あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は壊れ物として存在している。(自我その470)

2021-02-26 12:43:05 | 思想
人間は壊れ物として存在している。それは、人間は心が壊れやすいというだけでなく、心が壊れた状態が人間をして人間として出発させるという意味である。人間は心が壊れやすいということは、人間は傷付きやすいことを意味している。なぜ、人間は傷付きやすいのか。それは、他者の評価を気にして暮らしているからである。しかし、人間は、意識して、他者の評価を気にしているのではない。人間は、無意識のうちに、他者の評価を気にしているのである。だから、意識しようと意識しまいと、人間は他者の評価を気になるのである。だから、気にするなと言われても、気になるのである。人間は、無意識のうちに、他者の評価を気にしているから、気にしないでおこうとしても、気になるのである。人間の無意識の思考を深層心理と言う。すなわち、深層心理が他者の評価を気にしているから、人間は、他者の評価が低いと、心が傷付くのである。それでは、人間は、どんなことに対して、他者の評価が低いと、心が傷付くのか。それは自我である。人間は、自我に対する他者の評価が低いと、心が傷付くのである。それでは、自我とは何か。自我とは、構造体の中で、役割を担ったポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、国、県、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなど、大小さまざまなものがある。自我も、その構造体に所属して、さまざまなものがある。国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我がある。県という構造体では、知事・県会議員・県民などの自我がある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我がある。学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我がある。店という構造体では、店長・店員・客などの自我がある。電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我がある。仲間という構造体では、友人という自我がある。カップルという構造体では恋人という自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動している。それと同時に、深層心理が、自我を主体に立てて、他者の評価を気にして生きているのである。自我を主体に立てるから、他者の評価が気になるのである。深層心理が、他者の評価を気にするから、人間は、他者の評価が気になるのである。つまり、人間は、常に、深層心理から始まり、深層心理は自我を主体に立てて、自我に対する他者からの評価を意識することから始まるのである。深層心理が傷付けば人間は心が傷付き、深層心理が気にすれば人間は気になり、深層心理が満足すれば人間は喜び、深層心理が怒れば人間は怒り、深層心理が哀しめば人間は哀しむのである。深層心理が思考して生み出した感情が人間の感情になるのである。しかし、人間は、自らを意識して、自らの意志で、深層心理を動かすことができないのである。すなわち、人間は、表層心理での思考で、深層心理を動かすことができないのである。表層心理での思考とは、人間が自らを意識すること、人間が自らの状態を意識すること、人間が自らを意識して思考することである。人間が表層心理での思考で生み出したものが、所謂、意志である。人間は表層心理での思考で深層心理を動かすことができないが、深層心理が思考して生み出したものを表層心理で意識することがあるのである。さて、人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて行動しているのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかを叶うことができれば、快楽が得られるので、欲動の四つの欲望に従って思考するのである。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。簡潔に言えば、自我という社会的な地位や社会的な位置を守りたいという欲望である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。簡潔に言えば、好かれたい・評価されたいという欲望である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望であるが、簡潔に言えば、自我の思い通りにしたいという欲望である。深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。簡潔に言えば、理解し合いたい・愛し合いたい・仲良くしたいという欲望である。深層心理は、快楽を求めて、欲動の四つの欲望のいずれかが叶うように、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。深層心理が快楽が得られなければ、傷付くのである。すなわち、人間は心が傷付くのである。そして、傷付いた心を癒やそうとしたり傷付いた心から解放されようとして、心の傷とともに心を傷付けた人や物やことに対して気にするのである。心の傷は、深層心理が思考して生み出したものであり、人間が表層心理で自らを意識して思考して生み出したものではないから、表層心理の意志ですぐに治すことができないのである。そこで、人間は、傷付いた心を癒やすための方法を、若しくは、傷付いた心から解放される方法を見出すために、表層心理で自らを意識して思考するのである。冒頭に述べた、心が壊れた状態が人間をして人間として出発させるとは、人間は傷付いて、初めて、表層心理で自らを意識して思考するということを意味しているのである。さて、深層心理が思考して生み出した自我の欲望は感情と行動の指令が合体したものになっていて、感情が動力となって行動の指令のままに行動するように自我である人間に促しているのである。人間の最も強い感情は怒りである、例えば、人間は他者から罵倒されると、深層心理が怒りという感情と相手を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出すことがある。その時、自我である人間は、怒りの感情に動かされ、表層心理で相手を殴れという行動の指令を抑圧できずに、相手を殴ってしまうことがあるのである。さて、人間は深層心理が常に他者の評価を気にして生きているのであるが、それは、他者の評価が高ければ、欲動の四つの欲望の全てが叶い、深層心理が満足し快楽を得られるからである。深層心理が満足し快楽を得るということは人間が満足し快楽を得ているということを意味しているから、人間は、常に、他者の評価を気にして生きているのである。言うまでも無く、他者の評価が高ければ、自我を確保・存続させたい、すなわち、自我という社会的な地位や社会的な位置を守りたいという欲動の第一の欲望が叶うから、深層心理が満足し快楽を得るのである。すなわち、人間が満足し快楽を得るのである。他者の評価が高ければ、それにとどまらず、会社という構造体などにおいては、立身出世という自我の発展に繋がるのである。