あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は地獄から脱することができるのだろうか。(自我その493)

2021-04-26 20:16:49 | 思想
人間が地獄から脱するのは至難の業である。それには、三つの理由がある。一つ目の理由は、人間は、快楽を求めて生きているが、快楽は、深層心理が自我の現況を認識して生み出し、快楽への行動も、深層心理が思考して生み出すことである。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体とは、国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。構造体と自我の関係は、具体的には、次のようなものになる。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。人間は、いついかなる時でも、ある構造体に所属し、ある自我を持して行動しているのである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。すなわち、深層心理が、現在の自我の状況を見て、快楽を生み出しているのである。つまり、深層心理が、現在の自我の状況を見て、喜ばしい状況だと判断すれば、快楽を生み出すのである。すなわち、人間は、自分の意志では、快楽を生み出すことはできないのである。人間の自らを意識した精神活動を、表層心理と言う。すなわち、人間は、表層心理での意志や表層心理での思考では、快楽を生み出すことができないのである。さらに、深層心理は、現在の自我の状況が欲動にかなっていると判断すれば、快楽を生み出すが、欲動は深層心理に内在しているのである。欲動とは、四つの欲望である。欲動には、自我を確保・存続・発展させたいという欲望、自我が他者に認められたいという欲望、自我で他者・物・現象を支配したいという欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。深層心理は、現在の自我の状況が欲動にかなっていると判断すれば、快楽を生み出すのである。そのために、深層心理は、欲動にかなった自我の状況を作ろうと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を行動させようとするのである。このように、深層心理が、快楽を生み出すばかりでなく、快楽を得る行動も考え出しているのである。人間は、自ら意識した思考では、すなわち、表層心理での思考では、快楽を生み出すことも、快楽を得る行動も考え出すことができないのである。すなわち、人間は、自ら、意識して思考して、快楽を生み出すことも、快楽を得る行動も考え出すことができないのである。これが、人間が地獄から脱するのが至難な業であることの一つ目の理由である。二つ目の理由は、深層心理は、欲動という四つの欲望にかなった自我の状況を作ろうと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているが、欲動には、道徳観や社会的規約を守ろうという欲望が存在しないことである。だから、深層心理は、快楽が得るために、道徳観や社会的規約に背馳した自我の欲望を生み出すことがあるのである。道徳観や社会的規約を破っても、快楽が得られるのである。道徳観や社会的規約を破ることで、快楽が得られることさえあるのである。深層心理にとって、快楽を生み出すことが第一義であり、道徳観や社会的規約を守ろうということが第二義であることが、人間が地獄から脱するのは至難の業にしている二つ目の理由である。三つ目の理由は、ほとんどの人間が、深層心理の存在に気付いていないことである。深層心理の思考を認めるとしても、無意識の行動というような、例外的な活動にしか認めていないのである。思考の中心は表層心理でのものだと思っているのである。そして、自ら、意識して考えて、行動していると思っているのである。すなわち、主体的に、道徳観や社会規約に則って生きていると思っているのである。もちろん、人間には、意識しての思考である、表層心理での思考も存在する。そして、ほとんどの人間の言う思考とは、表層心理での思考である。しかし、表層心理での思考は、深層心理から独立して存在していないのである。人間が、表層心理で思考する時は、常に、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかについて行う時なのである。深層心理は、現在の自我の状況を見て、欲動にかなった、喜ばしい状況だと判断すれば、快楽を生み出すが、欲動に背いた、不愉快な喜ばしい状況だと判断すれば、怒りなどの過激な感情と侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かし、現在の自我の状況を変えようとするのである。しかし、そのような時は、まず、深層心理にある、超自我という機能が、ルーティーンを守るために、侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を抑圧しようとするのである。超自我は、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の欲望から発している。このように、深層心理には、超自我という、毎日同じようなことを繰り返すルーティーンを行うように、ルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとする機能も存在するのである。超自我は、これまでと同じように暮らしたいという欲望から発している機能なのである。そして、もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、自我に現実的な利得を求めようとして、道徳観や社会規約に基づいて、将来のことを考え、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を受け入れるか拒否するかについて審議するのである。もちろん、受け入れることに決めれば、そのまま、侮辱する・殴ることになり、拒否することに決めれば、侮辱しろ・殴れという行動の指令を、意志で抑圧することになる。このように、人間の表層心理の思考は、常に、深層心理が生み出した行動の指令が日常生活を破ろうとする時に、自我に現実的な利得を求めようとして、道徳観や社会規約に基づいて、将来のことを考え、動き出すのである。道徳観や社会規約という志向性は、自我に現実的な利益をもたらすために、表層心理に存在するのである。だから、時代、地域によって、異なっているのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、表層心理の意志によって抑圧しようとしても、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令のままに、行動してしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすことが多いのである。そうして、その後で、後悔し、自己嫌悪や自信喪失に陥り、その重い気分から逃れるために、確固たる自分・本当の自分を見つけようと自分探しをし、袋小路に入り込む者も存在するのである。また、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、長期にわたって、苦悩が続くのである。そうして、また、自己嫌悪や自信喪失に陥り、その重い気分から逃れるために、確固たる自分・本当の自分を見つけようと自分探しをし、袋小路に入り込む者も存在するのである。だから、超自我のルーティーン通りの行動を行わせる作用にしろ、表層心理での現実原則に基づく自我の利得に基づく思考にしろ、万能ではないのである。なぜならば、超自我や表層心理での思考によって深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、行動の指令のままに行動してしまうからである。人間は、深層心理が生み出した怒りなどの感情が強過ぎると、超自我や表層心理での思考による抑圧にかかわらず、深層心理が生み出した相手を侮辱しろ・殴れなどの行動の指令のままに行動してしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすことが多いのである。人間は、深層心理のあり方を理解しない限り、悲劇、惨劇から逃れることはできないのである。それを無視して、自分探しのために、確固たる自分・本当の自分を追究しても、無意味なのである。どのようにして、深層心理の思考の志向性を、表層心理の思考の志向性へと編み変えるか、一人一人に課せられているのである。