住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

国東半島と観世音寺4

2008年06月13日 11時52分35秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
観世音寺参拝

太宰府天満宮から南西に2キロほどのところに観世音寺がある。「遠(とお)の朝廷(みかど)」太宰府の条坊内、太宰府政庁の東隣に位置していた。太宰府は、九州の行政の中心であり、中国や朝鮮など異国の敵に備えた拠点であるばかりか、平時には外国から訪れる外交使節が最初に訪れる迎賓館でもあった。したがって、都に劣らぬ相応しい設えが必要であり、その一つとして観世音寺もあったであろう。

そもそも観世音寺は、朝倉橘広宮にて斉明7年(661)に崩じた第37代斉明天皇の追善のために天智天皇が勅願した寺である。斉明天皇は、唐と新羅から攻められた朝鮮半島の百済軍救援の為、中大兄皇子(後の天智天皇)等と共に、筑前を訪れ朝倉橘広宮に行宮を営まれたが、疫病によって崩御された。斉明天皇は天智天皇の母君であった。

しかし、女帝没後50年近くなるのに、寺はなかなか完成せず、遂に和銅2年(709)、時の元明天皇から、太宰府に対して早く造営せよとのご沙汰があり、養老7年(723)僧満誓が、そして天平17年(745)11月には僧玄が筑紫に派遣され造営に当たり、翌天平18年6月、やっと落慶法要が行われ、発願から80年近くの歳月を要して完成した。

玄は、唐に留学した際に玄宗皇帝から重用され、紫衣の着用を赦されたほどの僧侶で、唐からもたらした経論五千余巻は興福寺に勅蔵されて後の仏教学発展に大きく寄与した。帰国後は聖武天皇に重んじられて國分寺の創建に関わり、政治に深く関わった。

同じ遣唐船で唐に行った吉備真備と政治的パートナーとなって、藤原氏と対立。藤原広嗣が彼らを批判して九州で反乱を起こした藤原広嗣の乱に発展し、広嗣は捕らえられ殺されるが、政情不安となり、それで玄は観世音寺に左遷されたのであった。そして、その落慶法要の最中に急死。広嗣の怨霊のために怪死したとも伝えられており、北西の隅に墓所がある。

そして、天平宝字5年(761)正式な僧侶の戒律を授ける戒壇院が観世音寺に設置され、管内すべての寺の僧尼を管理掌握する府の大寺としての地位を得た。戒壇とは、シーマーと言われる結界をした場所のことで、その特別に設えた神聖なる場で正式な僧侶になるために戒が授けられた。

仏教が伝来したのは538年と言われるが、鑑真和上来朝の天平勝宝6年(754)まで二世紀もの間正式な授戒が行なえず、和上のもとで東大寺大仏殿前に戒壇を築き聖武上皇はじめ400人あまりに戒を授けたのが始まりと言われる。翌年には大仏殿西側に常設の戒壇が設けられ、その6年後に筑紫観世音寺と下野(しもつけ・栃木県)薬師寺に戒壇が設置された。

今の九州と壱岐、対馬の僧尼は観世音寺、関東地方から東北にかけてが薬師寺、その他中央部は東大寺で行った。授戒は、毎年3月11日から8日間と決められ、試験を受けて合格すると得度し、さらに戒を受ける資格試験があり、その後授戒申請して東大寺は20人の僧侶が、他は15人が立ち会い審査して授戒したという。

『続日本記』によれば、方3町327メートル四方を境内にして、中央正面に講堂(現在の講堂の2.5倍の大きさ)、東に塔、西に東向きに金堂を配す観世音寺式伽藍であった。また延喜5年(905)の『観世音寺資財記録』によると、当時は、大門・中門・五重塔・金堂・講堂等の仏殿を始め、荘園を有した大寺院であったことが伺われる。

康平7年(1064)の大火など何度か火災に遭い、保安元年(1120)律令制の衰退により太宰府の権力が失墜したため東大寺末となり、逆に寺領の収益や日宋貿易などで東大寺の経済を支えたと言われている。その後火災や台風により寺勢が傾き、戦国期には秀吉に寺領を没収され衰退。

