おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

マイ・フレンド・フォーエバー

2024-07-21 07:06:05 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2020/1/21は「ハドソン川の奇跡」で、以下「波止場」「華岡青洲の妻」「花とアリス」「HANA-BI」「母なる証明」「バベットの晩餐会」「バリー・リンドン」「春との旅」「晩春」「反撥」と続きました。

「マイ・フレンド・フォーエバー」 1995年 アメリカ


監督 ピーター・ホートン
出演 ブラッド・レンフロー ジョセフ・マッゼロ
   アナベラ・シオラ ダイアナ・スカーウィッド
   ブルース・デイヴィソン ニッキー・カット
   エイブリー・イーガン レニー・ハンフリー

ストーリー
エリックは母親のゲイルと二人暮らしで、離婚した父にはなかなか電話ができずにいた。
エリックの母は冷たく、食事をしても冷凍食品という毎日が続いていた。
ある日、隣に男の子とその母親の二人が引っ越しをしてくる。
隣の少年は、HIVに感染しているデクスターだった。
最初はエイズを避けるエリックだったが、エイズが空気感染しないことを知り、遊び相手が欲しかったエリックはデクスターと遊ぶようになる。
デクスターのエイズは進行していて、疲れやすく、長時間遊ぶことは出来ない。
エリックはそれを気にせず、川下りに誘ったりして一緒に遊ぶ。
エリックはデクスターをどうにか治療できないかと、大量のキャンディーや、チョコバーを買い、独自の治療法を試していく。
いろんな葉っぱを煎じて、デクスターに飲ませて、葉っぱの効果をノートにつけるのが日課になった。
アザミ草を飲ませた夜にデクスターは毒草中毒になってしまった。
デクスターの母・リンダがエリックから検証したノートを受け取り、何も言わず急いで戻っていった。
幸いなことに、デクスターの命に別状はなかった。
エリックは、『沼地の植物からエイズに効く薬を発見!』というルイジアナの研究者の記事を見つけ、デクスターと一緒に、400キロ先のニューオリンズまで旅に出る事を決める。
途中、船を見つけるが、船がなかなか進まず、デクスターの薬は後3日分しかなくなってしまった。
エリックはお金を盗み、違うルートで進むことを決める。
中断した旅の後、デクスターは感染症を引き起こして入院していた。
毎日のように遊びに行くエリックだったが、デクスターの症状は徐々に悪化していく、


寸評
難病物として特に目新しいものはないが、ユーモアも交えて深刻になり過ぎず、予測される感動も与えてくれる良心的な作品になっている。
興味を引いたのは二人の母親の存在である。
二人ともシングルマザーなのだが、デクスターの父がいない理由は不明である。
描き方は単純だが、エリックが自分の母親よりもデクスターの母親に寄り添っているのが含みを持たせている。
食事の提供シーンで二人の母親の違いを視覚的に示して、デクスターの母親への肩入れを見せる。
デクスターの母親はエイズ感染をした子供を抱える人の代表であり、エリックの母親はエイズに偏見を持つ人の代表である。
エリックは自分の母親よりもデクスターの母親の方に愛情を感じているように見える。
デクスターは亡くなったが、母親はエリックに「たまには訪ねて来てね」と言う。
多分、エリックはこの後、何かにつけてこのオバサンに報告したリ相談したりするのではないかと思う。
エリックの母親に「今度あの子に手を上げたら殺す」と告げたのだから、エリックに対する愛情は実の母親よりも、この時点では深くなっていたのだろう。
今も上手くいっている関係とは思えないが、ますます親子の関係が上手くいかなくなっていくように思う。
それほどエリックとデクスターの母親との間には信頼関係が生じていたように思えた。

