あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

怒っても泣いても、現実はそこにある。(人間の心理構造その13)

2023-03-03 13:44:12 | 思想
シェイクスピアの悲劇『ハムレット』の中で、ハムレットは「生きていくか死ぬかそれが問題だ」と独白している。しかし、多くの人間は、日々、「生き死にの問題」でないことで苦しみ、時には、自殺する者もいるのである。「問題」そのものが問題なのではない。感情が問題なのである。なぜならば、人間には、感情があるから、「生き死にの問題」ではない問題に苦しみ、時には、苦しみのあまり自殺に向かう人もいるのである。また、ヘーゲルは「現実は理性的であり、理性は現実的である」と言った。言い換えれば、人間は、理性的であれば、すなわち、冷静に論理的に思考すれば、現実を正確にとらえることができるのである。しかし、実際には、現実を正確にとらえることができる人間はほとんどいない。それは、なぜか。感情が理性の目を狂わせるからである。感情が、ある時には、現実を、実態以上に矮小して見せ、ある時には、現実を、実態以上に誇張して見せるのである。しかし、人間は、感情が動かなければ、現実が浮かび上がってこないのである。そこが、「生き死にの問題」以上の問題である。さて、人間は、誰しも、平穏な毎日を送りたいと思っている。しかし、人間は、毎日のように、家庭を出て、高校などの学校や会社などの職場に行くが、そこでは、必ず、不幸な目に遭う人がいる。高校では、担任教師に、成績不良、遅刻などの理由で、大声で叱られる生徒、会社では、課長などの上司に、書類不備、ノルマ未達成の理由で、大声で叱られる社員がいる。そのような時、例外なく、生徒の心、社員の心は傷付く。そして、うなだれる。高校生、会社員という自我が下位に落とされ、プライドが傷付けられたからである。すなわち、承認欲が阻害されたからである。生徒、社員は、学校や会社で、他者に認めれるように行動しているが、それが、認められるどころか、貶され、プライドがずたずたにされたから、心が傷付き、うなだれたのである。中には、泣き出す生徒や社員もいる。しかし、大声で叱った担任教師も課長も心が傷付いているのである。担任教師も課長も、学校や会社で、業績を上げて、他者に認めれるようとして、すなわち、承認欲を満たそうとして、生徒や部下を指導しているからである。生徒に、成績不良者、遅刻者が出ると、担任教師は、校長や教頭などの上司に指導力不足を指摘される虞がある。自我が下位に落とされ、プライドが傷付けられた担任教師は、怒りの感情で、成績不良の生徒、遅刻した生徒を大声で叱るのである。また、部下に、不備の書類を提出する者、ノルマ未達成者がいると、課長は、社長や部長などの上司に指導力不足を指摘される虞がある。そして、自我が下位に落とされ、プライドが傷付けられた課長は、怒りの感情で、不備の書類を提出した部下の社員、ノルマ未達成の部下の社員を大声で叱るのである。しかし、怒りの感情にかられて大きな声を上げる者も、心が傷付いてうなだれる者も、哀しみの感情に陥って泣く者も、熟考して行っていない。思わず行っているのである。なぜ、「思わず」なのか。これらの感情も行動も、無意識の動きだからである。すなわち、人間が自ら思考して意志によってこれらの感情、行動を起こしていないのである。人間は、自ら意識せずして、心の中に感情が生まれ、感情に駆られて行動してしまうのである。人間の無意識の精神活動を深層心理と言う。すなわち、深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。生徒や社員が、うなだれたのは、自我ではどうすることもできない状況に陥り、深層心理が哀しみの感情を持ったからである。担任教師や課長が、大きな声を上げて叱ったのは、自我が傷つけられ、深層心理が怒りの感情を持ったからである。つまり、深層心理が、自我の欲望として、哀しみという感情とうなだれろという行動の指令を生み出したから、哀しみの感情が動力になって、生徒や社員に、うなだれることを強いたから、生徒や社員はそれに従ったのである。深層心理が、自我の欲望として、怒りの感情と大声で叱れという行動の指令を生み出したから、怒りの感情が動力になって、担任教師や課長に、大声で叱ることを強い、担任教師や課長はそれに従ったのである。それでは、なぜ、深層心理は、自我を主体にして思考するのか。なぜ、自分ではなく自我なのか。それは、自分とは自らを指す言葉であるが、抽象的な存在でしかないからである。人間は。この世に生まれ、社会生活を営みながら生きていくには、自我という具体的な形になって行動するしかないのである。それでは、自我とは何か。自我とは、構造体の中で、他者からある特定の役割を担ったポジションが与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。先の例で言えば、高校生、担任教師、教頭、校長という自我は、高校という構造体の中にあるのである。