だから、他者の自我に対する評価が高いということは、欲動の第一の欲望を叶えるための絶対条件なのである。また、他者の評価が高ければ、自我が他者に認められたいという、すなわち、自我が他者に好かれたい・評価されたいという欲動の第二の欲望が叶うから、深層心理が満足し快楽を得るのである。すなわち、人間が満足し快楽を得るのである。小学生が勉強するのは、教師や親から褒められるからである。受験生が有名大学を目指すのは、教師や同級生や親から褒められ、世間から賞賛を浴びたいからである。若い女性がアイドルを目指すのは、大衆から賞賛を浴びたいからである。宇宙飛行士を目指すのは、宇宙から帰還して、国民から賞賛を浴びたいからである。だから、他者の自我に対する評価が高いということは、欲動の第二の欲望を叶えるための絶対条件なのである。また、他者の評価が高ければ、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したい、すなわち、自我の思い通りにしたいという欲動の第三の欲望が叶うから、深層心理が満足し快楽を得るのである。すなわち、人間が満足し快楽を得るのである。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。だから、他者の自我に対する評価が高いということは、欲動の第三の欲望を叶えるための絶対条件なのである。また、他者の評価が高ければ、他者と心の交流を図りたい、すなわち、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・仲良くしたいという欲動の第四の欲望が叶うから、深層心理が満足し快楽を得るのである。すなわち、人間が満足し快楽を得るのである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きが悪いことだとわかっていても行うのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるからである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。だから、他者の自我に対する評価が高いということは、欲動の第四の欲望を叶えるための絶対条件なのである。しかし、逆に、他者の自我に対する評価が低ければ、深層心理は、容易に、傷付くのである。人間は、心が傷付きやすく、壊れやすいのである。例えば、次のようなことである。長年勤めた会社をいきなり馘首される。家庭で、子が親に成績のことで叱られる。学校で、同級生たちから嫌われ無視される。学校の職員会議で、教諭たちの意見を聞かず、校長が独断で何事も決める。会社で、社員が業績が上げられず上司に叱られる。恋人から別れを切り出される。妻から離婚してほしいと言われる。自分はどのような賞も受賞していないのに、大学で同期の物理学がノーベル賞を受ける。同じ分野を研究しているのに、自分はどのようなテレビ番組にも呼ばれないのに、年齢が下の医者が複数のテレビ番組に呼ばれ積極的に意見を述べている。このようなことがあると、人間は心が壊れるのである。すなわち、人間は傷付くのである。そして、深層心理は起こったことを気にし、人間は、起こったことが気になるのである。しかし、人間は、表層心理で、気になることで、初めて、表層心理で、自らを意識して、起こったことに対して思考することになるのである。苦痛が、人間を、表層心理で、自らを意識して、思考させるのである。逆に言えば、苦痛が無ければ、人間は自ら思考しないのである。これが、心が壊れた状態が人間をして人間として出発させるという意味である。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていない証である。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。しかし、日常生活において、異常なことが起こることもある。それは、上記の例のように、自我が他者に高く評価してほしいという欲望が破られた時である。そのような時、ある時は、深層心理が怒りの感情と侮辱した相手を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間に、相手を殴ることを促し、復讐の行動によって傷付いた心を回復させようとする。ある時は、深層心理が傷心の感情と積極的に行動しないようにせよという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間に、積極的に行動しないようにすることを促し、これ以上心が傷付かないようにするのである。しかし、深層心理には、超自我という機能もあり、それが働き、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、深層心理に内在する欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という作用の機能である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、自我の欲望に対する審議は、表層心理に移されるのである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求めて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果、すなわち、理性による思考の結果が意志である。現実的な利得を求めての思考とは、自我が不利益を被らないように、行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などから思考するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を殴ったならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。しかし、誰かが自我が傷つけても、深層心理は、時には、傷心の感情から解放されるための怒りの感情と相手を攻撃するという自我の欲望を生み出さず、うちに閉じこもってしまうことがある。それは、攻撃するのは、相手が強大だからであり、攻撃すれば、いっそう。自我の状況が不利になるからである。そうして、傷心のままに、自我の内にこもって、現在の状況から身を離し、自らを哀れみ、傷心が癒えるのを待つのである。それが、深層心理が思考して生み出した哀しいという感情と無行動という行動の指令という自我の欲望に従った状態である。このように、人間は壊れ物として存在している。壊れ物として存在しているとは、心が壊れやすいということである。心が壊れやすいということは、心が傷付きやすいことを意味している。人間は、深層心理が他者の評価を気にして、暮らしいるから、心が傷付きやすいのである。しかし、人間は、心が傷付かなければ、表層心理で、自らを意識して、思考しないのである。だから、心が壊れた状態が人間をして人間として出発させるのである。確かに、心が傷付かなければ、表層心理で自らを意識して思考しない人間は、哀しい存在である。しかし、人間は、この哀しみを踏みしめて生きていくしかないのである。


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