エイズに感染しているためにいつも一人で遊んでいるデクスターと、クラス仲間から嫌がらせを受けているエリックが親しくなるのは映画的に当然の成り行きだが、エリックがデクスターのエイズ治療に挑戦するのはユニークだ。
治療としてキャンディーやチョコバーを試すのは子供らしいが、その辺りにある植物の葉を煎じて試してみるのが可笑しいのだけれど、一方で子供なりの真剣さも感じさせる。
デクスターが毒草中毒になっても、デクスターの母親はエリックを責め立てるようなことをしていない。
描き方として単純すぎるとは思うけれど、喚き散らすエリックの母親とは対照的で人格者なのだ。
貯金をキャンディー購入に使い果たしたデクスターに罰として外出禁止を命じていたが、エリックが誘いに来ると許しているから、彼女はデクスターに対するエリックの存在を認めていたのだろう。
ニューオリンズ行で体調を崩したデクスターが入院することになっても、エリックが病院を訪ねてデクスターと会うことを許している。
息子の死を感じているが、その淋しさを人前では見せず一人で泣く。
その姿にエリックは本当のデクスターの母親を見たのだろう。

二人が病院で繰り返すイタズラには笑ってしまうが、それは看護師さんが怒るのもわかるイタズラで褒められたたものではない。
その後で医師が看護師に「患者に対して死ぬという言葉を使うな」と注意しているシーンには、細やかな演出を感じさせ、全体的に丁寧な描き方をしているのには好感が持てる。
デクスターが亡くなってからのそれぞれのシーンはいいと思う。
エリックの靴は伏線がはられていたが、いつも自分が一緒だという気持ちの表れだろうし、エリックの靴は目指したニューオリンズに到着出来なかったけれど、今度は無事に行けよという思いだったのだろう。

迷子の警察音楽隊

2024-07-20 08:10:32 | 映画
「迷子の警察音楽隊」 2007年    イスラエル / フランス


監督 エラン・コリリン     
出演 サッソン・ガーベイ ロニ・エルカベッツ
   サーレフ・バクリ  カリファ・ナトゥール

ストーリー
ちょっと昔の話。
揃いの水色の制服に身を包み、空港に降り立った一団があった。
イスラエルに新しくできたアラブ文化センターでの演奏を依頼されたエジプトの警察音楽隊である。
しかし、空港に彼らを待っている人は誰もいなかった。
楽隊を率いるのは誇り高い団長トゥフィークで、彼は自力で目的地を目指すことにする。
ところがたどり着いた先は、目的地と似た名前の全く別の場所。
若手団員カーレドがちゃんと聞かなかったのか、空港の案内係が間違ったのか、一行は目的地〈ペタハ・ティクバ〉と名前がよく似た、ホテルさえない辺境の町〈ベイト・ティクバ〉に迷い込んでしまったのだ。
お金もなくお腹を空かせた一行は、とある食堂の女主人の好意で食事をさせてもらうことになる。
ぶっきらぼうだが面倒見のいい女主人の名はディナ。
一日一本しかないバスを逃した彼らに他の手段はなく、団員は3つのグループに分かれ、食堂、ディナの家、そして食堂の常連イツィクの家で一泊することになる。
トゥフィークはカーレドと共にディナの家に泊まることになった。
夫と離婚したというディナは、ひとりで暮らしていた。
女と見れば口説きにかかるカーレドはディナにも興味津々だが、ディナが興味を持ったのは堅苦しいまでに真面目なトゥフィークの方。
カーレドは、地元の若者パピがデートに出掛けるというのに無理やりついていく。
しかし、パピは女の子の扱いをまったくわかっておらず、デートは目もあてられないありさまに。
パピは、カーレドに手取り足取り教えてもらいながら、女の子とはじめてキスを交わすことに成功する。
イツィクの家では、3人の団員が家族と食卓を囲んでいたが、話が盛り上がるはずもない。
イツィク自身、1年近く失業しており、家族に失望されていた。
しかし、族の一員がかつてバンドをやっていたことで歌を介して、ぎこちなかった食卓に親密さが生まれていく。
町のカフェでトゥフィークと心を通いあわせて家に帰ってきたディナは、意を決して「トゥフィーク、エジプト映画は好き?」と話しかける。
「小さい頃、テレビでやっていたのよ。オマー・シャリフ、ファテン・ハママに憧れたわ。あんな悲恋に恋していた。今夜は映画の再現みたい。エジプト映画の燃える恋。でもダメね。私じゃブチ壊しだわ。」
それは、挫折を繰り返してきた、彼女なりの告白だった。
だまって聞いていたトゥフィークは、口を開いた。
一人息子がかつて過ちを犯したこと。
厳しく接しすぎた自分のせいで自殺してしまったこと。
そして妻が息子を失った哀しみから死んでしまったこと。
トゥフィークは言う、「ディナ、君はいい女性だ」と。
次の朝、食堂前に集合した団員たち。
昨日「ディナ」と呼びかけたことなどなかったように、「奥さん、お世話になりました」と堅苦しい挨拶をするトゥフィーク。
「行き先はペタハ・ティクバよ」と、町の名前を書いた紙切れを渡すディナ。
何か言いかけるが言葉が出てこない。
レストランの外に出たトゥフィークは、ぎこちない仕草で彼女に手を振った。
それは、前の晩、彼らがさまざまな違いを乗り越えて、確かに心を通わせたことを示す、小さなジェスチャーだった。
再び、イスラエルの青い空の下。
演奏するアレキサンドリア警察音楽隊の姿があった。