会社員、課長、部長、社長という自我は、会社という構造体の中にあるのである。他者とは、構造体内の人々である。他人とは構造体外の人々である。構造体には、さまざまなものがあるが、自我も、その構造体に応じて、さまざまなものがある。国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我がある。県という構造体では、知事・県議会議員・県職員・県民などの自我がある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我がある。夫婦という構造体では、夫・妻という自我がある。店という構造体では、店長・店員・客などの自我がある。電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我がある。仲間という構造体では、友人という自我がある。カップルという構造体では恋人という自我があるのである。人間は、常に、ある構造体に所属して、ある自我として行動しているのである。構造体を離れて、自我無くして、人間は、社会生活を営むことはできないのである。すなわち、この世では、生きていけないのである。さて、深層心理は、常に、構造体の中で、自我を主体に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているが、決して、無目的に思考をしているのではない。快楽を求めて思考しているのである。深層心理は、その時その場での快楽を求め不快を避けようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。フロイトは、深層心理のその時その場での快楽を求め不快を避けようと思考する動きを快感原則と呼んだ。しかし、深層心理は、恣意的に思考していない 欲動に基づいて思考しているのである。深層心理は、自我を、欲動が満足するような状況にすれば、快楽が得られるので、欲動に基づいて思考するのである。すなわち、欲動が深層心理を動かし、深層心理が人間を動かしているのである。つまり、深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体にして、欲動に基づいて、快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。しかし、欲動には、道徳観や社会的規約を守ろうという欲望はは備わっていない。
だから、人間が、深層心理が生み出した自我の欲望に従って行動している限り、人間世界がある所では、犯罪が消滅することはないのである。道徳観や社会的規約は、人間が社会秩序を維持するために考え出したものである。人間の意識した精神活動を表層心理と言う。すなわち、人間が、表層心理で、人間世界を意識して思考して、社会秩序を守るために、道徳観や社会的規約を作り出したのである。だから、道徳観や社会的規約は、地域によって異なり、時代とともに変化するのである。それでは、欲動とは何か。欲動とは深層心理に内在していている四つの欲望である。この四つの欲望が深層心理を内部から突き動かしているのである。欲動の第一の欲望は、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。
これが、最も強く、深層心理に影響を与えているのである。自我あっての人間であり、自我なくして人間はこの世に生きていけないからである。だから、担任教師に大声で叱られた生徒は、高校生という自我を失うのを恐れて、翌日も高校に行くのである。課長に大声で叱られた社員は、会社員という自我を失うのを恐れて、翌日も会社へ行くのである。そして、この保身欲は、自我の確保・存続・発展させたいという欲望だけでなく、当然のごとく、構造体を存続・発展させようという欲望に繋がっていく。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではなく、自我のために構造体が存在するのである。さて、 現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心とは、自分が所属している国という構造体で、国民という自我を保持し続けたいという保身欲から発した感情である。愛国心があるからこそ、自分が所属している国の動向が気になり、自分が所属している国の評価が気になるのである。国の動向が気になるのは、自分の所属している構造体が存続・発展してほしいという保身欲からである。国の評価が気になるのは、世界中の人々に自分の所属している構造体を評価してほしいという承認欲からである。まさしく、自我や自我が所属している構造体をを他者・他人に認めてほしいという承認欲こそ、欲動の第二の欲望である。自我や自我が所属している構造体を他者に認めてもらうことによって、快感原則を満たそうとする、すなわち、快楽を得ようとするのである。確かに、愛国心があるからこそ、支配欲、承認欲が生まれ、オリンピックやワールドカップが楽しむことができるのである。