「対自化とは、見るということであり、勝者の態度だ。見られることより見ることの方が大切なのだ。」と言い、死ぬまで戦うことを有言実行したが、一般には、その態度を貫く「権力への意志」の保持者はまれなのである。誰しも、サルトルの言葉は理解するが、それを貫くことは難しいのである。また、大衆は、他者という対象を、無意識のうちに、自分の趣向性(好み)で捉えることが多い。だから、大衆の行動は、常に、感情的なのである。次に、欲動の第四の欲望である自我と他者の共感化は、深層心理は、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我と他者の共感化とは、自我の存在を確かにし、自我の存在を高めるために、他者と理解し合い、心を交流し、愛し合い、協力し合うのである。人間は、仲間という構造体を作って、友人という他者と理解し合い、心を交流し、カップルという構造体を作って、恋人いう自我を形成しあって、愛し合い、労働組合という構造体に入って、協力し合うのである。年齢を問わず、人間は愛し合って、カップルや夫婦という構造体を作り、恋人や夫・妻という自我を持つが、相手が別れを告げ、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、深層心理の敏感な人ほど、ストーカーになって、相手に嫌がらせをしたり、付きまとったりするのである。それは、カップルや夫婦という構造体が壊れ、恋人や夫・妻という自我を失うことの苦悩から起こすのである。ドイツの詩人ヘルダーリンは、愛するゼゼッテが亡くなったので、深層心理が、この苦悩から脱出するために、自らを、精神疾患に陥らせ、現実を見ないようにしたのである。また、敵と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の志向性である。政治権力者は、敵対国を作って、大衆の支持を得ようとするのである。安倍晋三首相は、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆の支持を集めているのである。



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