熊野磨崖仏参拝
冨貴寺から5キロほど南に真木大堂(旧伝乗寺)があり、そこから2キロほどのところに熊野磨崖仏がある。熊野磨崖仏は、今熊野山胎蔵寺内に位置する。もとの山号は天治山だったが、12世紀頃に当時の住持が熊野を訪れ熊野信仰に心酔し、磨崖仏を彫り今熊野山の山号にしたといわれる。現在は浄土宗。
ところで、大分県は、磨崖仏の宝庫と言われる。磨崖仏とは、自然の崖や岩肌から彫りだした仏像のこと。宇佐国東をはじめ、県中部の大分市、県南の臼杵・大野川流域を中心に、88カ所、約400体もの磨崖仏がある。
これほどまでにこの地に磨崖仏が集中しているのは、阿蘇山火山灰の堆積層である熔結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)という岩質に恵まれていたことが第一にあげられる。また、平安時代から天台系の山岳仏教文化圏であり、かつ、宇佐八幡宮や六郷満山寺院、豊後国衙勢や豊後大神一族などの後ろ盾もあった。
しかしこの度参拝する熊野磨崖仏や国東の半島の磨崖仏は、凝灰角礫岩という不均質な岩肌に刻まれている。熊野磨崖仏は、あたかも岩肌から現れ出でたかのように頭部に比べ、体部が岩に沈んだような彫り方をされており、木彫仏が木に仏が宿るとされて刻んだように、岩に仏が宿るという発想があったのではないかと言われる。
仁王像が出迎える胎蔵寺から鳥居をくぐると、鬼が一晩で築いたと言われている乱積の石段がある。約300m(約15分)急な坂道を登る。そこは、国東半島の付け根部分に位置している田原山(別名鋸山・のこぎりやま)、奇岩の山の登山口。
石段や一般登山道が続くが次第に岩場が多く現われ、アップダウンを繰り返す。足がすくわれるような狭い岩場が続く、山頂からは別府湾や鶴見岳、国東半島の山々が見える。だから熊野磨崖仏なのであろう。紀伊熊野の熊野古道は現在世界遺産にも登録されているが、そもそも熊野は、神々の棲む山域であり、また死者の向かう、黄泉の国でもあった。
人生に傷つき絶望したとき、人は遥か彼方の熊野三山を目指した。熊野古道は、俗塵にまみれ汚れた過去の自分をその黄泉の国に葬り、新しく蘇えらせてくれる「蘇生への路」であった。「熊野にお参りすれば死んだ人と必ず会える」とも言われたのは疲れ切った所で、しかも昼までも鬱蒼と茂る木立の暗い所で、この世ならざるものとの出会いがあるからである。
心臓が今にも破裂しそうな状態になるまで苦行を経験し、鬱蒼と茂る山中をくぐりぬけ、ようやくたどり着くのが熊野である。この世ならざる世界の経験。生と死の境界をさまようまでの経験をして自らを蘇生する。そうした熊野を思わせる鋸山を熊野信仰の場として設定して、そこの彫られた磨崖仏だから熊野磨崖仏と言われてきたのであろう。磨崖仏の上には熊野神社がある。
胎蔵寺の境内から山道を300mほど登ると、鬼が一夜で築いたと伝えられる自然石の乱積み石段、九十九段にかかる。「昔、熊野からこの地に移られた権現様から、一夜でここに百段の石段を造ったら人間を食べて良いという許しを得た一匹の鬼が、九十九段を築きあと一段で仕上がるところで、慌てた権現様が鳴き真似をした鶏の声を聞いて夜明けと思って逃げ出した」という伝説がある。
石段を登った先には平地があり、目の前の岩壁に浮彫りされた磨崖仏が現れる。熊野磨崖仏は不動明王像と大日如来像の2体が彫られている。制作年代は奈良時代とも鎌倉時代とも言われており定かでない。
造形から不動明王像が古く、頭に大仏のような羅髪のある大日如来像は後に彫られたものであろうと推定されている。いずれにしても国東を代表する見事な磨崖仏で国重文と国史跡の二重指定を受けている。
大日如来と称される如来像は、高さ約8mの囲いをつくり、その中央に高さ約7mの巨大な像が刻まれている。像の頭部は両耳後まであるが、体部は下へ行くに従って浅く刻まれ、頭部背面には円光背(こうはい)をもち、大粒の螺髪(らほつ)を刻み、切れ長の目、小鼻の張った鼻、ちいさな強く結んだ口、角張った顎とともに力強い威厳ある像容を示している。
熊野磨崖仏に関する唯一の記録として、安貞2年(1228)の『六郷山諸勤行并諸堂役等目録』に「不動岩屋、本尊不動、五丈石身、深山真明如来自作」と記されているという。この記録により、少なくとも安貞2年には、大日不動の両磨崖仏および種子曼荼羅が存在し、また既に如来像の方が大日如来とされていたこともわかる。これにより、臼杵石仏に先行する平安中期ころの作とされ、県下の磨崖の中で最も古い。