敵選手や敵チームに勝ちたいという支配欲、勝利すれば、世界から認められるという承認欲が満たされるからである。しかし、愛国心があるからこそ、北方四島、尖閣諸島、竹島という島々を獲得しようという支配欲が生まれるのである。愛国心があるからこそ、自国は被害を受けている国だからら戦わなければならないという承認欲によって戦争を起こすことを主張する者も存在するのである。そして、戦場では、支配欲によって敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。この支配欲こそ、欲動の第三の欲望である。また、戦争が起こってしまえば、国民全体は国の勝利という一つの目的に向かってと団結するという共感欲を満たすために戦うのである。この共感欲こそ、欲動の第四の欲望である。つまり、愛国心と言えども、単に、欲動の保身欲、承認欲、共感欲に動かされて、深層心理が生み出した自我の欲望に過ぎないのである。一般に、愛国心は、文字通り、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、世界中の人々に、自我が所属している国の存在を認めてほしい、評価してほしいという自我の欲望である。深層心理は、すなわち、人間は、自分が所属している国の存在が認められ、評価されれば、国民という自我もまた認められ、評価されたような気になるのである。先の例で言えば、学校という構造体で、生徒は、高校生という自我を、教師や他の生徒に認められたいという承認欲を持って過ごしているが、逆に、担任教師に大声で怒られたので、心が傷付いたのである。同じように、会社という構造体で、社員は、会社員という自我を、上司や同僚に認められたいとという承認欲を持って過ごしているが、逆に、課長に大声で怒られたので、心が傷付いたのである。また、生徒を大声で叱った担任教師も、担任教師という自我を、校長や教頭などの上司に認められたいという承認欲を持って過ごしているが、逆に、自分のクラスに、成績不良者、遅刻者が出たので、校長や教頭などの上司に指導力不足を指摘されると思い、心が傷付き、怒り、成績不良の生徒、遅刻した生徒を叱責したのである。社員を大声で叱った課長も、課長という自我を、社長や部長などの上司に認められたいという承認欲を持って過ごしているが、逆に、部下の社員に、不備の書類を提出した者、ノルマ未達成の者が出たので、社長や部長などの上司に指導力不足を指摘されると思い、心が傷付き、怒り、不備の書類を提出した部下、ノルマ未達成の部下を叱責したのである。さて、次は、欲動の第三の欲望であるが、それは、自我によって、他者・物・現象という対象を支配したいという支配欲である。自我の志向性(観点・視点)で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとするのである。先の例で言えば、自国の主張が正しい、自国は被害国である、相手国は本当は自国の領土であるなどの志向性で支配欲を満たすために戦争を引き起こし、戦場では殺さなければ殺されるという志向性で、支配欲によって、敵国の人間という理由だけで殺すのである。学校という構造体では、教師は、教育方針という志向性で、生徒という他者を対象にして支配し、快楽を得ようとしている。会社という構造体では、社長は、社訓という志向性で、社員という他者を対象にして支配し、快楽を得ようとしている。学校という構造体では、教師は、チョークという対象を道具として支配して、黒板に向かい、授業を行い、快楽を得ようとしている。会社という構造体では、社員は、パソコンという対象を道具として支配して、仕事をし、快楽を得ようとしている。学校という構造体では、校長は、卒業式において、社会現象を、自我の志向性で解釈して、式辞として、卒業生に送り、快楽を得ようとしている。会社という構造体では、社長は、世界の動きを、自我の志向性で解釈して、会社の方針を打ち出して、快楽を得ようとしている。欲動の第四の欲望は、自我の趣向性に合った他者と理解し合いたい、愛し合いたい、協力し合いたいという共感欲である。また。自然鑑賞や芸術鑑賞などによって起こる感動も、その対象のものが自我の趣向性に合っているからであり、共感欲を満足したからである。趣向性とは、簡単に言えば、好みである。すなわち、好みに合った他者、すなわち、気の合った他者と心を交流することによって、快楽を得るのである。学校という構造体では、生徒は、気の合った生徒と仲間という構造体を作り、友人という自我を持ち、心を交流しながら、楽しく暮らそうとするのである。会社という構造体では、社員は、気の合った社員と同僚という構造体を作り、友人という自我を持ち、心を交流しながら、楽しく暮らそうとするのである。また、旅行へ行ったり美術館に行ったりするのは、自然鑑賞や芸術鑑賞などによって共感欲を満足させ、快楽を得たいがためである。そして、先に例として挙げた、国民全体が国の勝利という一つの目的に向かってと団結するということも共感欲から起こっているのである。