寸評
ヘブライ語、アラビア語、英語のやり取りを日本語字幕で見ていることがそもそも面白い。
エジプトとイスラエルと言えば中東戦争を何回も引き起こした国である。
そのエジプトの音楽隊とはいえ警察が、イスラエルを訪問して迷子になってしまうという設定がユニーク。
そしてその結果として、大事件が起きるでもなく、いやむしろ何事も起こらないで、交流を持った人々と時として間の悪い静かな時間を過ごしながらも、心だけは通わせていく平凡な時間の推移がこれまた映画としてユニーク。
とにかく地味に時間だけが過ぎていくのだが、それでもなんとか打ち解けあいたいという気持ちだけは通じてくる。
そのじわじわとした展開がこの映画の持ち味だった。
分かれる際のトゥフィークの手の振り方が総てを象徴していたと思う。

ディナの家に帰ってきたカーレドが、「チェット・ベイカーは好き?」とディナに尋ねた時に、「好きだ。レコードも全部持っている」と答えたのがトゥフィークの方だったことは、若いカーレドと上司であるトゥフィークとが心を通じ合わせた出来事だったと思うのだが、そのあとでディナと結ばれたのはカーレドの方だったことと、それを垣間見たトゥフィークの変わらぬ冷静な態度がより一層映画に心理的深みをもたらしていたと思う。

それにしても起伏の少ないこの映画にあって、歌声が流れるシーンは感動したなあ。
エンドロールが流れる時にかぶさる音楽もすごく感動的だった。
もちろん劇中で彼等が口ずさむ歌声も。
そして彼等が着用していたブルーの制服がとてつもなく印象深かった。
見終わってから知ったことなのだが、彼等が間違った地名の「ベイト・ティクバ」は希望の家という意味で、本来訪ねるはずだった地名の「ベタハ・ティクバ」は希望を開くという意味らしい。
だとすると、そもそもこの間違った地名こそが大きな意味を持っていたことになる。
彼らは希望の家に泊まり、希望を開いたのだ。
希望とは平和そのものに違いない。

しかし今のイスラエルとハマスの戦いでガザの状況を見ると、平和に対する希望が見いだせない。
現実は厳しい。

マイ・インターン

2024-07-19 07:16:33 | 映画
「ま」行です。

「マイ・インターン」 2015年 アメリカ

               
監督 ナンシー・マイヤーズ                        
出演 ロバート・デ・ニーロ アン・ハサウェイ レネ・ルッソ
   アダム・ディバイン ザック・パールマン シリア・ウェストン

ストーリー
ファッション通販サイトを起業し、ニーズを的確に掴んで短期間で急成長させることに成功したジュールズ(アン・ハサウェイ)。
そんな彼女の会社に、シニア・インターン制度によって70歳のベン(ロバート・デ・ニーロ)が雇われる。
妻に先立たれ、新たなやりがいを求めて再び働くことを望んだ彼だったが、若者ばかりの会社ではすっかり浮いた存在に。
ところが、ベンはそんなカルチャー・ギャップを楽しみ、たちまちオフィスの人気者に。
最初は40歳も年上のベンに何かとイラつくジュールズだが、いつしか彼の的確な助言に頼るように。
一方、ここまで仕事も家庭も順調そのものだったジュールズは、急速に拡大した会社の経営にうまく対応することができず大きな試練に直面していた。
人生経験豊富なベンは彼女に最高の助言を与え、2人は次第に心を通わせていく。
やがて彼の言葉に救われたジュールズは、予期せぬ人生の変化を迎える…。


