あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間に良心はあるか。人間に力はあるか。(自我その489)

2021-04-16 14:59:12 | 思想
人間に良心はあるか。人間は、誰しも、良心を持っている。しかし、それは自我の欲望を満たす時と他者に評価される時に現れ、自我の欲望と対立すれば消えていくのである。それほどまでに、自我の欲望が強大であり、人間を動かしているのである。人間に力はあるか。人間は、誰しも、力を持っている。政治権力者は自我の欲望によって力を発揮する。しかし、大衆にとって、それは自分の無力を耐えるための力である。自分の無力を正当化するための思考が自我の欲望によって生み出され、政治権力者の残虐非道な行為に抗することができないという自分の無力を忘れていくのである。だから、国外、国内において、政治権力者が自我の欲望によって大衆に対して残虐非道のことを行い、大衆は自我の欲望によって自分の無力を正当化して、政治権力者の残虐非道な行為を忘れようとしているのである。国外では、ミャンマーでは、軍部がクーデターを起こして、政治権力を奪い、デモ行進をする民衆を、兵隊と警官が無差別に射殺している。国連が頼りのはずなのに、中国とロシアが反対し、非難声明すら出せないでいる。ナイジェリアでは。イスラム過激派組織ボコ・ハラムが、西洋式の教育を行っていると批判し、学校を襲撃し、数百人単位で生徒を連れ去り、男子生徒を兵士に仕立て上げ、女子生徒をレイプしている。中国共産党政府は、香港に介入し、民主派政治家を逮捕し、中国の支配下におこうとしている。中国共産党政府は、ウイグル自治区では、イスラム教徒を逮捕し、強制収容所に送り、男性を拷問死し、女性をレイプしている。北朝鮮では、金正恩が独裁政治を敷き、理由無く、民衆を殺している。アメリカでは、トランプ前大統領が、コロナウィルスは中国に責任があると幾度も声明を上げると、アジア系住民が大通りで襲撃され、建物が放火されている。ロシアでは、プーチン大統領が、反対派の政治家を暗殺している。メキシコでは、麻薬組織が、ジャーナリストや政治家を暗殺している。国内では、コロナウィルスの感染が収束していないのに、政府はオリンピックを開こうとしている。沖縄県民の反対をよそに、政府は辺野古にアメリカ軍基地が建設している。福島で大事故があったのに、原発は停止される方向に向かっていていない。安倍晋三前首相が、強行採決を繰り返し、集団的自衛権を認めさせ、いつでどこでも、アメリカに追随し、日本は戦争をできるようになった。安倍晋三前首相は、森友学園、加計学園、桜を見る会で、不正を行った。菅義偉現首相の息子が勤めている東北新社やNTTが、当時総務大臣だった野田聖子や高市早苗や総務幹部を接待した。しかし、誰一人として、失脚していない。さて、自我とは何か。そして、自我の欲望とは何か。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。
人間は、一人でいても、常に、構造体に所属し、自我を有しているから、他者と関わることができるのである。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、行動するのである。人間は、常に、内に感情を抱き、外に心を開いているが、自ら、意識して、それを行っているのではない。人間は、無意識の思考に動かされ、それを行っているのである。深層心理という無意識の思考が、それを行っているのである。すなわち、深層心理が、外に心を開いて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、自我である人間を動かしているのである。つまり、自我の欲望とは、深層心理が思考して生み出した、感情と行動の指令である。だから、人間は、時間の経過と共に、外部の出来事に反応し、新しく感情を抱き、行動へと向かうことができるのである。深層心理が、構造体において、自我を主体に立てて、快楽を求めて、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を行動に向かわせるのである。深層心理は、欲動に則れば快楽が得られるので、欲動に従って、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、自我である人間を動かしているのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。欲動の第一の欲望が、自我を確保・・存続・発展させたいという欲望である。自我の保身化という作用をしている。ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望が満たされている、すなわち、自我の保身化の作用が上手く行っているのである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、表層心理で意識して考えることがなく、無意識の行動だから可能なのである。また、日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことでもあるのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍前首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍前首相に迎合するのは、自我を存続させ、なおかつ、立身出世という自我の発展ののためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。