それは、「呉越同舟」の現象である。「呉越同舟」とは、「仲の悪い者同士でも、共通の敵が現れると、協力して戦うこと」である。まさしく、敵国という共通の敵が現れたから、国民全体が協力して戦うのである。このように、深層心理は、自我を主体に立てて、快楽を求めて、保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という欲動の四つの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて、行動しているのである。それでは、なぜ、日常生活は同じようなことを繰り返すルーティーンになっているのか。それは、超自我の機能よるのである。超自我とは、深層心理に存在し、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から発した、自我に毎日同じことを繰り返させようとし、異常な行動を抑圧する機能である。人間が、無意識のうちに、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、深層心理に存在している超自我の機能によるのである。また、人間は、表層心理で自らを意識して思考することが無ければ楽だから、ルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。しかし、時には、ルーティーンから外れたことが起こる。その場合、ルーティーンから外れたことに対処するために、深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。深層心理が、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した時、超自我は機能しない。なぜならば、超自我はルーティーンの生活を守るための機能だが、既に、ルーティーンから外れたことが起こっているからである。深層心理が、ルーティーンから外れたことが起こったと判断したから、それに対処するために、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かそうとするのである。深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すと、人間は、表層心理で、自我を意識して、すなわち、自我の状態や自我を取り巻く状況を意識して、思考するのである。つまり、ルーティーンから外れたことが起こると、すなわち、深層心理がルーティーンから外れたことが起こったことを認識すると、人間は、表層心理でも、自我の状態や自我を取り巻く状況を意識するのである、すなわち、自我の状態や自我を取り巻いている状況に気付くのである。人間は、表層心理で、自我を意識して、すなわち、自我の状態や自我を取り巻く状況を意識して、深層心理が生み出した感情の下で、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に従って、深層心理が生み出した行動の指令に従って行動したならば、後に、自我がどうなるかと将来のことを案じて、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか抑圧するかを判断し、それを意志として、行動しようと考えるのである。人間が、表層心理で、自我を意識して、道徳観や社会規約を考慮して思考するのも、長期的な展望に立って、自我に現実的な利得をもたらそうと考えているからである。自我に現実的な利得をもたらそうとする欲望を、フロイトは現実原則と呼んだ。人間は、異常なことが起こると、深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すから、表層心理で、自我の状態や自我を取り巻いている状況を意識して、思考するのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決めて、意志でそのようにしようとしても、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまい、悲劇を生むのである。、先の例で言えば、担任教師に大声で叱られた高校生や課長に大声で叱られた会社員が、深層心理が生み出した行動の指令に従って、うなだれたのは、表層心理の意志による抑圧が無かったからである。そのように行動をすれば、明日も高校や会社に行くことができ、ルーティーンの生活が続けられるからである。しかし、もしも、担任教師に大声で叱られた高校生の深層心理や課長に大声で叱られた会社員の深層心理が、自我の欲望として、強い怒りの感情と担任教師や課長を殴れという行動の指令を生み出したならば、どのようになるだろうか。恐らく、表層心理での思考は、自我に現実的な利得をもたらそうとする欲望に基づいて思考するから、担任教師や課長を殴れという行動の指令を抑圧しようとするだろう。