あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は誰しも自我の欲望にとらわれて生きている。(欲動その3)

2023-11-24 17:17:55 | 思想
人間は、誰しも、主体性を持って生きていない。それは、人間は、誰一人として、誕生の意志をもって生まれていないからである。そうかと言って、誕生を拒否したのに、誕生させられたわけでもない。つまり、誰もが、気が付いたら、そこに人間として存在しているである。意志なく誕生させられ、主体性が無いことは、他の動植物も同じである。しかし、人間には、他の動植物と決定的に異なるところがある。それは、言葉を持っていることである。他の動植物は言葉を持っていないから、自らのあり方を認識できず、本能のままに生きていて、そのあり方で生きていることに疑問を懐かないのである。すなわち、他の動植物は言葉を持っていないから、本能と行動は完全に一致しているのである。しかし、人間は、言葉を持っているから、自らのあり方に疑問を覚え、主体的に生きようとする人が現れるのである。しかし、それは、ほとんど、挫折するのである。なぜならば、誕生の意志をもって生まれていないのに、誕生してから主体性を持とうとしても、すなわち、主体的に生きようとしても、それを追究することは困難だからである。なぜ、困難なのか。それは、主体的に生きようとすれば、その延長線上には死があるのに気付くからである。人間は、死を賭けなければ、主体性を持つこと、すなわち、主体的に生きることはできないのである。そもそも、人間は、主体性が無くても、生きていけるのである。それは驚くべきことである。それなのに、ほとんどの人はそれに対して疑問を抱かない。なぜ、疑問を抱かないのか。それは、生きる意味、生きる目的を自覚していなくても、現に、生きているからである。しかし、自覚していないことは、生きる意味、生きる目的が存在していないということを意味していない。人間は、生きる意味、生きる目的を有せずして、生きることはできない。つまり、人間は、自覚していないが、生きる意味、生きる目的を有しているのである。だから、人間は、生きる意味、生きる目的を自ら意識していなくても、すなわち、自覚していなくても、生きていけるのである。それは、先天的に、人間には、生きる意味、生きる目的が与えられているからである。人間の先天的に与えられている生きる意味、生きる目的とは何か。それは、ひたすら自我の欲望をかなえようとすることである。しかし、それは単なる欲望ではない。常に、自我に関わる欲望なのである。すなわち、自我の欲望である。さて、人間は誰しも自分を持て余す時がある。自我の欲望を抑えられないからである。なぜ、自我の欲望を抑えられない時があるのか。それは、人間は無意識のうちに自我の欲望を生み出しているからである。もしも、人間が自ら意識して自我の欲望を生み出していれば、それを抑えることができるだろう。しかし、人間は自ら意識して自我の欲望を生み出していないから、それを抑えられない時があるのである。人間の無意識の精神運動を深層心理と言う。人間の自らを意識しながらの精神活動を表層心理と言う。すなわち、深層心理が思考して自我の欲望を生み出しているから、表層心理で思考して抑圧しようとしてもできない時があるのである。しかし、自我の欲望と言っても、漠然とした欲望ではなく、感情と行動の指令が合体したものなのである。深層心理が思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。深層心理が生み出した感情が動力となり、深層心理が生み出した行動の指令通りに、人間を動かそうとするのである。それでは、自我とは何か。人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って生きているのである。自我とは、構造体の中で、役割を担ったポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。自我が、人間を人間たらしめているのである。
人間は自我を持つことによって人間になり、それと同時に、深層心理は、自我を主体に立てて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かすようになるのである。人間は、自らが自我の主体になって行動しているのではなく、換言すれば、表層心理で思考して行動しているのではなく、深層心理が、自我を主体に立てて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。つまり、人間は、常に、構造体に所属して、自我を持ち、深層心理が自我を主体に立てて思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し人間を動かしているのである。人間は、自らが所属している構造体と自らが持つ自我が社会的にも認められているから、毎日、深層心理が思考して生み出している自我の欲望に従って、同じ構造体に所属し、同じ自我を持って、社会的な関わりの中で、暮らしていけるのである。だからこそ、人間は、毎日、同じ構造体に行き、同じ自我を持って、暮らしているのである。しかし、毎日の生活を保証する自我、構造体を、人間は、主体的に選択することはできないのである。例えば、一般に、人間に家族が存在するが、子は男性女性の性も選べず、父・母を選べず、家族を選べないのである。生まれてみて、息子・娘の性に気付き、自分を生んでくれた女性が母になり、その配偶者が父となり、生まれた家庭が家族になるのである。父・母も子を選べず、生まれた子が息子・娘になるのである。さらに、生まれる国を選べず、近くの学校に入り、合格した会社に入り、身近な人と友人になり、身近な人と恋愛関係に陥るのである。選択権が無いか選択する範囲が非常に狭いのである。だから、人間は、構造体も自我も主体的に選んでいるのでは無く、必然的に選ばされているのである。人間は、主体的に選んでいない構造体に所属し、他者から与えられた自我を持して生きていくしか無いのである。さて、人間は、常に、構造体に所属して、自我を持ち、深層心理が自我を主体に立てて思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し人間を動かしているが、深層心理は恣意的に思考しているのではない。