寸評
映画の世界のお話というものがあるけれど、本作のようにほっこりとさせられる作品もその一つ。
内容としては、さほどではないが、コメディタッチの温かさが心地よい。
ジュールズの会社は時代の最先端を行く企業で、ネット通販の会社はこんな雰囲気なのだろう。
社員はカジュアルな服装でITを駆使して仕事をしているのだが、それに対してベンは常にスーツにネクタイ姿に古いカバンで出社。
初日にカバンから取り出した事務用品はどれもがクオリティのあるもので、彼のステータスを感じさせる。
パソコンの前に電卓を取り出すことで、世代間ギャップを誇張する。
そんな風に感じたのは、僕が在職中に同じような光景を目にしたからである。
社員にパソコンを配布したのだが、あるベテラン社員はパソコンの前にソロバンを置いて計算結果を打ち込んでいた。
漫画の様な懐かしい話・・・。
いわゆるオールドとニューの対照で、その面白さがまず目を引く。
最初はベンを嫌っていたジュールズが彼と少しずつ心を通わせていくのだが、その展開に無理はない。
無理を感じさせないほのぼの感がある。
アン・ハサウェイのジュールズが厳しさの中に愛くるしいところを見せることにもよるが、年齢的に僕がロバート・デ・ニーロに感情移入しているせいに違いなかったと思う。
自分も彼のように全てにおいてハイセンスでありたいものだと思う。

ドラマのポイントはジュールズとベンの交流なのだが、そこでのロバート・デ・ニーロの演技が絶品。
ロバート・デ・ニーロが浮かべる笑顔がすばらしい。
場面に応じてセリフ以上の表情を見せる。
その立ち振る舞いが年齢と節度と経験を感じさせる。
それを自然体で見せるデ・ニーロはやはりスゴイ、上手いと思わせる。

作中の会話の中にビヨンセ、ジャック・ニコルソン、ハリソンフォードなどの名前が登場し、「オーシャンズ」シリーズも飛び出す観客サービスを見せる。
ちょっとウケ狙いし過ぎかと思わぬではないが、じっくりと作り込んでいるのでそれも許せてしまう。
ベンにとってはジュールズを娘の様に思ったのかもしれないが、僕だってジュールズのようなCEOがいたら必死で仕えると思う。
反対に、女流監督であるナンシー・マイヤーズはこんな部下がいてくれたらという思いがあったのかもしれない。
ベンが言う男がハンカチを持つ意味を心にとどめておこう!

ホテル・ルワンダ

2024-07-18 06:42:58 | 映画
「ホテル・ルワンダ」 2004年 イギリス / イタリア / 南アフリカ 

           
監督 テリー・ジョージ     
出演 ドン・チードル ソフィー・オコネドー ホアキン・フェニックス
   ニック・ノルティ デズモンド・デュベ デヴィッド・オハラ

ストーリー
1994年、ルワンダの首都キガリ。
多数派のフツ族と少数派のツチ族の内戦はようやく終息したものの街は依然不穏な空気に包まれていた。
ベルギー系の高級ホテル“ミル・コリン”で働く有能な支配人ポールは、ある晩帰宅すると暗闇に妻タチアナと子どもが身を潜めていた。
フツ族大統領が何者かに殺され、これを契機にフツ族の人々がツチ族の市民を襲撃し始めたのだ。
ポール自身はフツ族だったが、妻がツチ族だったことから、ひとまずミル・コリンに避難することに。
外国資本のミル・コリンはフツ族の民兵たちもうかつには手を出せなかった。
そのため、命からがら逃げ延びてきた人々が続々と集まってくるのだが…。