しかし、深層心理が生み出した感情が強い怒りの感情であるから、抑圧は成功せず、深層心理が生み出した行動の指令に従って、高校生は担任教師を殴り、会社員は課長を殴ってしまうだろう。そして、高校生は退学、会社員は馘首に処せられるのである。感情は、かくも恐ろしいのである。しかし、深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すから、人間は、表層心理で、感情とともに自我の状態と自我を取り巻いている状況を意識することができるのである。それと同時に、表層心理での思考が始まるのである。もしも、異常なことが起こらず、ルーティーンの生活が続けていたならば、深層心理は、感情を生み出すことなく、心境の下にある。心境は、感情と同じく、深層心理の情態である。情態は、気分とも表現され、人間の心の状態を意味している。しかし、心境は深層心理を覆っている情態であり、感情は深層心理が生み出した情態である。心境は、爽快、憂鬱など、深層心理に比較的長期に滞在する。感情は、喜怒哀楽や感動など、深層心理が行動の指令ととに突発的に生み出し、人間を行動の指令通りに動かす力になる。深層心理は、ほとんど、ある心境の下にあるが、時として、自我に関わる異常なことが起こると、心境を打ち破って、自我の欲望として、行動の指令とともに感情を生み出すのである。しかし、人間は、深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した時だけでなく、平穏な日常生活を送っている時にも、突然、自我を意識し、表層心理で思考する時がある。人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時に、自我の心境とともに自我の状態と自我を取り巻く状況を意識して、表層心理で思考するのである。それが、表層心理での現実原則に基づいた思考である。それでは、なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自我の心境とととに自我の状態と自我を取り巻く状況を意識するのか。それは、自我にとって、他者の存在は脅威であり、自我の存在を危うくさせる可能性があるからである。人間は、常に、他者に対して、警戒心を怠らないのである。さらに、人間は、一人でいても、無我夢中で行動していても、突然、自我の存在、すなわち、自我の状態と自我を取り巻く状況を意識することもある。無我夢中の行動とは、表層心理で自我を意識することの無い、無意識の行動である。そのように行動している時でも、一人でいても、突然、自我の存在を意識することがあるのである。それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じたからである。たとえば、高校生は、図書館で、一人で必死に勉強していて、そばを図書司書が通った時にも、誰も通らなくても、充実感に満ちた心境の下で人少なの図書館で一人勉強している自我を意識することがあるのである。つまり、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じた時、表層心理で、自我の存在を意識して、現実原則の視点から、思考するのである。それほど、他者の存在は、自我にとって絶対的なものなのである。他者とは、自我にとって、自らの存在を承認するものであるが否定するものでもあり、自我の存在を左右するものだからである。だから、サルトルは、「地獄とは他者のことである」と言ったのである。また、心境が他者を意識しつつ自我にルーティーンの生活を送らせ、感情が他者に対抗して人間にルーティーンの生活を打ち破る行動を起こさせるのであるが、それにとどまらない。人間は、ある心境の情態にある自我やある感情の情態にある自我に気付くことによって、自我の状態と自我を取り巻く状況に気付くのである。すなわち、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自我がこの世に存在していることの証なのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境が心を覆っているか感情が心に生み出されているかしているのである。つまり、心境や感情という情態こそ、自我がこの世に存在していることの証なのである。深層心理が、常に、心境や感情という情態を伴っているから、人間は表層心理で自我を意識する時は、常に、ある心境の情態にある自我やある感情の情態にある自我として意識するのである。人間は表層心理で心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、常に、ある心境もしくはある感情が深層心理に存在するから、人間は自我を意識する時には、常に、ある心境の情態にある自我もしくはある感情の情態にある自我として意識するのである。それにとどまらず、人間は、心境や感情という情態によって、自我の状態と自我を取り巻く状況の良し悪しを判断するのである。つまり、情態が自我の状態、自我を取り巻く状況を決定するのである。