深層心理は、欲動に基づいて快楽を求めて思考して自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。フロイトは、深層心理の快楽を求める思考を快感原則と呼んだ。つまり、人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って生きているが、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのである。フランスの心理学者のラカンも、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言うのである。深層心理が、欲動に基づいて、快楽を得ようと、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。人間は、自らの深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望にとらわれて生きているのである。自我の欲望が、人間の生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して生み出していない自我の欲望によって生きているのである。しかし、自らが意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が生み出しているから、やはり、その自我の欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、それから逃れることができないのである。さて、深層心理は快楽を求めて欲動に基づいて思考している。それでは、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望である。深層心理は、自我の状態を欲動の四つの欲望のいずれかにすれば快楽が得られるので、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。しかし、なぜ、自我の状態を欲動の四つの欲望のいずれかに満足するようなものにすれば、深層心理が快楽が得られるのか。すなわち、人間が快楽を得るのか。それは、わからないのである。人間の思考では、すなわち、表層心理の思考では、遡及できないのである。しかし、表層心理での思考では理由がわからなくても、人間の状態が、すなわち、自我の状態が欲動の四つの欲望のいずれかにかなったものになれば快楽がもたらされるので、深層心理は快楽を求めて欲動の四つの欲望のいずれかに基づい思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。そこに、誕生の理不尽さとともに、欲動に取りつかれ、深層心理に動かされている人間存在の悲劇が存在するのである。さて、欲動の四つの欲望とは、保身欲、承認欲、支配欲、共感欲である。さて、欲動の第一の欲望は保身欲であるが、それは自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。この欲望が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を可能にしているのである。人間の毎日の生活がルーティーンになっているのは、深層心理が保身欲かに基づいて思考して生み出した自我の欲望のままに無意識に行動しているからである。また。日常生活がルーティーンになっているのは、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で思考することが起こっていないことを意味しているのである。そして、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェは、「永劫回帰」という言葉で、森羅万象は永遠に同じことを繰り返すという思想を唱えたが、それは、人間の生活にも当てはまるのである。プーチン大統領は、ソ連時代に、KGB (ソ連国家保安委員会)職員として働いていたから、国家主義的な領土拡大に思想を持ち、国家に反逆する者は官民を問わず暗殺することに慣れていたのである。だから、ウクライナに軍隊を侵攻させたり自分に反対する者を暗殺させたりしているのである。ハマスは領土を奪ったイスラエルを常に憎んでいるからイスラエルに侵攻したのである。イスラエル政府にとってハマスは目の上の瘤であり、常につぶそうと考えていたから、ハマスに侵攻を機に、破壊を考え、徹底的に攻撃しているのである。ロシア、ウクライナの兵士や国民、イスラエル、ハマスの兵士は、軍隊、国という構造体に属しているから、保身欲のために戦っているのである。さて、人間は、誰しも、朝起きると、不快になることがある。不快な原因は体調不良のこともあるが、多くは学校・職場に行くことを考えたことにある。不快になったのは、表層心理での思考の結果ではなく、深層心理が思考して生み出したものである。深層心理の思考では感情を生み出せないのである。しかも、深層心理は、感情を単独に生み出すのではなく、行動の指令とともに、自我の欲望として生み出すのである。深層心理が思考して、学校・職場に行くと、同級生にいじめられたり上司に馬鹿にされたりして、承認欲が阻害され、自我が傷付けられるから、自我の欲望として、不快な感情と不登校・不出勤という行動の指令を生み出し、行かせないようにするのである。しかし、たいていの場合、超自我が自我の欲望を抑圧し、人間は登校・出勤する。超自我は、欲動の保身欲から発した機能である。超自我という機能が、深層心理に存在するから、人間はルーティーンの生活を維持できるのである。もしも、超自我の抑圧が自我の欲望を抑圧できなかったならば、人間の意識に自我の欲望が上がってくる。人間は、悩み、思考することになる。人間は、表層心理で、思考することになるのである。つまり、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した不快な感情の下で、深層心理が生み出した学校・会社に行ってはいけないという行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議するのである。