住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

6/19改訂 いのちとは何か-つらい思いを抱えている人に

2008年06月17日 18時25分31秒 | 仏教に関する様々なお話
私たちはみんなこの身体を持った自分が私だと思っている。この顔、この身体、今のこの思いや記憶を持った自分が私だと思っている。だからこのいのちも自分のものだと思う。私私と思っている私とは何か。そんなに確かな自分などと言える存在があるのか。

生まれてこの方ずっとこの身体が成長し、たどってきた道のりを生きてきたこの私はとても確かなものだと思っている。人から何か言われたり、何かされたりしたら、この私がうれしくなったり、逆に苦しくなり。イヤなことならことさらに何でこの私がと思う。

つらいことが重なりイヤになって逃げられなくなって、つい自分を傷つけたり、いのちを絶ったりする人も多い。自分のいのちだから自分がどうにでもしていいと思うのかもしれない。いやそんなことも考えずに、ただつらい現実から逃れたい、思い知らせたいとも思うのかもしれない。

私たちのこのいのちとははたしていかなるものなのか。昔は、いのちは授かりものだったのではなかったか。赤ちゃんは授かるもの、けっして親が作るものじゃない。天の神様か仏様か知らないがとにかく私たち人間の考えの及ばないところから授かった尊いものだった。

それが今では、いのちの尊さと叫ばれながら逆に軽く考えられてもいるように思える。なぜなのだろうか。尊い尊いと言いながら、その実いのちとはいかなるものかと説明されることが皆無だからではないか。近代科学では命を説明することは出来まい。単なる部品の構成では説明できない。

仏教では本来輪廻を説く。近代になって仏教者はなぜか近代科学思想に染まり、この輪廻転生を説かなくなった。誠に愚かしいことだと思う。輪廻からの解脱無くして仏教は存在し得ない。そもそものお釈迦様の出家の動機さえも無に帰してしまう。お釈迦様の悟りすらその意味を問うことになるであろう。

輪廻は世界の仏教徒の共通認識であり、日本でも当然のこととして受け入れられてきた。鎌倉時代、なぜあれだけ熱病的に浄土教が普及したのか。それは、武士の世にあって、来世に地獄に堕ちたくない、出来れば極楽浄土という天界に行きたいとの願いからであったろう。だから平安時代には既に輪廻思想は日本人に普通に受け入れられていたと考えられる。

私たちはみんな生まれてきたときから環境も体質も顔も違う。持って生まれた才能、好き嫌い。ものの好みも一人として同じ人はいないはずだ。なぜ違うのかと言えば、それは前世が違うから。何回も何万回も生まれ変わってきた、その間に蓄えてきた業がみんな違うからだと説明できる。

同じお母さんに生まれても兄弟で、ものの見方、考え方、好みは違うだろう。一卵性双生児であったとしても、身体は似ていても、その心や才能までは同じではない。やはり違うものをもって生まれ、違う人生での役割、その生涯でなすべきテーマとでもいうものは違う。

池川明さんという産婦人科医が、日本でも前世の記憶のある子供から聞き取りをして生まれ変わりの研究をされている。『子供は親を選んで生まれてくる』(日本教文社刊)という本を出されているが、それによれば、私たちはみんな自分で気に入ったお母さんを天の上の方から見て選び、自分に相応しい人生を歩むことの出来るお母さんのお腹に入って生まれてくるのだと書かれている。

仏教では、前回の生で死ぬ瞬間にどんな心で亡くなったか、その瞬間の心のエネルギーに相応しいところに生まれ変わると考えられている。その心に相応しいお母さんのお腹に宿り、その心にかなった人生を歩むべく私たちは人生をスタートさせる。

だからこの人生とは今生のこの私のものではなく、何度も何度も生まれ変わりしてきた心がいかに成長を遂げるか、そのために私たちが自分と思っているこの身体を借りて、今回の人生を歩んでいるということになるのだろう。だから私たちのいのちは、たかだか80年ばかりの、ずっーと繋がってきてその先もある心の連続の営みのそのごく一部であるに過ぎない。

ときに私たちにはとてつもない試練がやってくる。それも突然に。そんなはずではなかったといえるような事態に陥り、にっちもさっちもいかない。何でこんな事になってしまったのか。よくなるはずだったのになぜ、と思えることもあるだろう。周りの人たちからいじめに遭いつらい時間を過ごし耐えきれない思いをしている人もあるだろう。

またはかなり危険な病気になり、よく診察も受けないうちからもうダメだ、何でこの私がこんな病気になってしまったのか。この先どうしたらいいのかと思い眠れぬ晩を過ごすこともあるかもしれない。または、突然の事故で身近な人を失い、茫然自失このことをどう説明していいのかも分からないということもあるだろう。

そんなとき仏教はこう語りかける。今のあなたばかりが悪いのではない。これまでの沢山の過去世の報いとして今あなたのなされた何でもないと思える行為が縁となりその災難が訪れているのであろう、だから静かに受け入れましょうと。つらいけれども、その試練を受け入れ乗り越えることによって、あなたのこの人生で学ぶべき大きな課題をクリアすることが出来るのだから。

安易にそこから逃げてしまうことは何の解決にもならない。また同じようなことを繰り返すことにもなりかねない。自殺も、同じこと。それはけっしてそれで終わることなく、いのちは自分のものと思っているかもしれないが、いのちを大切にしなかった殺生の悪業が加算されて、さらに来世は難しい苦しい生が待っているであろう。

このいのちは自分のものではない。始まりも終わりもないいのちをこの身体が一時期預かっているに過ぎない。ということは、そんなに一人思い悩む必要もないということでもある。私私と思っている私は、心の連続に過ぎない。見るもの聞くもの、感じたものに反応し、頭の中に思い描いている心の連鎖を私と思っているだけだ。この身体のせいで私だと思っているに過ぎない。

私たちは、この身体という衣を脱ぎ捨てて、来世に赴いて行ってしまう心の連続を私と勘違いしているということになる。だから、私と思っているものは私たちの錯覚に過ぎないと仏教では考える。いま悩み苦しんでいるのは心であって、あなたではない。あなたは心の痛みをただ傍観するだけでいいのだ。

さらに、私たちが何回も何万回も生まれ変わりしてきたということは、過去生で何かしらみんな関係し、特に今生で縁のあったような人は前世でも何かしら関係をもち、親族であったかもしれないし、伴侶だったのかもしれない。様々な因縁をもって、ことに触れて関係するものたちとはきっと血を分けた兄弟だったのかもしれない。そんな風に考える。

だから、道行く人も、生きものたちもみんな前世では何かしら血縁があったであろう、お母さんであったかもしれないしお父さんであったかもしれない、みんながそれぞれに関係し共存しあっていると言える。そう考えると、みんなが自分と繋がりがあり大切なものたちであることに気づく。そこに深遠なる慈悲の心が生まれる。

だから私たちはだれもみんな一人で存在しているわけではない。それぞれに他と関わりをもち、ともにあることによって生きている。みんながいるから自分がある。孤独感に苛まれている人には他とともにあるからこそ今こうして生きているということに思いをいたして欲しい。あなた一人ではない、みんなそれぞれに大変な人生を生きているのだから。


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