あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、意志としての自己として生きているのではなく、欲望としての自我として生かされている。(自我その525)

2021-09-19 14:24:06 | 思想
人間には、自分そのものは存在しない。自我が生きているだけである。人間は、意志としての自己として生きているのではなく、欲望としての自我として生かされているのである。人間は、毎日、同じ場所で、同じ人と会い、同じようなことをして暮らしている。それを、ルーティーンと言う。人間は、毎日、構造体という同じ場所で、他者という人に同じ会い、同じ自我を持って、同じようなことをして、ルーティーン通りに暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったポジションが与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・男児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・女児などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動しているのである。だから、ある人は、人間という構造体では女性という自我を持ち、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では母という自我を持ち、学校という構造体では教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持って、行動しているのである。また、ある人は、人間という構造体では男性という自我を持ち、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では夫という自我を持ち、会社という構造体では人事課長という自我を持ち、コンビニという構造体では来客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我を持って行動しているのである。だから、人間は自分にこだわって生きているが、自分とは、自らを他者や他人と区別している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、同じ構造体の人々である。他人とは、別の構造体の人々である。すなわち、自分とは、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と区別しているあり方なのである。だから、人間には、自分そのもの存在しないのである。人間には、自分そのものは存在せず、別の構造体に入れば、別の自我を持ち、別の自我になるだけなのである。人間は、孤独であっても、孤立していても、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、他者と関わりながら、暮らしているのである。人間は、別の構造体に所属すれば、別の自我を持つのである。だから、人間は、自我を有して生まれていず、自我が持つ能力を有して生まれてくるのである。人間は、カオスの状態で、動物として生まれてくるのである。人間は、カオスの状態で生まれてきて、不安だから、コスモスの状態を求め、構造体に所属し、自我を持つようにできているのである。人間は、構造体に所属し、自我を有して、初めて、人間としての思考が生まれてくるのである。もちろん、それは、自我を主体にしての思考である。人間の最初の構造体は家族であり、最初の自我は息子・娘である。人間は、家族という構造体に所属し、息子・娘だという自我が得られて、初めて、人間としての思考が生まれてくるのである。また、人間は、構造体に所属し、自我を持つようになって、精神が安定し、安心して、快楽を求めて思考し、行動できるようになるのである。幼児は、家族という構造体に所属し、息子・娘だという自我を得て、初めて、安心感を得て、快楽を求めて、思考し、行動できるのである。自我の成立は、アイデンティティーの確立を意味する。幼児が息子・娘という自我を持ったということは、動物を脱し、人間になったということ、つまり、人間界に入ったことを意味するのである。しかし、人間は、自ら意識して思考して、意志によって快楽を求めて行動しているのではない。深層心理が、自我を主体に立てて、心境の下で、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。深層心理の思考は、一般に、無意識と言われている。つまり、幼児が、家族という構造体の中で、息子・娘という自我を持ち、人間になった時から、幼児の深層心理が、息子・娘という自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、息子・娘という自我を持った人間を動かしているのである。深層心理に対して、人間の自らを意識しての精神活動を表層心理と言う。一般に言われる思考とは、人間の表層心理での思考である。しかし、人間は、表層心理の思考だけでは、行動できないのである。表層心理の思考では、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すことはできないからである。確かに、人間は、時には、表層心理で、自ら(自らの状態)を意識して、現実的な自我の利得を求めて、思考することがあるが、その時は、常に、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について許諾するか拒否するか審議しているのである。すなわち、人間は、時には、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、表層心理で、自ら(自らの状態)を意識して、現実的な自我の利得を求めて、深層心理が生み出した行動の指令について許諾するか拒否するか審議して、行動することがあるのである。だから、人間は、表層心理独自の思考では、行動できないのである。人間がルーティーンの生活を送られるのは、表層心理で思考していないからである。表層心理で思考していないから、同じような生活が続けられるのである。しかし、人間は思考せずにルーティーン通りの行動をしているのではない。自ら意識せず思考して、そのように行動しているのである。すなわち、深層心理が思考して、自ら意識すること無く、人間を動かし、ルーティーンの生活をさせているのである。しかし、一般に、無意識の行動とは、人間の例外的な行動を意味する。しかし、実際は、人間の生活のほとんどは無意識の行動なのである。むしろ、意識した行動が例外的なのである。なぜならば、人間は、毎日、意識すること無く、深層心理の思考して生み出した自我の欲望のままに行動しているからである。すなわち、人間の無意識のうちに、深層心理が思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かし、ルーティーンの生活をさせているのである。そして、ルーティーンの生活を破るようなことが起こった時、人間は、表層心理で、自らの状況を意識してその対応を思考し、行動することがあるのである。