あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

臆病な人間について。(人間の心理構造その14)

2023-03-08 16:37:32 | 思想
臆病な人間は、教師に叱られ、同級生に嫌味を言われても、反論も反抗もせず、明日も、今日と同じように、登校するだろう。そして、明日も、今日と同じように過ごして、帰宅するだろう。臆病な人間は、上司に叱られ、同僚に嫌味を言われても、反論も反抗もせず、明日も、今日と同じように、出社するだろう。そして、明日も、今日と同じように過ごして、帰宅するだろう。臆病な人間は、無駄な時間だとわかっていても、友人に会いに行くだろう。そして、次回も、同じ友人に会い、今日と同じようなことをして過ごして、帰宅するだろう。臆病な人間は、裏切られているとわかっていても、恋人に会い、飲食代は自分で払うだろう。そして、次回も、同じ恋人に会い、今日と同じようなことをして過ごして、帰宅するだろう。臆病な人間は、今日、家に引き籠もっていれば、明日も、今日と同じように、家に引き籠もり、明日も、今日と同じようなことをして、一日を過ごすだろう。つまり、臆病な人間の日常生活は、毎日同じようなことを繰り返すルーティーンになっているのである。彼が、飽きもせず、ルーティーンという毎日同じようなことを繰り返して生活をしているのは、深層心理の思考に従って行動しているからである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。すなわち、臆病な人間は、表層心理で思考することなく、深層心理の思考に従って行動しているから、毎日がルーティーンの生活になるのである。表層心理とは、人間の自らを意識しての精神活動である。もしも、毎日、表層心理で、自らを意識して、一日の生活を思考し、意志で行動すれば、日々の生活は多岐にわたったものになるだろう。すなわち、日常生活がルーティーンにならないだろう。つまり、臆病な人間の日常生活が毎日同じようなことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。さらに、行動だけでなく、気持ちもルーティーン化しているのである。ルーティーン化している気持ちを心境と言う。人間は、朝、目覚めると、爽快な気持ちの人と憂鬱な気持ちの人がいる。今日することや今日しなければいけないことを思って、爽快な気持ちになったり憂鬱な気持ちになったりしているのである。しかし、人間は、表層心理で自らを意識して、今日することや今日しなければいけないことについて考えたのではない。無意識のうちに考えたのである。すなわち、深層心理が、今日することや今日しなければいけないことについて考えるのである。しかも、毎朝、それについいて考え、同じような気持ちに陥るのである。すなわち。気持ちもルーティーン化し、心境になっているのである。しかし、臆病な人間は、憂鬱な気持ちになっても、学校や会社で、自己主張しないから、状況は一向に改善されず、いつも、憂鬱な心境で、登校、出社するのである。すなわち、同じような心境に陥り、同じように行動するのである。臆病な人間は、心境に支配され、ルーティーンの生活は続けていくのである。人間は、深層心理が思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて行動しているが、深層心理が心境を追いやるような強い感情を生み出し、行動の指令で人間を動かさない限り、人間はルーティーンの生活を破ろうとはしないのである。深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しても、その感情が心境に埋没するような弱いものならば、超自我に抑圧されて、ルーティーンの生活は続いていく。超自我とは、欲動の保身欲から発した、深層心理に内在する、毎日、同じようなことを繰り返すルーティーンの生活を維持させようとする機能である。臆病な人間の超自我の力は強く、たとえ彼が不幸に感じる時があっても、彼のルーティーンの生活を維持させようとするのである。深層心理が非常に強い感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、心境を追いやり、行動の指令で動かさない限り、臆病な人間はルーティーンの生活を破ろうとはしないのである。なぜ、超自我が、ルーティーンの生活を守ろうとするのか。それは、ルーティーンを守れば、自我を存続でき、自我の力を発揮する足がかりが確保できるからである。超自我の力は強い人間は、ひたすら、ルーティーンの生活を守り、自我を存続させようとするから、臆病になるのである。それでは、自我とは何か。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、構造体の中で、自我を持って、繰り返して暮らしているのである。人間は、毎日、家、学校、会社、店、仲間、カップルなどの構造体で、自我を持って、同じようなことを繰り返して暮らしているのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣、国会議員、官僚、国民などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。自我を持つとは、ある構造体の中で、あるポジションを得ることである。人間は、自我を持って、初めて、自らの力を発揮するための足がかりを得たのである。そして、他者からそれが認められて、初めて、自らの力を発揮するための舞台が整うのである。他者から自我が認められ、自らが自らの自我に満足している状態がアイデンティティーが確立された状態である。人間は、自我をもち得て、アイデンティティーが確立された状態になって、初めて、自らの力を発揮するための舞台が整うのである。しかし、臆病な人間は、同じ構造体で、同じ自我を持って、同じようなことを繰り返すこと自体が自らの力を発揮していることだと思い込んでしまっているのである。つまり、同じ自我を維持することが目的になっているのである。また、臆病な人間の日常生活がルーティーンになるのは、心境が強いだけでなく、彼は表層心理で自らを意識して思考することが無ければ楽だから、深層心理の思考に従っているのである。だから、臆病な人間は、本質的に保守的なのである。しかし、臆病な人間の臆病性は臆病性は人間の本質に根ざしているのである。臆病な人間は、自我に執着するあまり、反論や反抗をすべきなのに、それをせず、たが、ひたすら、毎日、同じように、学校や会社などに行き、同じ人に会い、もしくは、家に引きこもって、同じことをするが、人間は、同じことを繰り返すものやことしか存在として認識できないのである。人間が、同じことを繰り返すものやことしか理解できないから、無意識のうちに、同じことを繰り返すものやことだけが存在していると思い込んでいるのである。だから、自然科学でも社会科学でも、法則は、同じことを繰り返すものやことだけを対象にしているのである。さらに、それらが、永遠に存在していないと不安だから、永遠に存在していると思い込んでいるのである。もちろん、同じことを繰り返すのは、人間自身にも当てはまるのである。人間は、自らの命が繰り返さないと存在していると実感できないのである。つまり、自らの命が永遠に存在していないと不安だから、自分が死んでも、子孫が連綿と自分の命をつないで、自分の永遠の命を保証してくれると思い込んでいるのである。さらに、それで満足できず、自分が死んでも、あの世が存在し、そこには、神や仏が存在し、自分の永遠の命を保証してくれると思い込んでいるのである。







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