寸評
ルワンダの大虐殺はニュースや報道写真で知っていたが、その報道期間の短さや、関心の低さ、あるいは中途半端さで、その実体を僕は今も知らないでいる。
報道は加熱したが、すぐに下火になった。
ありていに言えばメディアも僕達もその報道に飽きたのだ。
映画の中でも、ジャーナリストに「世界の人々は映像を見てかわいそうねと言うけど、そのままテレビを見ながら食事を続ける」という発言をさせていた。
ルワンダというアフリカ中部の小さな国に石油でも湧いていれば、もっと違った報道がされていたと思う。
しかしともあれ、3ヶ月ぐらいで80万人が虐殺された原爆投下以来の短期間大量殺戮だった事だけは知っている。
そして、アフリカの内戦に付き物のヨーロッパ諸国における植民地時代の陰もあって、ベルギーだとかフランスなどが絡んでいたらしいことも知識としてはある。

世界的にも中身の濃い報道がなされていなかったらしいので、そんなことに対する、もっと政治的メッセージの強い映画だと思っていたら、そんな堅苦しい演出は無くて、むしろ家族愛のようなものが前面に出ていた。
こんな残酷な事が許されるのかとか、何故世界はこの状況を救うことが出来なかったのかなどという視点では描かれていなかったと思う。
その虐殺の残虐シーンが直接描かれる事はほとんど無くて、虐殺後の死体の山を写すことなどで処理していたことに起因しているのではないか。
国連軍の無力は描かれているけれど、ベルギーやフランスがどのように係わったのかは不明のままなので、政治映画、思想映画ではないことは確かだ。
そしてその描き方に不満をもつことなく見ることが出来たのは、家族の絆を見せつけたドン・チードル、ソフィー・オコネドーの熱演が寄与していた。

ポールは四つ星ホテルの支配人なので富裕層になる。
そのため、内戦の中での悲惨な生活は描かれないし、どちらかと言えばその中で優雅な生活スタイルをとっている。
そのことにちょっとした違和感があったけれど、行方不明になった姪御達を必死で探し、引き取る姿には心打たれた。
家族を守る強い意志だけは終始一貫して描かれていて、その延長線上で難民の受け入れをやっていたと思う。
ルワンダ紙幣ではなく、酒や貴金属などの現物賄賂を駆使してピンチを切り抜けていくのを見ると、金なんてただの紙で非常時には何の役にも立たないことも解り、それに執着する昨今のマネーゲームが可笑しくも思った。

この映画を見たことでルワンダの大虐殺のことを調べてみた。
今新たにその実体を知るに至って、僕にとっては当時の報道よりも詳しく知る事が出来た。
そんな行動をとらせたことを思うと、映画の果たす役割も大きいものが有るなとも思う。
変に主張の多い映画よりもそんな行動をとらせるには効果的だったかも。
その目論見を狙った脚本だったら本当にスゴイ。
ジャン・レノが救済に関係する重要人物として少しばかり登場するが、クレジット・タイトルに彼の名前が無かったのは何故?
それとも僕の見落とし?

ルワンダ大量虐殺について
もともと言語も同じだったツチ族とフツ族には歴史的な背景があり、遊牧民族であるツチ族と農耕民族であるフツ族の違いが、貧富の差を生み、裕福なツチ族と貧しいフツ族という階層を作っていく。
やがてドイツやベルギーの統治者がやってきて、ルワンダ人をフツ族、ツチ族、そしてトゥワ族に分類。
フツ族とツチ族はそれでもまだ良好な関係を保っていたが、小学生にまで人種差別の思想をたたきこみ、ツチ族は高貴な民族であるのに対し、フツ族は下等な野蛮人とみなす神話を作り上げた。
しかし、ツチ族とフツ族の立場は独立をめぐって逆転する。
ツチ族の支配者たちはベルギーと距離を置いて権力を維持しようとしたのに対し、ベルギーはフツ族支援にまわった。
永年の恨みも重なり、 フツ族によるツチ族の大量虐殺が行われ、ツチ族は周辺諸国に流出していった。
一方、隣国ブルンディではベルギーからの独立に際して逆にツチ族が権力の掌握に成功した。
1992年に行われたフツ族の弾圧で生まれた難民がルワンダに流れ込み、このフツ族難民たちが1994年の大量虐殺のときに大きな役割を果たしたという。

1994年4月6日、フツ族のルワンダ大統領を乗せた飛行機が何者かに撃墜される。
フツ族によるツチ族の大量虐殺がこれをきっかけに始まった。
フツ族の支配層は反ツチ族の洗脳キャンペーンを繰り返していたので、政府軍と暴徒化したフツ族によって80万人から100万人のツチ族と穏健派フツ族が殺害されたと見られている。
国連安全保障理事会は、ルワンダ新政府の要請を受けて、ルワンダ領域内及び隣接諸国において非人道行為を行った者を訴追・処罰するためのルワンダ国際刑事裁判所を設置、現在も審理が続いているらしいが、映画の最後のテロップでも誰々が死刑になったとか終身刑になったと流れていた。

ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン!

