今日の法事での法話をそのまま再現してみよう。
今日は○○居士の十三回忌ということでお集まりいただき、お経を唱えさせていただきました。このあたりの田舎ではそんなことはないのですが、都会ではお葬式も法事もだんだんと簡略化しまして、法事をしない、さらにはお葬式もしないで直接火葬して埋葬してしまうなんていう家もあると聞いております。
もちろん仏教では、死はごく自然なものととらえています。忌み嫌うものではない。ですが、一方ではペットのお葬式だとか法事をする家もある時代に、かたや何もせずに火葬にする。ペットの方が人様よりも大切にされるおかしな時代と言えましょうか。本当に、こんな事でよいのでしょうか。
昔、知り合いの家で亡くなった人があり、すぐ火葬するので火葬場でお棺を入れるときに、少しお経を唱えてくれと言われて呼ばれたことがあります。その時は、そうは言っても、そんなに簡単なことではない、せめて病院の霊安室で拝ませて下さいと言って、そうさせてもらったこともあります。
だんだんと息子さん娘さんが都会に出られて、そちらの風潮をご覧になれば、このあたりでもそういうことがあるかもしれません。是非、若い世代の人たちにも、仏壇やお寺、お墓や先祖さんを大切にする心を伝えていって欲しいと思います。
私たちはみんな自分が死ぬなんて事を考えません。ですから、普段の生活をしていたら、そんなものはどうでもよいと思うかもしれません。自分はいつまでも健康な若い自分だと思っています。ですが、般若心経にあるように、私たちは五蘊という存在に過ぎません。五蘊とは、色受想行識、色が身体で、受想行識が心ということです。
心と体が一つになって私たちは生まれ、生きています。般若心経では、五蘊は空だというのですから、身体も空、心も空。空とは、無我ということです。無我とは何かと言えば、縁起するということです。これがあるからこれがある。それがまた次のものを生じさせていくという永遠と因果の関係にあるということです。つまり、何者もそのものだけで存在していない。他の物があり存在している。それが無我であり、空ということです。
私たちは一人では生きていけませんね。誕生ということも、お父さんお母さんがいて生まれてくるのですし、何も出来ない赤ちゃんは両親の手を借りて成長し、大きくなっても周りの人たち、動物や植物がいて、そのお陰でそれらの営みのお陰で生活しています。
だれもが、つまり様々な他のものと共存して存在している。もちつもたれつ。そして、それは固定したものではなく、周りが変われば自分も変わり、常に変化しつつある、無常なる存在だともいえます。
この世は誰にも無常ですから、いずれは誰もが老い病になり死を迎えることは逃れようもありません。みんな刻一刻と生まれた瞬間から老いが始まり、死に向かって生きています。身体はだから老いて病気にもなり、ついには終焉を迎える。
それで、身体の寿命が終えますと、それまでひとつだった心は身体と別れ、その時の心のエネルギーが次の世界に赴いて母体を得て一つの生命体として生まれる。それが、輪廻というもので、私たち衆生は六道に輪廻する、つまり地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六つの世界に生まれ変わる。
今日のご法事の○○居士は、12年前にお亡くなりになり、来世にお生まれになっている。○○居士という仏教徒の名前をいただかれて、来世でも仏教の教えを大切に生きて下さっていることと思います。
今日の法事はその先に向かって、前世の家族である皆様が沢山のお供えをされ、お経を聞き、また一緒にお唱えして功徳を積み、その功徳を手向ける回向するためになされたのです。お世話になった感謝の気持ちと共に、来世にあっても、しっかり幸せにいて下さいと功徳を回向するのです。
ですが、皆さんの積まれ回向された功徳は回向すると無くなってしまうものではなく、自らの功徳を他へ振り替えをした善行の功徳として自分自身のためにもなる行為です。その功徳は皆さんが亡くなるときに、善いことをした、亡き人に功徳を回向した善行として、善い来世を迎える因となることでしょう。
こうして私たちが健康で明るくつつがなく過ごしていられるのも、本当は、私たちにも前世があり、前世の家族が一生懸命回向して下さっているお陰なのかもしれません。前世の家族に励まされ、より自分自身が良い来世を獲得するためにも、より善く生きることが大切なのだということになるのです。
どうか若い次の世代にもこうした心をお伝えいただき、今後とも宜しくお願いいたします。