自殺した子も、仲間という構造体から追放されたくない上に、友人という自我を失いたくないから、いじめの事実を隠し続けたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとうのである。そして、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとする者が現れるのである。深層心理は、自我に執着するあまり、人間に、かくも愚かなことを行わせるのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。自我の対他化の作用をしている。人間は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から生徒や会社員という自我が好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なる。すると、深層心理は、これ以上傷心せず、自宅で心を癒やそうとして、不登校・不出勤の行動の指令を生み出す。そして、人間は、表層心理で、自我に現実的な利得を求めて、傷心という感情の下で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令について意識して思考し、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとするのである。現実的な利得の視点からは、不登校・不出勤は自我にとってマイナスだからである。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望を満たそうということである。だが、深層心理が生み出した傷心という感情が強いので、登校・出勤できないのである。そして、人間は、表層心理で、すなわち、理性で、不登校・不出勤を指令する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとするのだが、それも上手く行かずに、苦悩に陥るのである。また、受験生が有名大学を目指すこと、少女がアイドルを目指すことの理由・意味も、自我が他者に認められたいという欲望を満足させることである。男性が身だしなみを整えるのも、女性が化粧をする、痩せるのも、自我が他者に認められたいという欲望を満足させるために行っているのである。有名大学を目指すこと、アイドルを目指すこと、身だしなみを整えること、化粧をすること、痩せることいずれも、他者から見るとたわい無いことであるが、自我が他者に認められたいという欲望にとらわれている深層心理には、非常に大切なことである。失敗すると、深層心理は、自らを鬱病にしたり、最悪の場合、自我の欲望に自殺への行動の指令を生み出すことがあるのである。いずれも、現実から逃れるためである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。対象の対自化の作用をしている。それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。対象の対自化とは、「有を無化する」(「人は自己の欲望を対象に投影する」)(人間は、無意識のうちに、深層心理が、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性や趣向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えている。)ことである。さらに、深層心理は、対象の対自化が高じて、「無を有化する」(「人は自己の欲望の心象を存在化させる」)(人間は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)ことまで行う。これは、人間特有のものである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感という快楽を得ようしているのである。人間とは、弱い存在であるから、自我を肯定する絶対者が存在しなければ、また、自己正当化できなければ生きていけないのである。さて、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその理由である。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその理由である。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その理由である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その理由である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば快楽を得られることがその理由である。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られることがその理由である。とどのつまり、人間とは、自分中心、自我中心の動物なのである。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。自我と他者の共感化という作用をしている。それは、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由からである。もちろん、表層心理で、それを抑圧しようとするのだが、抑圧しようとしても、深層心理が生み出した屈辱感が強いから、抑圧できないのである。さらに、ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。