現在の伽藍は江戸時代に復興する。寛永8年(1631)現金堂(現本尊不動明王)が、元禄元年(1688)に現講堂(現本尊聖観音)が再建された。この間に多くの丈六仏・巨大仏像を観世音寺は各堂に奉安していたが、現在は昭和34年建設の宝蔵に収蔵されている。

また戒壇院は、元禄16年(1703)観世音寺から独立し、黒田藩家臣らの寄進によって再建された。当初戒壇院は、敷地が南北65メートル東西32メートルの規模と推定されている。現在の戒壇は本堂内に花崗岩の切石で正方形に造られており、中央に盧舎那仏座像(平安後期の作像高148㎝・胸の前で五指を立て説法印を結ぶ)を安置しているが、これは往古の戒壇を転用したものではないかと言われている。現在戒壇院は福岡聖福寺末の臨済宗。

現在観世音寺創建当時の唯一のものとして、鐘楼がある。日本最古の銘文「文武2年(698)」を刻す京都妙心寺の鐘と同じ型による梵鐘と言われ、総高159㎝。もとは講堂の東南の角にあった。日本最古の白鳳期の名鐘で国宝。菅原道真が、「都府楼はわずかに瓦の色を見る観世音寺はただ鐘の音を聴く」と詠んだ。

最期に宝蔵内の諸仏を紹介しておこう。17体すべて国の重文。もと講堂の本尊だった不空羂索観音立像は、像高517㎝、鎌倉時代1222年の作。不空羂索観音は、左手に羂索(漁のための網と綱)を持ち、煩悩生死の世界に仕掛けて漏らさず済度する大悲願の観音。

無病、身体細妙、衆人愛敬、財宝自然、無災害、無饑餓、無戦死、鬼神害受けず、煩悩消え、毎日が慈悲と喜捨に満つと利益が説かれている。(興福寺南円堂の本尊としても祀られている) 観世音寺のこの御像は、頭上に十一面をいただく珍しい像。頂上の仏面は平安前期の作とみられ、前代の一部かと思われる。

十一面観音立像。像高498㎝、平安時代1069年の作。除病と滅罪の観音。前面三面は菩薩面で寂静相、右三面が瞋怒相、左三面が利牙出現相、後ろ一面が笑怒相、頭上一面が如来相で、観音の表象である阿弥陀の化仏が付く。すべて化仏の場合もあり、正面を一面と数えることもある。他にもう一体像高303㎝の十一面観音も蔵する。

馬頭観音立像。像高503㎝、平安後期1120年代の作。もと石清水八幡宮の護国寺薬師堂に旧蔵されていたとされる。檜材寄木造り。四面八臂の珍しい姿。顔は忿怒相、馬頭の印を結び、法輪と数珠の他は斧や剣など武器を持つ。観音ではあるが明王の性格を併せ持つ。馬は馬の頭に化身する破壊と創造の神・ヴィシュヌ神から転化したことを表す。馬は水草を食い尽くすように衆生の無明煩悩を貪り食って救済する、忿怒相は、慈悲が最も深いことを表す。

聖観音座像。像高321㎝、平安時代1066年の作。もと講堂の本尊。阿弥陀如来座像。像高219㎝、平安後期の作。もとは金堂の本尊。四天王立像。像高236~224㎝、平安後期。金堂に阿弥陀如来と共に祀られていた。樟材一木造り。国家鎮護の守護神。他に地蔵菩薩二体。吉祥天立像。大黒天立像など。みな平安時代の作。

宝蔵にはこれら巨大な仏たちが所狭しと安置されている。一堂に会すると正に圧倒される迫力。不思議な仏の世界を体感できる。外国の使節をあっと唸らせるに足る威圧感。多くの仏弟子たちに畏敬の念を持たせるに足る大きな存在であったろう。

そして、その仏たちの目に映った観世音寺の長い歴史は、まさに栄枯盛衰。国家の安泰を願い、沢山の僧侶の歩みを見守り、また、人々の安寧を見つめ続けてきた巨大仏たちのまなざしを、雄大な時間の営みに思いを馳せつつ感じ取りたい。

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コメント (4)
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