つまり、日常生活がルーティーンになっているのは、深層心理が思考して生み出した自我の欲望のままに行動していることを意味し、表層心理で、自らの状況を意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。また、人間は、表層心理で自らの状況を意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェは、「永劫回帰」という思想で、森羅万象が永遠に同じことを繰り返すと説いたが、まさに、その思想は人間の生活にも当てはまるのである。しかし、ほとんどの人は、毎日、常に、自らの状況を意識して思考し、自らの意志によって自らの肉体を動かし、行動していると思い込んでいるのである。人間の自らの状況を意識した肉体の活動を表層肉体と言う。つまり、ほとんどの人は、毎日、常に、表層心理で自らの状況を意識して思考し、自らの意志によって表層肉体を動かして行動していると思い込んでいるのである。確かに、人間は表層肉体で肉体を動かし、表層心理で思考する時がある。しかし、表層肉体で肉体を動かすことや表層心理で思考することは、人間の活動の一部にしか過ぎないのである。人間は、深層肉体と深層心理によって生かされているのである。深層心理が人間の無意識の精神の活動であるように、深層肉体とは人間の無意識の肉体の動きである。深層肉体は人間をパンを求めてひたすら生きるようにし、深層心理は人間をパンを食べる時にも快楽を求めて生きるようにしているのである。深層肉体のあり方は単純である。深層肉体とは、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志、すなわち、生きるために生きようという意志を持って、人間を生かしている肉体の活動である。深層肉体は、人間が精神的に、肉体的にどんな状態であろうと、ひたすら人間を生かせようとする。深層肉体は、人間の意識した意志によらず、深層肉体独自の意志によって、肉体を動かし、人間を生かそうとする。人間は、深層肉体の意志という肉体そのものに存在する意志によって生かされているのである。人間は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の意志によって生命が維持されているのである。深層肉体の典型は内蔵である。人間は、誰一人として、自分の意志で、内蔵の動きを止めることはできない。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、自分の意志で行っているのではない。人間の無意識のうちに、深層肉体が呼吸をしているのである。誰も、意識して息をしていないのである。人間が意識して息をしているのならば、寝入ると同時に、息が止まるはずである。確かに、深呼吸という意志による意識的な行為も存在するが、それは、意識して深く息を吸うということだけでしかなく、常時の呼吸は無意識の肉体の行為、すなわち、深層肉体の行為である。呼吸は、人間の深層肉体に備わっているあるから、人間は、無意識のうちに、息をして、生きていけるのである。心臓も、人間の意志で動いているのではない。だから、止めようと思っても、止めることはできないのである。心筋梗塞のような異常な事態に陥ったり、自らや他者が人為的にナイフを突き立てたりなどしない限り、止まらないのである。確かに、人工心臓は存在するが、それは、新しい心臓を作り出したのではなく、現に存在している心臓を模倣したものに過ぎないのである。さらに、胃も、人間の意志によって動いているのではない。心臓や肺と同じく、誕生と同時に、深層肉体の意志として、既に動いているのである。また、深層肉体は、人間が自殺に突き進んでも、人間を生かせようとする意志を捨てることは無い。だから、どのような自殺行為にも、肉体に苦痛が伴うのである。つまり、人間は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の働きによって、ひたすら生きるように仕向けられているのである。それと同様に、人間は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層心理の働きによって、ひたすら快楽を求めて生きるように仕向けられているのである。新約聖書に「初めに言葉ありき」という言葉がある。「この世は神の言葉によって作られた」という意味である。この世は、神の言葉以上に遡ることができないのである。ウィトゲンシュタインは「語りえないものについては沈黙しなければならない」と言う。神、倫理的なこと、論理そのものなどについて、誰しも語ることができないから、語ってはいけないという意味である。神、倫理的なこと、論理そのものなどは、感じ取ることができ、示すことはできるが、説明できないと言うのである。それと同様に、人間は、深層心理と深層肉体以上に遡ることができないのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。「言語によって構造化されている」と言うように、深層心理が言語を使って論理的に思考しているのである。ラカンが言うように、人間は無意識のうちに、深層心理が言語を使って論理的に思考しているのである。深層心理は、ひたすら、快楽を求め、不快を避けようと意志して、思考しているのである。深層心理の快楽を求め不快を避けようという意志も、深層肉体のひたすら生きようという意志と同様に、人間は、自ら意識して、生み出すことはできない。そして、自ら意識して、自らの意志によって、生み出すことをやめようとしても、やめることはできないのである。それは、深層心理そのものに、生来、備わっている意志だからである。さて、深層肉体、深層心理は、人間の無意識の活動であるが、人間は自我を持つことによって、肉体の活動は深層肉体と表層肉体に分離し、精神の肉体の活動は深層心理と表層心理に分離するのである。表層肉体とは、人間の自らを意識しての自らの意志による肉体の活動である。表層心理とは、人間の自らを意識しての自らの意志による精神の活動である。しかし、深層肉体の活動は、人間が自我を持っても、人間の誕生時と同じく、ひたすら人間を生かせようという意志で動いている。しかし、深層心理の活動は、人間が自我を持つことによって、人間という動物性から自我が主体にする人間性に変化するのである。すなわち、深層心理の、快楽を求め不快を避けようという意志に基づく思考の活動は、自我を主体にして行われるようになるのである。すなわち、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、構造体の中で、自我として、生きるしかないのである。人間は、常に、ある構造体に所属していて、ある自我を持って生きているが、深層心理が、人間の無意識のうちに、ある自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。心境とは、感情と共に、深層心理の情態を表している。心境は、爽快、陰鬱などの長期に持続する情態である。心境は、気分とも表現される。感情は、喜怒哀楽などの瞬間的に湧き上がる情態である。