「呉越同舟」は、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒せば皆で喜びを得ることができるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、互いに相手を対自化して、イニシアチブを取ろうとして、仲が悪くなるのである。さて、人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、ある心境の下で、構造体の中で、自我を主体に立てて、快楽を求めて、欲動に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのであるが、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識して思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を意識して、思考して、行動する。すなわち、人間は、表層心理で、自我に現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、思考した後で、行動するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考であり、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、そ時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちである。その時、深層心理は、超自我によって、この自我の欲望を抑えようとする。超自我は、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発し、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を守ろうとする作用である。しかし、深層心理が生み出した感情が強い場合、超自我は機能できないのである。すなわち、超自我は、深層心理が生み出した過激な行動の指令を抑圧できないのである。そうなると、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、自我に現実的な利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我というルーティーンの生活を守るという機能がそれを抑圧できないのである。そうなると、人間は、表層心理で、思考することになるのである。しかし、たとえ、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できたとしても、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。犯罪の多くはこの時に起こるのである。だから、人間は、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて生きていると言えるのである。作家の武田泰淳は、「人間は、どんなことをしてでも、生きのびようとする。」と言う。武田泰淳は、太平洋戦争下の中国大陸で、日本の多くの軍人が、中国の民家に押し入り、食糧を強奪し、老婆から幼女まで女性と言えばレイプし、抵抗する庶民を射殺しているのを知っている。彼らは、帝国軍隊という構造体の中で、帝国軍人という自我を持っている。大日本帝国は軍事的に優位を保っていたから、中国大陸において、中国人に対して冷酷無残なことを行っても、支配欲を満たすという快楽を得るばかりで、他者から非難されるという不快感を味わうことはなかった。つまり、中国人を対自化するばかりで、誰からも対他化することは無かった。つまり、中国人を思い通りに支配し、中国人の視線を気にせず、暴虐の限りを尽くしたのである。上官は、それを見て見ぬふりをするどころか、彼らも同じことをしていたのである。日本の中国での国策映画のヒロインの李香蘭(山口淑子)も、「中国大陸での、日本軍人・民間人の威張り方を見れば、中国人が日本人を嫌いになるのも理解できる。」と言っている。さらに、戦争末期になり、戦況の不利を悟り、戦闘機・戦艦・武器などが少なくなると、若い兵士や学徒出陣の学生・生徒たちに強要し、「自分も後に続くから。」と言って、六千人以上を特攻という苦悶の死を与えたが、ほとんどの上官は後に続かなかった。そして、戦後、彼らは、特攻の責任を、自決した大西瀧次郎海軍中将などに押しつけ、「特攻を希望した若者たちは立派だった。彼らの名誉ある死があるから、現在の日本の繁栄があるのだ。」と言って、自らの責任を回避した。特攻によって命を散らされた若者が生きていたならば、日本は現在もっと繁栄しているだろう。軍部の上官たちは、行動が詐欺師であるばかりでなく、言動まで詐欺師である。特攻のほとんどは、希望ではなく、軍部の上官による強要である。軍部の上官たちは、自らの保身のために、若者たちを犠牲にし、若者たちは、臆病者だと言われたくないために、特攻死したのである。そして、中国大陸で残虐非道の行為を繰り返し、若者を特攻で無理強い死させた帝国軍人が、敗戦後、帰還して、素知らぬ顔で、家族という構造体の中で、父親、息子という自我を持って、平穏な生活を送るのである。確かに、人間は、どんなことをしてでも、生きのびようとするのである。さて、詩人の石原吉郎は、「人間は、どんな環境にもなじむものだ。」と語っている。彼は、14年間、シベリアに抑留され、飢え、寒さ、過酷な労働、射殺の恐怖の環境に耐えて、帰国した。人間とは、常識を越えて、悪環境という構造体でも、哀れな身の上という自我でも、それに合わせて生きていけるというのである。深層心理による対自化や対他化はそこでも行われ、日常生活がそこにあり、非人間的な暮らしが人間の日常生活として繰り替えされると言っているのである。