すなわち、深層心理が爽快などの快い心境にある時や深層心理が喜びなどの快い感情を生み出した時には、自我の状態や自我を取り巻く状況が良い状態にあるということを意味するのである。逆に、深層心理が陰鬱などの不快な心境にある時や深層心理が怒りなどの不快な感情を生み出した時には、自我の状態や自我を取り巻く状況が悪い状態にあるということを意味するのである。だから、人間にとって、現実とは、表層心理によって捉えられた、自我の状態や自我を取り巻く状況を意味するのである。一般に、現実は「現に事実としてあること、あるもの、ある状態」を意味するが、自我にとっての現実とは、自我の状態や自我を取り巻く状況を意味するのである。だから、自我の状態や自我を取り巻く状況は、心境や感情という情態によって色付けされたものなのである。心境は、ルーティーンの生活を維持するために、深層心理に長く存在する。人間は常に他者に対して警戒心を持っているから、ルーティーンの生活を送っていても、他者の存在を感じた時、一人でいる時、無我夢中で行動している時に、突然、表層心理で、心境とともに自我の存在、すなわち、自我の状態と自我を取り巻く状況を意識することがあるのである。この時の自我の状態と自我を取り巻く状況が、人間にとってのその時の現実なのである。感情は、ルーティーンの生活をうち破るために、深層心理が、自我の欲望として、行動の指令とともに生み出したものである。深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した時、人間は、表層心理で、自我を意識し、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒否するかを思考するのである。この時の意識された自我が自我の状態と自我を取り巻く状況であり、人間にとっての現実なのである。「ありのままの現実」という言葉があるが、ヘーゲルの言う「絶対精神」とは、「ありのままの現実」を捉えた人間の精神である。ヘーゲルの言う「弁証法」とは、この世から「ありのままの現実」を取り戻す方法なのである。しかし、自我にとらわれている人間には、「ありのままの現実」は存在しないのである。人間にとっての現実は、欲動の渦に飲み込また、自我の状態と自我を取り巻く状況であり、「ありのままの現実」ではないのである。深層心理は、欲動の保身欲によって、心境という静謐な情態によって、ルーティーンの生活を維持させている。人間は、平穏な日常生活を送っている時にも、他者に対する警戒心から、突然、表層心理で、自我を意識することがある。すなわち、自我の状態と自我を取り巻く状況を意識する。この自我の状態と自我を取り巻く状況こそ、人間にとっての現実である。また、日常生活において、異常なことが起こると、深層心理が、欲動の保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望によって、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。その時、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について、現実原則の志向性で、諾否の判断をするために思考する。異常なこととは、深層心理が異常とした理解した自我の状態と自我を取り巻く状況である。人間は、表層心理でも、深層心理が異常として浮かび上がらせた自我の状態と自我を取り巻く状況を自我として意識するのである。この自我の状態と自我を取り巻く状況をこそ、人間にとっての現実である。それでは、人間は、心境や感情に曇らされることなく、ルーティーンの生活に流されることなく、自我の欲望に動かされことなく、すなわち、自我にとらわれることなく、冷静に、客観的に、現実を捉えることができるだろうか。すなわち、「ありのままの現実」を認識することができるだろうか。先の例で言えば、高校で、成績不良者、遅刻者が出たことが「ありのままの現実」である。そして、他の生徒たちがいる前で、担任教師に、大声で叱られたのも、「ありのままの現実」である。しかし、高校生にとっての現実とは、成績不良、遅刻を理由に、他の生徒たちがいる前で、担任教師に、大声で叱られ、心が傷付き、うなだれたことである。彼の深層心理は、承認欲が阻害され、自我の欲望として、傷心の感情とうなだれるように行動の指令を生み出し、彼は、表層心理で、その自我の状態や自我の状況を現実として認識し、受け入れるしかなかったのである。担任教師にとっての現実とは、自分のクラスの生徒に、成績不良者、遅刻者が出たので、承認欲が阻害され、怒りの感情で、他の生徒たちの前で、その生徒を大声で叱ったことである。また、会社で、不備の書類を提出した者、ノルマ未達成者が出たことがが「ありのままの現実」である。会社員にとっての現実とは、書類不備と、ルマ未達成を理由に、他の社員たちがいる前で、課長にに、大声で叱られ、心が傷付き、うなだれるしかなかったことである。