あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

感情が自分の存在に気付かせる。(人間の心理構造その10)

2023-02-07 15:22:06 | 思想
デカルトの有名な言葉に「コギトーエルゴースム」(cogito,ero,sum)がある。略されて、コギトと言われる。一般に「我思う、故に、我あり。」と訳されている。その意味は「私はあらゆるものやことの存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在しているからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」である。ここから、デカルトは「私は確実に存在しているのだから、私は、理性によって、いろいろなものやことの存在を、すなわち、真理を証明することができる。」と主張する。なぜ、デカルトは、あらゆるあらゆるものやことの存在を疑ったのか。それは、「悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものやことを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせているかもしれない。」と考えたからである。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものやことを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間があらゆるものやことの存在を疑っていること行為自体も実際には存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、いろいろなものやことがそこに存在していることを前提にしなければ、思考することも活動することもできないのだから、それらの存在を疑うことは意味をなさないのである。人間は、存在の根源を問うことができるが、存在を疑うことはできないのである。聖書に「はじめに言葉ありき」とあるが、それは「はじめに存在ありき」を意味するのである。存在と無を対比して思考する人がいるが、その人にとって無は存在しているから、思考できるのである。人間が思考するものやことは既に存在しているのである。だから、デカルトがどのようなものやことの存在を疑って思考しても、疑いの思考自体がその存在を前提にして論理を展開しているから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。すなわち、存在の疑いの思考自体が無意味なのである。つまり、人間は論理的にいろいろなものやことの存在が証明できるからそれらが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、それらの存在を前提にして、思考し、活動しているのである。それでは、人間は、自らの存在を何として捉えているか。それは、自我である。深層心理が、自我の存在を前提にして、自我を主体にして思考にして、人間を動かしているからである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。つまり、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体にして思考にして、人間を動かしているのである。しかし、ほとんどの人間は、それを明確に理解していない。ほとんどの人間は、自ら主体的に思考して、意志によって行動していると思い込んでいるのである。人間の自ら意識しての精神活動を表層心理と言う。すなわち、ほとんどの人間は、表層心理で、自らを意識して思考して、意志によって行動していると思い込んでいるのである。しかし、実際は、人間は深層心理の自我を主体にした思考によって動かされているのである。確かに、人間は自ら意識して表層心理で思考することはある。しかし、表層心理の思考は深層心理の思考の結果を受けて始まり、人間は、表層心理独自に思考できず、表層心理の思考だけでは行動できないのである。さて、人間は深層心理の自我を主体にした思考によって動かされているが、それでは、自我とは何か。自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動しているのである。そして、深層心理が、自我を主体にして、ある心境の下で、快感や満足感を求めて、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。それでは、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動の四つの欲望とは、保身欲、承認欲、支配欲、共感欲である。欲動の第一の欲望である保身欲は自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。ほとんどの人間が、毎日、同じことを繰り返すルーティーの生活をしているのはこの欲望による。裁判官が首相の評価を得ようとして迎合した判決を下し、官僚が首相の意向に公文書を改竄するのもこの欲望による。欲動の第二の欲望である承認欲は自我が他者に認められたいという欲望であるが、深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。生徒は、この欲望から、親や教師や同級生から評価されようと勉強して成績を上げようとするのである。欲動の第三の欲望である支配欲は自らの志向性で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望であるが、深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。プーチン大統領が兵士を動かしウクライナに侵攻したこと、人間が樹木を伐採して家を建てること、ニュートンが万有引力の法則を発見したなどはこの欲望による。欲動の第四の欲望である共感欲は自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。カップル、仲間の成立はこの欲望による。欲動が、深層心理に感情と行動の指令という自我の欲望をを生み出させ、人間を行動へと駆り立てるのである。欲動が、深層心理を内部から突き動かして、思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させているのである。深層心理は、自我が欲動にかなうような行動をすれば快感や満足感が得られ、不快感や不満足から逃れられるので、欲動に呼応して、感情と行動の指令という自我の欲望を思考して生み出し、自我となっている人間を動かそうとするのである。つまり、欲動が深層心理が動かし、深層心理が人間を動かしているのである。次に、感情と行動の指令という自我の欲望とは何か。感情と行動の指令は、深層心理が自我の欲望として一体化して生み出したものである。深層心理は、感情を動力にして、行動の指令通りに自我となっている人間を行動させようとしているのである。つまり、感情とは行動のへの強さであり、行動の指令は具体的な行動を指し示しているのである。例えば、感情の最も強いものは怒りである。深層心理が怒りという感情と殴れという行動の指令を生み出せば、怒りという強い感情は殴るという具体的な行動の力になり、自我となっている人間に殴ることを強く促すのである。しかし、そのような時、まず、無意識のうちに、超自我が、深層心理が生み出した殴れという行動の指令を抑圧しようとする。超自我とは、深層心理に内在する欲動の凱一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から発したルーティーンの生活を守ろうとする作用である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強すぎる場合、深層が生み出した殴れという行動の指令を、超自我は抑圧できないのである。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、自らを意識して思考して、抑圧しようとする。