確かに、人間は、どんな環境にもなじんで生きていくのである。それは、金一族に支配されている北朝鮮、共産党に支配されている中国、戦前の日本を見れば、わかることである。しかし、当該者は、それになじんでいるから、権力の肥大化した欲望、環境の劣悪さに気付かないのである。テレビで、異様な光景をよく目にする。大衆が、安倍晋三前首相や小泉進次郎衆議院議員などの政治家が演説会場に登場すると、場内割れんばかりの拍手で迎えるのである。まるで、売れっ子アイドルや自分たちの強い味方であるような歓迎ぶりである。彼らは、確かに、アイドルのようにマスコミによく登場するが、アイドルのようには夢を売らない。口では「日本の将来を見据えて」などと夢を語るが、彼は政治家という自我を維持し、それを最大限に利用し、自らの存在をアピールするために、徹底的に現実的に行動する。彼らは、庶民の味方ではない。財界、ゼネコン、銀行、官僚の味方である。財界やゼネコンや銀行は陰に陽に資金援助をしてくれ、官僚は陰で不正なことまでして自分たちを支えてくれるからである。彼らがそうするのは、自民党が、財界やゼネコンや銀行に利益が行くように政治を行い、官僚の天下りを許し、官僚と同じ考えの下でアメリカに迎合した政治を行っているからである。しかし、大衆は政治家の本性を見抜いていない。むしろ、期待している。ニーチェの「大衆は馬鹿である」という言葉が聞こえてくる。大衆が、国政選挙で、自民党を大勝ちさせたから、自民党の政治家だけが、政治家という自我を維持し、それを最大限に利用し、自らの存在をアピールするために、徹底的に現実的に行動しようとするのである。大衆が、国政選挙で、大勝ちさせれば、政治家という政治家、権力者という権力者は、皆、このように行動するのである。しかし、政治家などの権力者だけに、ニーチェの言う「権力への意志」が存在するのではない。人間、誰しも、心の中に、「権力への意志」が存在する。しかし、誰しも、周囲の人や他の人に評価されたいと思いつつ、自分がどのように見られているか気遣うという対他化のあり方が心の中にあるから、人間はわがままなことをしないのである。対自化のあり方から来る、他の人に自分の力を誇示したいという欲望を抑圧できるのである。しかし、誰しも、権力を持つと、「権力への意志」を、思う存分、発揮する権利を得たと思い込んでしまうのである。本来、人間はわがままな動物である。人間は、自我に応じて、深層心理がいろいろな欲望を生み出してくる。人間は政治家になると、つまり、政治家という権力者としての自我を持つと、深層心理が、庶民の時と異なった、欲望を生み出してくる。庶民の時にも、深層心理がいろいろな欲望を生み出してくるが、対他化がそれを抑圧している。「権力への意志」が心の中にあるが、それを発揮すると、周囲の顰蹙を買い、人間関係が閉ざされるから、心の奥底にとどめておく。しかし、誰しも、政治家などの権力者になると、「権力への意志」という欲望が頭をもたげ始め、対他化の気遣いがなりを潜めるのである。また、政治家になると、周囲には、阿諛追従する人が列をなすから、ますます、「権力への意志)」という欲望が肥え太るのである。安倍晋三前首相は「権力への意志」の権化である。安倍政権になって、暮らしが良くなったか。庶民は以前より貧しくなっている。安倍政権になって、日本の外交がうまく行っているか。中国、韓国、北朝鮮とは関係がより悪化し、アメリカへの属国化を進めているだけである。民主党政権より良くなったという思いは、官僚、産経新聞、読売新聞、田崎史郎などのお友達評論家や八代英輝などのお友達コメンテーターによって作られた幻想である。民主党政権は、官僚、産経新聞、読売新聞、週刊誌によって葬り去られた。特に、官僚の裏切りはひどかった。官僚たちは民主党議員の秘密を週刊誌にリークし、外務省官僚を中心に鳩山由紀夫政権の普天間基地移転を妨害し、東京地検特捜部は冤罪で小沢一郎を逮捕し、小沢一郎の政治力を微弱なものにした。民主党の首相たちは、首相という自我を守るために、官僚たちの軍門に下った。彼らは、最初は、国民寄りの政治を行おうとしたが、官僚の妨害に遭うと、首相という自我を守るために官僚の言うままに政治を行った。彼らに覚悟がなかった。それでも、大衆は、権力者に夢を託す。テレビドラマで、「水戸黄門」、「西郷どん」などが高視聴率を記録する。しかし、徳川光圀は、諸国を漫遊したことが無いばかりか、場内で家臣を斬殺し、身持ちが悪かったから、庶民でも、若い女性は警戒した。西郷隆盛は、鳥羽伏見の戦いで勝利し、幕府軍追討のために赤報隊を利用したが、用が無くなると、隊長の相楽総三などを処刑した。しかし、水戸光圀、西郷隆盛、そして、安倍晋三が異常なのではない。権力者とは、こういう者なのである。権力者とは、常に、「権力への意志」の権化になるのである。だから、大衆が、権力者を批判し続けなければ、「権力への意志」の欲望はとどまることはないのである。しかし、大衆は、政治権力者を批判するどころか、期待し、政治権力者が残虐非道なことを行っても、自分の無力を正当化するための思考が自我の欲望によって生み出し、政治権力者の残虐非道な行為に抗することができないという自分の無力を忘れていくのである。それでは、政治権力者にならず、大衆にもなじまない人間は、何ができるか。インド建国の父と言われているガンジーが、「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでも、しなくてはならない。世界を変えるためではなく、世界によって、自分が変えられないようにするためである。」と言うように、政治権力者にも大衆にも、自分が変えられないようにするために思考し、発言し、行動することしかできないのである。