課長にとっての現実とは、部下に、不備の書類を提出した者、ノルマ未達成者が出たので、承認欲が阻害され、怒りの感情で、他の社員たちの前で、その部下を大声で叱ったことである。また、北方四島、尖閣諸島、竹島という島々が存在していることが「ありのままの現実」である。しかし、欲動の支配欲、承認欲よって、日本、ロシア、中国、韓国が占有権を主張するのである。だから、次のようになるのである。日本にとっての現実とは、北方四島は自国に属するのに、ロシアが不当に支配していることである。ロシアにとっての現実とは、北方四島を自国が支配するのは正当な権利なのに、不当に日本が抗議していることである。中国にとっての現実とは、尖閣諸島は自国に属するのに、日本が不当に支配していることである。日本にとっての現実とは、尖閣諸島を自国が支配するのは正当な権利なのに、中国が不当に抗議していることである。日本にとっての現実とは、竹島は自国に属するのに、韓国が不当に支配していることである。韓国にとっての現実とは、竹島を自国が支配するのは正当な権利なのに、不当に日本が抗議していることである。また、図書館で勉強していた高校生の場合、「ありのままの現実」も、その高校生にとっての現実も、高校生が図書館で勉強しているということで、一見、一致しているように見える。しかし、その高校生が図書館で勉強することはルーティーンの生活であり、充実感という心境に裏打ちされているのである。充実感に満ちた心境の下で人少なの図書館で一人勉強しているということが、その高校生とっての現実である。つまり、図書館で勉強している自我を意識したから、現実となったのである。だから、本人だけの現実である。欲動の保身欲から来る他者に対する警戒心から、図書館で勉強している自我に気付いたのである。その高校生の場合だけ、「ありのままの現実」と自我にとっての現実が一致して見えるのは、突然、自我を意識し、自我の状態と自我を取り巻く状況を意識したからである。すなわち、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を通さずに、いきなり、表層心理の、保身欲によって、自我の状態と自我を取り巻く状況を捉えたからである。ルーティーンの生活をしている時でも、このように、突然、欲動の保身欲から来る他者に対する警戒心から、自我の状態と自我を取り巻く状況を意識することは起こるのである。それに対して、ルーティーンから外れたことが起こった時は、それに対処するために、深層心理は、自我を主体に立てて、快楽を求めて、保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という欲動の四つの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。この時、人間は、表層心理で思考することになる。人間は、表層心理で、現在の自我の状態と自我の状況を意識して、深層心理が生み出した感情の下で、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に従って、深層心理が生み出した行動の指令に従って行動したならば、後に、自我の状態と自我の状況がどうなるかと将来のことを考え、行動の指令の諾否を判断するのである。つまり、ルーティーンから外れたことが起こった時には、深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望をを生み出すから、人間は、表層心理で、現在の自我の状態と自我の状況を意識して、思考するのである。意識された現在の自我の状態と自我の状況が、その人にとって、現実になるのである。だから、だれだけ、「ありのままの現実」があっても、人間の現実とならなければ、人間にとって、無意味なのである。深層心理が、「ありのままの現実」を、欲動の保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望によって解釈して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出さなければ、有名無実の存在なのである。深層心理が、「ありのままの現実」を、欲動の保身欲によって解釈して、心境に裏打ちされて、ルーティーンの生活を形成しなければ、有名無実の存在なのである。すなわち、深層心理によって解釈された「ありのままの現実」が自我にとっての現実になるのである。もちろん、その現実は「ありのままの現実」と異なっている。しかし、その現実を現実として受け止めなければ、すなわち、深層心理の欲動によって解釈された自我の状態と自我を取り巻く状況を現実として受け止めなければ、生きていけないのである。しかし、それでも、人間は、表層心理で、「ありなままの現実」を追究し続けなければならないのである。それは、深層心理が生み出した自我の欲望に支配されないためである。





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