表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議するから、当然のごとく、殴れという行動の指令は抑圧する結論になるのである。現実的な利得を求めるには二つの意味がある。一つは、殴った後、相手という他者から、どのような復讐をされるかを考慮して抑圧することになるのである。もう一つは、殴った後、第三者という他人から、道徳観や社会的規約から、どのように非難され罰せられるかを考慮して抑圧することになるのである。他者とは構造体内の限定された人々である。他人とは構造体外の無限の人々である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我の抑圧の機能も表層心理での思考による抑圧の意志も、深層心理が生み出した殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、相手という他者を殴り、相手を傷付け、自らは社会という他人の世界から非難や処罰を受けるのである。次に、心境とは何か。心境は感情と同じく深層心理の情態である。情態とは人間の心の状態を意味している。しかし、心境は深層心理を覆っている情態であり、感情は深層心理が生み出した情態である。心境とは、爽快、憂鬱など、深層心理に比較的長期に滞在する。感情は、喜怒哀楽や感動など、深層心理が行動の指令ととに突発的に生み出し、人間を行動の指令通りに動かす力になる。深層心理は、常に、ある心境の下にあり、時として、心境を打ち破って、行動の指令とともに感情を生み出すのである。つまり、心境が人間にルーティーンの生活を送らせ、感情がルーティーンの生活を打ち破る行動を人間に起こさせるのである。深層心理が、常に、心境や感情という情態を伴っているから、人間は表層心理で自ら意識する時は、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や心の中に生まれた感情に気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、意識して、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、後ろに退く。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、快感や満足感を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出されるが、心境は、後ろに退き、意味をなさなくなるのである。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。なぜならば、心境も感情も、深層心理の範疇だからである。人間は、表層心理で、自ら意識して、嫌な心境や感情を変えることができないから、気分転換によって、変えようとするのである。人間は、表層心理で、直接に、心境や感情に働き掛けることができないから、何かをすることによって、心境や感情を変えようとするのである。つまり、人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境や感情を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境や感情を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境をや感情を変えようとするのである。また、人間は、心境や感情という情態によって、現在の自我の状態の良し悪しを判断する。つまり、情態が人間の状態を決定するのである。爽快などの快い心境の情態の時には、良い状態にあるということを意味するのである。そこで、深層心理は現在の状態を維持しようと思考するのである。そして、ルーティーンの生活を維持するのである。逆に、陰鬱などの不快な心境の情態の時には、悪い状態にあるということを意味するのである。そこで、深層心理は現在の状態を改善しようと思考するが、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かさない限り、改善できないのである。たとえ、深層心理が、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かし、現在の陰鬱などの不快な心境の情態、状態を改善しようとしても、よほど強い感情を生み出さない限り、超自我や表層心理での思考によって行動の指令は抑圧されるのである。そして、ルーティーンの生活が続くのである。もちろん、感情も心境と同じく情態だが、そのあり方は異なるのである。確かに、喜楽などの快い感情の情態の時には、自我が良い状態にあるということを意味し、怒哀などの不快な感情の情態の時には、自我が悪い状態にあるということを意味する。しかし、感情は行動の指令とともに自我の欲望として深層心理が生み出しているから、感情は行動の途上にあるのである。深層心理が喜楽などの快い感情を生み出した時にも怒哀などの不快な感情を生み出した時にも、行動の指令通りに人間が行動すれば、早晩、その感情は消えていくのである。しかし、内実は異なっている。深層心理が喜びの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、拍手喝采などの喜びの表現をし、他者に自らの存在を知らしめるのである。深層心理が楽しみの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、満足気などの楽し気な表情をし、他者の存在が気にならないのである。深層心理が怒りの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、他者を非難したり暴力を加えたりして、他者に自らの存在を知らしめるのである。深層心理が哀しみの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、泣くなどの哀しみの表現をし、他者に慰めてもらうのである。人間は、心境や感情という情態によって、自分が良い状態にあるか悪い状態にあるかを自覚するから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情が消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しいという心境や感情が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、深層心理が思考するのは、自我になっている人間を動かし、苦しみの心境や感情から苦しみを取り除くことが最大の目標であるからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境や感情という情態が大切なのである。それは、常に、心境という情態に深層心理が覆われ、行動の指令とともに感情という情態を生み出して、人間を行動の指令通りに動かそうとしているからである。深層心理が、常に、心境という情態性が覆われ、時として、心境を打ち破り感情という情態を生み出すから、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理にあるから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者や他人に面した時、他者や他人を意識した時、他者や他人の視線にあったり他者や他人の視線を感じた時などに、自分の心を覆っている心境や心に起こっている感情を実感しつつ、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、表層心理での思考が始まるのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心に存在するのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。



コメントを投稿