深層心理が爽快という心境にある時は、深層心理は現状に満足し、新しく行動の指令を生み出さず、現在の行動を維持しようとする。深層心理が陰鬱という心境にある時は、現状に不満を抱き続けているということであり、深層心理は現状を改革するために、どのような行動を生み出せば良いかと思考し続けることになる。深層心理が喜びという感情を生み出した時は、現状に大いに満足しているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が怒りという感情を生み出した時は、現状に大いに不満を抱いているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状を改革・破壊しようとするものになる。深層心理が哀しみという感情を生み出した時は、現状に不満を抱いているがどうしようもないと諦めているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状には触れないものになっているのである。深層心理が楽しみという感情を生み出した時は、将来に希望を抱いているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が、常に、心境や感情という情態に覆われているからこそ、人間は自分の存在を意識する時は、常に、ある心境やある感情という情態にある自分としても意識するのである。人間にとって、現在の状態が良いか悪いかの意識は、常に、心境や感情に掛かっているのである。さて、心境は、深層心理の底に流れているものであり、感情は深層心理が生み出すものであるから、人間は、表層心理で、感情を変えることができないように、心境も変えることはできない。しかし、心境が変わる時はある。それは、まず、深層心理が自らの心境に飽きた時に、心境が、自然と、変化するのである。気分転換が上手だと言われる人でも、表層心理で、意志によって、気分を、すなわち、心境を変えたのではなく、その人の深層心理が自らの心境に飽きやすく、心境が、自然と、変化したのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時、一時的に、深層心理の状態は、感情に覆われ、心境が感じられなくなる。その後、心境は回復するが、その時、心境は、以前のものとは異なったものになっている。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換をして、心境を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。そのようなことでしか、心境を変えることができないのである。だから、心境を変える方法を表層心理で思考するのである。「苦しんでいる人間は、苦しみが消えれば、それで良い。苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しみが消えたということが、問題が解決されたということを意味するのである。」とオーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタインは言う。苦しんでいる人間は、苦しみから逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。人間は、苦しいから、その苦しみから逃れるために、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、それを除去する方法を考えるのである。だから、苦しみが消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。たとえ、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ上げ、それを問題化して、解決する途上であっても、苦しみが消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。つまり、苦痛が存在しているか否かが問題が存在しているか否かを示しているのである。苦痛があるから、人間は考えるのである。苦痛が無いのに、誰が、考えるだろうか。それでは、なぜ、このようなことが生じるのか。それは、苦しみをもたらしたのは深層心理であり、その苦しみから逃れようと思考しているのは表層心理だからである。人間は、誰しも、苦しみを好まない。だから、人間は、誰しも、表層心理で、意識して、自らに苦しみを自らにもたらすことは無い。苦しみを自らにもたらしたのは、深層心理である。深層心理が、思考しても、乗り越えられない問題があるから、苦痛を生み出したのである。人間は、その苦しみから解放されるために、表層心理で、それを問題化して、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、解決の方法を思考するのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした苦痛から解放されるために、表層心理で、思考するのである。だから、苦痛が消滅すれば、思考も停止するのである。さて、深層心理が、人間の無意識のうちに、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているが、快楽を求めるとは、その時その場でひたすら快楽を求め、不快を避けようという欲望であり、そこには、道徳観や社会規約は存在しない。自我の欲望を満たすことによって、快楽を得ようとするのである。深層心理は、欲動に呼応すれば快楽を得ることができるので、欲動に基づいて思考するのである。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、その時その場でひたすら快楽を求めて、思考するのである。つまり、深層心理は、快楽を得るために、欲動に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。だから、深層心理は、欲動に基づいて思考するのである。つまり、深層心理は、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、心境の下で、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動が、深層心理を動かしているのである。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかをかなえば、快楽を得ることができるから、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。深層心理は、自我を保身化することによって、その欲望を満たそうとする。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。深層心理は、自我を対他化することによって、その欲望を満たそうとする。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。