人間は、深層心理が生み出した感情の下で、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動したならば、後に、自我がどうなるかという自我の将来のことを考え、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に従って、深層心理が生み出した学校・会社に行ってはいけないという行動の指令通りに行動したならば、後に、自我がどうなるかという自我の将来の現実的な利害を考え、行動の指令を受け入れるか拒否するかについて思考するのである。フロイトは、人間の表層心理の現実的な利害の志向性を現実原則と呼んだ。当然のごとく、表層心理での思考も、学校・会社に行くことを選択し、自我の欲望を抑圧しようとするだろう。一般に、表層心理での思考は、自我の将来のことを考えるから、長く時間が掛かる。それに対して、深層心理の思考は瞬間的に行われる。深層心理の思考は現在の状況をすぐに対処しようとするから瞬間的に行われ、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して人間を動かそうとするのである。行動の指令は具体的な行動のいかたであり、感情は行動の指令を人間に実行させるための動力になっているのである。人間の行動の規範に道徳や社会規約を守ろうという志向性があるが、それは深層心理の思考の規範ではない。欲動に道徳や社会規約を守ろうという欲望が存在しないからである。道徳や社会規約は、人間社会の秩序を維持するために、人間が考え出したものである。すなわち、人間が表層心理で思考して案出したものである。そして、人間は、表層心理で、道徳や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利得をもたらそうと思考するのである。それは、道徳や社会規約を考慮せずに行動すると、後に、周囲の人から顰蹙を買ったり社会的に処罰される可能性があるからである。しかし、人間は、表層心理独自で思考することは無い。人間は、表層心理で、常に、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを思考するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に従って、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動したならば、後に、自我がどうなるかという自我の将来のことを考え、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかについて思考するのである。もしも、超自我が、深層心理が生み出した学校・職場に行ってはいけないという行動の指令を抑圧できなかったなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになるのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した不快な感情の下で、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に従って、学校・職場に行かなかったならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した学校・職場に行ってはいけないという行動の指令をついて受け入れるか拒否するかについて思考するのである。そして、たいていの場合、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、学校・職場に行くのである。そして、同級生にいじめられたり上司に馬鹿にされたりして、承認欲が阻害され、自我が傷付けられる日々が続くのである。つまり、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した学校・職場に行ってはいけないという行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧でき、学校・職場に行くことができたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した不快な感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、すぐには不快な感情は消えることがないからである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、不快な感情のままに、毎日、学校・職場に行くのである。そして、ルーティーンの生活に紛れて不快な感情は消えていけば良いが、不快な感情が積み重なると、その不快な感情から逃れるために、深層心理が自らに鬱病などの精神疾患をもたらすことがあるのである。深層心理は、鬱病などの精神疾患に罹患して、現実から逃れようとするのである。また、深層心理は、欲動の保身欲に応じて、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。しかし、深層心理が生み出した不快な感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志も、深層心理が生み出した学校・職場に行ってはいけないという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、学校・職場に行かないのである。その後、人間は、自宅で、表層心理で、次の行動をどのようにすれば良いかと思考するのである。なぜならば、学校・職場に行かなかったことは、自我に現実的な利得をもたらさないからである。なぜならば、人間は、表層心理で、今日自宅でどのように過ごせば良いか、明日も学校・職場に行かないほうが良いか、明日学校・職場に行くとしてもどのような顔で行けば良いか,これからどのようにしたら良いかなどを思考しなければならないからである。そして、たいていの場合、良い方法が思い浮かばず、苦悩するのである。