不動明王像は、高さ約8m。左右下方には高さ約3mの矜羯羅(こんがら)制多迦(せいたか)童子像が刻まれていた。風蝕が激しく細部は明らかではない。不動明王は、弁髪を左肩に垂らし、幅広の鼻翼に顎の張った顔に、二牙を上下に出す。右手の利剣はきっ先鋭く顔右側面から頭頂にいたる。
体部から下半身の表現は判然としない。大日像に比べてやや浅彫りであり、彫法も素朴で、その下ぶくれの面貌にはユーモラスな笑みを浮かべているように見える。大日像より下った12世紀後半ころの彫造。
また、大日如来像の頭上には、横長の囲いが彫られ、3面の種子曼荼羅が刻まれる。両側の2面は向かって右が金剛界、左が胎蔵界の両界曼荼羅と考えられ、中央の1面は中心に不動明王の種子を刻むことから不動曼荼羅を表わすと言われる。この3面の曼荼羅については、金剛界が熊野三山のうちの金峯山、胎蔵界が熊野山、中央が両者を統一する大峰山を表わすという説がある。
また、胎蔵寺には、直径50cmほどの鋳造品で、円の中に弥陀三尊が刻まれている胎蔵寺懸仏(かけぼとけ)が収蔵されている。「六郷本山今熊野御正体也」と刻まれ、建武4年(1337)の銘がある。熊野神社の本地仏とされているようだ。だから、実は大日如来とされている磨崖仏は阿弥陀如来であるとの説もある。
山岳修行者を修験者と言う。山を聖域と見たて、その聖域の奥深くまで分け入って修行することによって、神秘的な力を得て、その力によって自他の救済を目指そうとする、山岳信仰の修行者たちである。山伏とも言う。修験道とは、「修行して験力を顕す道」であることから名づけられた。
修験道は、自然の中でも特に「山」を神聖視してきた日本人古来の山岳信仰に、インドの宗教である仏教や、中国の宗教である道教や儒教など、外来の宗教が結びつき、さらにそこに神道や陰陽道、民間信仰などまでが取り入れられ、次第に形成されてきた。
国東半島六郷満山では、天台宗に属する修験者たちによって、各寺院を本拠に、おのおの各地に刻まれた磨崖仏を経巡って修行する道の参詣地として、これらの磨崖仏が存在したのであろう。滝にあたり身を清め、所々の平地では護摩を焚き俗塵を払い、また磨崖仏では経を読誦して仏に祈念をこらしたのであろう。
(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)
冨貴寺から5キロほど南に真木大堂(旧伝乗寺)があり、そこから2キロほどのところに熊野磨崖仏がある。熊野磨崖仏は、今熊野山胎蔵寺内に位置する。もとの山号は天治山だったが、12世紀頃に当時の住持が熊野を訪れ熊野信仰に心酔し、磨崖仏を彫り今熊野山の山号にしたといわれる。現在は浄土宗。
ところで、大分県は、磨崖仏の宝庫と言われる。磨崖仏とは、自然の崖や岩肌から彫りだした仏像のこと。宇佐国東をはじめ、県中部の大分市、県南の臼杵・大野川流域を中心に、88カ所、約400体もの磨崖仏がある。
これほどまでにこの地に磨崖仏が集中しているのは、阿蘇山火山灰の堆積層である熔結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)という岩質に恵まれていたことが第一にあげられる。また、平安時代から天台系の山岳仏教文化圏であり、かつ、宇佐八幡宮や六郷満山寺院、豊後国衙勢や豊後大神一族などの後ろ盾もあった。
しかしこの度参拝する熊野磨崖仏や国東の半島の磨崖仏は、凝灰角礫岩という不均質な岩肌に刻まれている。熊野磨崖仏は、あたかも岩肌から現れ出でたかのように頭部に比べ、体部が岩に沈んだような彫り方をされており、木彫仏が木に仏が宿るとされて刻んだように、岩に仏が宿るという発想があったのではないかと言われる。
仁王像が出迎える胎蔵寺から鳥居をくぐると、鬼が一晩で築いたと言われている乱積の石段がある。約300m(約15分)急な坂道を登る。そこは、国東半島の付け根部分に位置している田原山(別名鋸山・のこぎりやま)、奇岩の山の登山口。
石段や一般登山道が続くが次第に岩場が多く現われ、アップダウンを繰り返す。足がすくわれるような狭い岩場が続く、山頂からは別府湾や鶴見岳、国東半島の山々が見える。だから熊野磨崖仏なのであろう。紀伊熊野の熊野古道は現在世界遺産にも登録されているが、そもそも熊野は、神々の棲む山域であり、また死者の向かう、黄泉の国でもあった。
人生に傷つき絶望したとき、人は遥か彼方の熊野三山を目指した。熊野古道は、俗塵にまみれ汚れた過去の自分をその黄泉の国に葬り、新しく蘇えらせてくれる「蘇生への路」であった。「熊野にお参りすれば死んだ人と必ず会える」とも言われたのは疲れ切った所で、しかも昼までも鬱蒼と茂る木立の暗い所で、この世ならざるものとの出会いがあるからである。