深層心理は、対象を対自化することによって、その欲望を満たそうとする。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。深層心理は、自我と他者を共感化することによって、その欲望を満たそうとする。人間が、毎日、構造体という同じ場所で、他者という人に同じ会い、同じ自我を持って、同じようなことをして、ルーティーンの生活をしていけるのは、深層心理が欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているからである。しかし、時には、自我が傷つけられ、ルーティーンの生活が破られる時がある。それは、往々にして、他者から、馬鹿にされたり侮辱されたりなどした時に起きる。それは、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望が阻害されたことを意味する。そのような時、深層心理は、怒りの感情と相手を侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。深層心理は、怒りの感情で人間を動かし、侮辱・暴力などの過激な行動を行わせ、自我が他者に認められたいという欲望が阻害した相手をおとしめることによって、自らの自我を高めようとするのである。しかし、そのような時には、まず、超自我が、ルーティーンを守るために、怒りの感情を抑圧し、侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令などの行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望から発している機能である。深層心理には、超自我という、毎日同じようなことを繰り返すように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとする機能も存在するのである。超自我は、これまでの構造体の中でこれまでの自我を持して暮らしたいという欲動の第一の欲望である自我の保身化という作用から発し、毎日これまでと同じように暮らしたいというルーティーン通りの行動を守ろうとする機能である。そして、もしも、超自我の機能が過激な行動を抑圧できなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。人間の表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、結論を出すのに、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実的な利得を求めるとは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利益をもたらそうという欲望である。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実的な利得を求めて、侮辱したり殴ったりしたならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を、意志によって、抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を侮辱したり殴ったりしてしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。さて、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望は、深層心理はその欲望を満たすために、自我を保身化する。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。退学者・失業者が苦悩するのは、学校・会社という構造体から追放され、生徒・会社員という自我を失ったからである。裁判官が総理大臣に迎合した判決を下し、高級官僚が公文書改竄までして総理大臣に迎合するのは、何よりも自我が大切だからである。学校でいじめ自殺事件があると、校長や担任教諭は、自殺した生徒よりも自分たちの自我を大切にするから、事件を隠蔽するのである。いじめた子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないから、いじめの事実を隠し続け、自殺にまで追い詰められたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、構造体を維持しようとするのである。そして、相手に無視されたり邪険に扱われたりすると、構造体の消滅を認めるしかないから、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことの辛い感情が強いので、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできずに、深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令に従ってしまうである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。しかし、人間は、愛国心、すなわち、自我の欲望を、自ら、意識して生み出しているわけではなく、無意識のうちに、深層心理が愛国心という自我の欲望を生み出しているのである。つまり、世界中の人々は、皆、自らが意識して生み出していないが、自らの深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きているのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望であるが、深層心理は、自我を対他化することによって、その欲望を満たそうとする。自我の対他化は、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしている。深層心理は、同級生・教師や同僚・上司という他者から、生徒や会社員という自我に好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、連日、馬鹿にされたり注意されたりして、悪評価・低評価を受け、自我が傷付くと、深層心理は、傷心という感情と不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出すことがある。しかし、人間は、表層心理で、現実的な利得を求めて、傷心という感情の下で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令について思考し、行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとする。それは、登校・出勤した方が、生徒や会社員という自我を存続でき、現実的な利得を得られるからである。しかし、深層心理が生み出した傷心という感情が強いので、登校・出勤できないのである。その後、人間は、表層心理で、不登校・不出勤を指示する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとする。しかし、たいていの場合、それも上手く行かずに、苦悩に陥るのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。そして、苦悩が強くなり、自らそれに堪えきれなくなり、自殺したりするのである。つまり、同級生・教師や同僚・上司という他者の悪評価・低評価が苦悩の原因であり、襲撃や自殺は苦悩から脱出するためにあるのである。また、受験生が有名大学を目指すのも、少女がアイドルを目指すのも、自我を他者に認めてほしいという欲望を満足させるためである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという欲望であるが、深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。対象の対自化は、深層心理が、自我の志向性(観点・視点)で。他者・物・現象を捉えることである。対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。)という一文で表現することができる。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生まれる。有の無化とは、深層心理が、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。有の無化は、「人は自己の欲望を心象化する」という一文で言い表すことができる。無の有化とは、深層心理が、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造することである。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、深層心理は、自我と他者を共感化させることによって、その欲望を満たそうとする。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえば、喜び・満足感が得られるのである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、深層心理のルーティーンの生活を守ろうとする超自我や表層心理の現実的な利得を求める思考で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、それほど屈辱感が強かったのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは、何よりも、他クラスを倒して皆で喜びを得るということに価値があるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終われば、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否するという仲の悪い状態に戻るのである。このように、人間は、自我の動物であるから、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望に動かされてしまうのである。また、人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時に、自らの存在を意識する。人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、自らの行動や思考を意識することである。そして、自らの存在を意識すると同時に、思考が始まるのである。それが、表層心理での思考である。それでは、なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識し、自らの行動や思考を意識するのか。それも、また、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。さらに、無我夢中で行動していて、突然、自らの存在を意識することもある。無我夢中の行動とは、無意識の行動であり、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行う行動である。そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識することがあるのである。それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。つまり、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じた時、表層心理で、自らの存在を意識して、現実原則の視点から、思考するのである。ニーチェは「意志は意志できない」と言う。同じように、人間は、思考も意志できないのである。深層心理の思考が人間の意志によって行われないように、表層心理の思考も人間の意志によって行われないのである。人間が自らの存在を意識すると同時に、表層心理での思考が始まるのである。次に、表層肉体であるが、表層肉体とは、表層心理による肉体の活動である。すなわち、表層肉体とは、人間の意識しての肉体の活動、人間の意志による肉体の活動である。表層肉体は、深呼吸する、挙手をする、速く走る、体操するなど、人間の表層心理による意識しての意志による肉体の活動である。スポーツという日常生活には存在しないことができるのは、自ら意識して、自らの意志によって表層肉体の同じ活動を繰り返したからである。表層肉体の同じ活動の繰り返しが深層肉体としてに定着し、無意識のうちに体が動き、スポーツができるようになるのである。しかし、表層肉体の活動は、肉体の活動の一部しか過ぎないのである。肉体の活動のほとんどを深層肉体に負っているのである。確かに、人間の人間たる所以の一つは、表層心理で、自ら意識して、自らの意志によって、行動することにある。それが、表層肉体の行為である。しかし、表層肉体の行為と言えども、表層心理の意識や意志が関わるのは、動作の初発のほんの一部にしか過ぎないのである。例えば、歩くという表層肉体の動作がある。確かに、歩くという動作は、歩こうという意志の下で歩くという意識の下で表層心理によって始められる。しかし、両足を交互に出すという動きは、誰しも意識して行っていない。もしも、右、左と意識して足を差し出していたならば、意識することに疲れて、長く歩けないだろう。だから、最も簡単に意識して行っていると考えられる動作の一つである歩くという表層肉体の動作すら、意識して行うのはほんの一部であり、そのほとんどは、無意識に、つまり、深層肉体によって行われているのである。歩きながら考えるということが可能なのも、歩くことに意識が行っていないからである。ほとんどの肉体行動は、人間は、表層心理で、自ら意識して、自分の意志によって、行っているのではなく、すなわち、表層肉体の行為ではなく、深層肉体の行為なのである。つまり、人間の肉体は、深層肉体によって、動かされ、生かされているのである。









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