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今日は○○居士の十三回忌ということでお集まりいただき、お経を唱えさせていただきました。このあたりの田舎ではそんなことはないのですが、都会ではお葬式も法事もだんだんと簡略化しまして、法事をしない、さらにはお葬式もしないで直接火葬して埋葬してしまうなんていう家もあると聞いております。
もちろん仏教では、死はごく自然なものととらえています。忌み嫌うものではない。ですが、一方ではペットのお葬式だとか法事をする家もある時代に、かたや何もせずに火葬にする。ペットの方が人様よりも大切にされるおかしな時代と言えましょうか。本当に、こんな事でよいのでしょうか。
昔、知り合いの家で亡くなった人があり、すぐ火葬するので火葬場でお棺を入れるときに、少しお経を唱えてくれと言われて呼ばれたことがあります。その時は、そうは言っても、そんなに簡単なことではない、せめて病院の霊安室で拝ませて下さいと言って、そうさせてもらったこともあります。
だんだんと息子さん娘さんが都会に出られて、そちらの風潮をご覧になれば、このあたりでもそういうことがあるかもしれません。是非、若い世代の人たちにも、仏壇やお寺、お墓や先祖さんを大切にする心を伝えていって欲しいと思います。
私たちはみんな自分が死ぬなんて事を考えません。ですから、普段の生活をしていたら、そんなものはどうでもよいと思うかもしれません。自分はいつまでも健康な若い自分だと思っています。ですが、般若心経にあるように、私たちは五蘊という存在に過ぎません。五蘊とは、色受想行識、色が身体で、受想行識が心ということです。
心と体が一つになって私たちは生まれ、生きています。般若心経では、五蘊は空だというのですから、身体も空、心も空。空とは、無我ということです。無我とは何かと言えば、縁起するということです。これがあるからこれがある。それがまた次のものを生じさせていくという永遠と因果の関係にあるということです。つまり、何者もそのものだけで存在していない。他の物があり存在している。それが無我であり、空ということです。
私たちは一人では生きていけませんね。誕生ということも、お父さんお母さんがいて生まれてくるのですし、何も出来ない赤ちゃんは両親の手を借りて成長し、大きくなっても周りの人たち、動物や植物がいて、そのお陰でそれらの営みのお陰で生活しています。
だれもが、つまり様々な他のものと共存して存在している。もちつもたれつ。そして、それは固定したものではなく、周りが変われば自分も変わり、常に変化しつつある、無常なる存在だともいえます。
この世は誰にも無常ですから、いずれは誰もが老い病になり死を迎えることは逃れようもありません。みんな刻一刻と生まれた瞬間から老いが始まり、死に向かって生きています。身体はだから老いて病気にもなり、ついには終焉を迎える。
それで、身体の寿命が終えますと、それまでひとつだった心は身体と別れ、その時の心のエネルギーが次の世界に赴いて母体を得て一つの生命体として生まれる。それが、輪廻というもので、私たち衆生は六道に輪廻する、つまり地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六つの世界に生まれ変わる。
今日のご法事の○○居士は、12年前にお亡くなりになり、来世にお生まれになっている。○○居士という仏教徒の名前をいただかれて、来世でも仏教の教えを大切に生きて下さっていることと思います。
今日の法事はその先に向かって、前世の家族である皆様が沢山のお供えをされ、お経を聞き、また一緒にお唱えして功徳を積み、その功徳を手向ける回向するためになされたのです。お世話になった感謝の気持ちと共に、来世にあっても、しっかり幸せにいて下さいと功徳を回向するのです。
ですが、皆さんの積まれ回向された功徳は回向すると無くなってしまうものではなく、自らの功徳を他へ振り替えをした善行の功徳として自分自身のためにもなる行為です。その功徳は皆さんが亡くなるときに、善いことをした、亡き人に功徳を回向した善行として、善い来世を迎える因となることでしょう。
こうして私たちが健康で明るくつつがなく過ごしていられるのも、本当は、私たちにも前世があり、前世の家族が一生懸命回向して下さっているお陰なのかもしれません。前世の家族に励まされ、より自分自身が良い来世を獲得するためにも、より善く生きることが大切なのだということになるのです。
どうか若い次の世代にもこうした心をお伝えいただき、今後とも宜しくお願いいたします。
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