つまり、深層心理が思考して、学校・職場に行くと、同級生にいじめられたり上司に馬鹿にされたりして、承認欲が阻害され、自我が傷付けられるから、自我の欲望として、不快な感情と不登校・不出勤という行動の指令を生み出し、行かせないようにした場合、主体的に生きようとすれば、二つの方法が考えられる。一つは、深層心理に従う場合、学校・会社に行かず、表層心理で、別の構造体に所属し、別の自我を持つことである。それには覚悟が必要である。たいていの場合、覚悟なく、引きこもりになる。もう一つは、表層心理に従って学校・会社に行き、同級生・上司に、反論することである。しかし、たいていの場合、その勇気がなく、いじめられたり馬鹿にされたりする毎日が続くことになる。現在、世界は国という構造体で区分され、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。日本という国に生まれたから、日本という構造体に所属して、日本人という自我を持つから、愛国心が生まれてくるのである。自らが所属している国だから、その国を愛するのである。世界中の人々が、オリンピックやワールドカップで、自国チームや自国選手を応援し、楽しむことができるのも、愛国心があるからである。愛国心は、保身欲と承認欲に支えられているのである。国民という自我を持つと同時に、この自我を持ち続けたいという保身欲が生じ、他国の人々からこの国の存在を認めてほしいという承認欲も生まれてくるのである。国民という自我は国という構造体に所属することで持つことができるので、他国の人々によって自国を認めてほしいという承認欲も生まれてくるのである。すなわち、愛国心があるからこそ、他国民からの自国の評価が気になるのである。承認欲のなせる業である。ワールドカップやオリンピックで、自国チームや自国選手が勝利すれば歓喜し、敗北すれば絶望する。愛国心があるからこそである、自国チームや自国選手の活躍を期待しているからである。しかし、愛国心があるから、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、国を愛するように見えて、実は、国民という自我を愛しているに過ぎないのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、自我にとらわれた人間世界には、戦争が無くなることはないのである。人間世界が一つの構造体となって、初めて、地上に戦争が無くなるのである。しかし、それは、地球を襲うような生物や人間をターゲットにする異星人が出現しない限り、不可能である。人類を襲うようなものが出現しない限り、人間は地球人というアイデンティティをもつことができないのである。つまり、国民という自我を持ち、国民というアイデンティティをもっている限り、この世から戦争は無くならないのである。しかし、人間は、国民という自我を否定し、国民というアイデンティティを否定することはできないのである。なぜならば、人間は自我の動物であり、自我ににアイデンティティを覚えなければ、快楽を求めて行動できないからである。世界が国という構造体で区分されているから、それに応じて、全ての人が国民という自我を持って行動するしかないのである。誰一人として、例外が許されないのである。確かに、国民という自我が無ければ、戦争は起こらないが、ワールドカップやオリンピックを楽しめず、一人取り残されるのである。国民という自我にアイデンティティを失った人間には、精神の不安定が押し寄せるのである。それほど、自我にアイデンティティを覚えることは人間の存在に必須のことなのである。しかし、人間は、誰しも、生まれてくる家族を選べないのと同様に、生まれてくる国を選べないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その国に存在しているからである。日本という国に生まれたから、日本という構造体に所属して、日本人という自我を持つのである。そして、愛国心を持つのである。自らが所属している国だから、その国を愛するのである。もしも、中国、韓国に生まれていたならば、中国、韓国に愛国心を持つのである。だから、愛国心は声高に叫び、中国、韓国に敵が心を燃やすことは笑止千万である。。アメリカを同盟国として尊重している日本人は多いが、アメリカ国民は、アメリカに愛国心を持ち、日本を利用しているだけなのである。次に、欲動の第二の欲望は承認欲であるが、それは自我を他者に認めてほしいという欲望である。人間(自我)は他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理は、必ず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンに「人は他者の欲望を欲望する。」という言葉がある。「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」という意味である。この言葉が、承認欲を端的に言い表している。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである・つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められていないという思いから来る苦悩なのである。学校・会社という構造体に行きたくないのは、生徒・会社員という自我の承認欲が阻害されているからである。同級生・教師や同僚・上司などの他者から生徒や会社員という自我が好評価・高評価を得たいという承認欲を持って学校や会社という構造体に行くのだが、毎日のように、彼らから悪評価・低評価を受けると、心が傷付き、憂鬱になるのである。深層心理は、そこから逃れるために、自我の欲望として、憂鬱な感情と学校・会社という構造体に行ってはいけないと行動の指令を生み出し、生徒・会社員に不登校・不出勤を促すのである。しかし、時には、深層心理は、この状況を打破するために、怒りの感情を生み出すことがある。人間にとって、最も強い感情は怒りである。深層心理が怒りの感情を生み出し、自我である人間を、深層心理の行動の指令通りに動かして、彼らの下位にある自我を上位にして、傷心の感情から解放されようとするのである。深層心理は、自我を傷つけた他者に対して、怒りという過激な感情と反論しろ・侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、下位の自我を上位にするために、人間を動かそうとするのである。