心臓が今にも破裂しそうな状態になるまで苦行を経験し、鬱蒼と茂る山中をくぐりぬけ、ようやくたどり着くのが熊野である。この世ならざる世界の経験。生と死の境界をさまようまでの経験をして自らを蘇生する。そうした熊野を思わせる鋸山を熊野信仰の場として設定して、そこの彫られた磨崖仏だから熊野磨崖仏と言われてきたのであろう。磨崖仏の上には熊野神社がある。
胎蔵寺の境内から山道を300mほど登ると、鬼が一夜で築いたと伝えられる自然石の乱積み石段、九十九段にかかる。「昔、熊野からこの地に移られた権現様から、一夜でここに百段の石段を造ったら人間を食べて良いという許しを得た一匹の鬼が、九十九段を築きあと一段で仕上がるところで、慌てた権現様が鳴き真似をした鶏の声を聞いて夜明けと思って逃げ出した」という伝説がある。
石段を登った先には平地があり、目の前の岩壁に浮彫りされた磨崖仏が現れる。熊野磨崖仏は不動明王像と大日如来像の2体が彫られている。制作年代は奈良時代とも鎌倉時代とも言われており定かでない。
造形から不動明王像が古く、頭に大仏のような羅髪のある大日如来像は後に彫られたものであろうと推定されている。いずれにしても国東を代表する見事な磨崖仏で国重文と国史跡の二重指定を受けている。
大日如来と称される如来像は、高さ約8mの囲いをつくり、その中央に高さ約7mの巨大な像が刻まれている。像の頭部は両耳後まであるが、体部は下へ行くに従って浅く刻まれ、頭部背面には円光背(こうはい)をもち、大粒の螺髪(らほつ)を刻み、切れ長の目、小鼻の張った鼻、ちいさな強く結んだ口、角張った顎とともに力強い威厳ある像容を示している。
熊野磨崖仏に関する唯一の記録として、安貞2年(1228)の『六郷山諸勤行并諸堂役等目録』に「不動岩屋、本尊不動、五丈石身、深山真明如来自作」と記されているという。この記録により、少なくとも安貞2年には、大日不動の両磨崖仏および種子曼荼羅が存在し、また既に如来像の方が大日如来とされていたこともわかる。これにより、臼杵石仏に先行する平安中期ころの作とされ、県下の磨崖の中で最も古い。
不動明王像は、高さ約8m。左右下方には高さ約3mの矜羯羅(こんがら)制多迦(せいたか)童子像が刻まれていた。風蝕が激しく細部は明らかではない。不動明王は、弁髪を左肩に垂らし、幅広の鼻翼に顎の張った顔に、二牙を上下に出す。右手の利剣はきっ先鋭く顔右側面から頭頂にいたる。
体部から下半身の表現は判然としない。大日像に比べてやや浅彫りであり、彫法も素朴で、その下ぶくれの面貌にはユーモラスな笑みを浮かべているように見える。大日像より下った12世紀後半ころの彫造。
また、大日如来像の頭上には、横長の囲いが彫られ、3面の種子曼荼羅が刻まれる。両側の2面は向かって右が金剛界、左が胎蔵界の両界曼荼羅と考えられ、中央の1面は中心に不動明王の種子を刻むことから不動曼荼羅を表わすと言われる。この3面の曼荼羅については、金剛界が熊野三山のうちの金峯山、胎蔵界が熊野山、中央が両者を統一する大峰山を表わすという説がある。
また、胎蔵寺には、直径50cmほどの鋳造品で、円の中に弥陀三尊が刻まれている胎蔵寺懸仏(かけぼとけ)が収蔵されている。「六郷本山今熊野御正体也」と刻まれ、建武4年(1337)の銘がある。熊野神社の本地仏とされているようだ。だから、実は大日如来とされている磨崖仏は阿弥陀如来であるとの説もある。
山岳修行者を修験者と言う。山を聖域と見たて、その聖域の奥深くまで分け入って修行することによって、神秘的な力を得て、その力によって自他の救済を目指そうとする、山岳信仰の修行者たちである。山伏とも言う。修験道とは、「修行して験力を顕す道」であることから名づけられた。
修験道は、自然の中でも特に「山」を神聖視してきた日本人古来の山岳信仰に、インドの宗教である仏教や、中国の宗教である道教や儒教など、外来の宗教が結びつき、さらにそこに神道や陰陽道、民間信仰などまでが取り入れられ、次第に形成されてきた。
国東半島六郷満山では、天台宗に属する修験者たちによって、各寺院を本拠に、おのおの各地に刻まれた磨崖仏を経巡って修行する道の参詣地として、これらの磨崖仏が存在したのであろう。滝にあたり身を清め、所々の平地では護摩を焚き俗塵を払い、また磨崖仏では経を読誦して仏に祈念をこらしたのであろう。
(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)