稀には、殺せという行動の指令を生み出すこともある。人間は、過激な怒りの感情を抱くと、深層心理の超自我や表層心理の意志で抑圧しようとしてもできず、他者に対して、反論しろ・侮辱しろ・殴れ、稀には、殺せなどの深層心理の指令通りに過激な行動を起こし、悲劇、惨劇を生むのである。ロシア、ウクライナの兵士や国民、イスラエル、ハマスの兵士は、軍隊、国という構造体内の他者から評価されたいから戦うのである。次に、欲動の第三の欲望が支配欲であるが、それは自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。他者という対象に対する支配欲とは、自我が、他者を支配する欲望、他者を思うように動かす欲望、他者のリーダーになる欲望である。自我がそのような状態になれば、喜び・満足感が得られるのである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。ロシアのプーチン大統領や北朝鮮の金正恩最高指導者が、敵対勢力である政治家やジャーナリストを弾圧したり殺害したりするのは、この支配欲からである。さらに、わがままも、支配欲から起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。物という対象に対する支配欲とは、自我の目的のために、存在物を物として利用しようとすることである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物として利用できれば、存在物を支配するという快楽を得られるのである。現象という対象に対する支配欲とは、自我の志向性(観点・視点)で、現象を捉えようとすることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば充実感が得られるのである。さらに、対象への支配欲が強まると、深層心理には、有の無化、無の有化という二つの機能が生まれる。有の無化とは、この世に、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象が存在していると、深層心理が、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。自己正当化によって、心に安定を得ようとするのである。もう一つは、無の有化という機能である。この世に、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象が存在しなければ、深層心理が、存在しているように思い込むというということである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定を得ようとするのである。さて、欲動の第一の欲望は保身欲であるが、それは自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。欲動の第四の欲望は共感欲であるが、それは自我が他者と深く交流を図りたいという欲望である深層心理は、自我を他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うようにさせることによって、快楽を得ようとするのである。深層心理は、自我を、他者と心を交流させたり、愛し合ったりさせれば、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものになるので、喜び・満足感が得られるのである。さらに、敵とする者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感欲から起こる。共通の敵がいるから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに相手に身を委ね、相手の意見を聞き、共通の敵に立ち向かうのである。ロシア政府、ウクライナ政府、イスラエル政府、ハマスは、国民や庶民に、共通の敵を作り出すことによって、戦争を推し進めているのである。また、深層心理が自我に友人を作らせようとするのは、一人の自我で行動するのは不安だから、同じ境遇の他者を仲間とし、友情という共感欲の快楽を得るためである。つまり、友情があるから友人になるのではなく、一人の自我では不安だから友人を作り、仲間という集団を作り、友情を育むのである。そして、学校では、仲間という集団で、ある一人をターゲットにして敵としていじめ、共感欲を満たすのである。ターゲットになるのは、弱い女子生徒、弱い男子生徒、時には、弱い教師である。仲間で勝利という快楽得たいから、ターゲットになるのは、常に、弱小の個人である。また、ターゲットに恨みはなくても、仲間という構造体から離れ、友人という自我を失うことが不安だから、仲間と一緒になって、嫌がらせをしたり暴力を加えたりすることもある。それは、保身欲から起こっている。そして、自殺に追い込むことがあるのである。また、若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、許し合うことだからである。恋人いう自我と恋人いう自我で互いに共感欲を満たし、愛し合っているという快楽を得ることができるのである。しかし、時には、相手から別れを告げられることがある。そして、ストーカーになる人もいる。ストーカーになるのは、カップルという構造体が消滅し、恋人という自我を失い、保身欲が阻害されるのが辛いから、相手に付きまとうのである。そして、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙にその辛さから逃れようとする者も現れるのである。このように、深層心理は、欲動に動かされ、自我に執着するあまり、自我の欲望を生み出して、人間に、愚かなことを行わせるのである。自我の欲望は圧倒的に強い。それは行動の原点だからである。だから、人間が主体的に生きるのは非常に難しい。自我の欲望にとらわれて生きても誰も非難できない。それでも、主体的に生きたいのならば、構造体から追放され、死を与えられる覚悟を持って思考し行動しなければならない。それは至難の業である。









コメントを投稿