2024-07-17 06:58:41 | 映画
「ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン!」 2007年 イギリス / フランス

               
監督 エドガー・ライト                             
出演 サイモン・ペッグ ニック・フロスト ジム・ブロードベント
   パディ・コンシダイン ティモシー・ダルトン ビル・ナイ
   ビリー・ホワイトロー エドワード・ウッドワード
   ビル・ベイリー デヴィッド・ブラッドリー
   ケヴィン・エルドン レイフ・スポール

ストーリー
首都ロンドンで日夜市民の安全を守り続ける勤勉な警察官、ニコラス・エンジェル巡査。
その活躍ぶりは誰もが認めるところ。
しかし、あまりにも優秀すぎるがゆえに同僚たちの反感を買い、ついにはのどかな田舎町サンドフォードの警察署に左遷されてしまう。
事件らしい事件も起こらず途方に暮れるニコラス。
おまけに、無理やり組まされた相棒のダニーは脳天気な上に大の警察映画マニアで、映画と現実を混同してはニコラスを戸惑わせる。
やがて二人は徐々に打ち解けていき毎日仕事に励んでいるが、事件といえば白鳥が逃げたことくらい。
そんな中、ある日村を揺るがすような不気味で残虐な事故(事件?)が発生する。
その後次々と残虐な事故(あきらかに事件・・・)が起こっていくが、平和すぎて村の住人の感覚が麻痺したのか、次々に起こる殺人事件を、誰も殺人とは思わない。
状況からも明らかに犯罪と確信したエンジェルは、ロンドン時代に得た方法でダニーと共に捜査を始めるのだが…。


寸評
個人的な事前認識として、日本以外でいち早く評判になり、その面白さを知った人々が呼びかけて署名運動を行った結果、日本公開が決まったコメディ映画というイメージを持っていた。
同様のケースに少し前に政治的映画の『ホテル・ルワンダ』という作品があって、こちらは中々の出来栄えだったように思う。
本作にもそのような期待を抱いて見たのだが、期待が過ぎたのか僕には少し物足りなさが残った。
この事前の経緯の割りには僕にとっての物足りなさはいったい何処から来ていたのだろう?
まずこの村の平穏さの象徴として、白鳥の逮捕劇があったりするのだが、このようなエピソードに代表されるような可笑しさが、僕の英語力の無さかイマイチ伝わらなかった。
もっともこの白鳥は後半で再び登場してそれなりの役割を果たすので、コメディ部だけを受け持っていたわけではないのだが、全体的に可笑しさがこみ上げてこなかった。
では可笑しくないのかと言うと、そうでもなくて、なんとなく可笑しいのだ。
そのような微妙なシーンがとても多かったような気がする。
要するに、この映画は僕の感性とはずれていたのだと思う。
犯人らしき人物は直ぐに想像できる展開になっていて、最後にどんでん返しの展開に持って行くやりかたも、「あーなるほど騙されていたのか」との爽快感は持てなかった。
ただし、これぞB級映画!として見る分には、中身はいろんなパターンが詰め込まれていて楽しめる。
最後の銃撃戦もチャチャを入れながら見られるので肩は凝らない。
バカバカしさと面白さが同居してこそB級映画で、その意味でこの映画は間違いなくB級映画の傑作だ。

ぼくのエリ 200歳の少女

2024-07-16 07:03:43 | 映画
「ぼくのエリ 200歳の少女」    2008年 スウェーデン 

    
監督 トーマス・アルフレッドソン                            
出演 カーレ・ヘーデブラント リーナ・レアンデション
   ペール・ラグナー

ストーリー
ストックホルム郊外の小さな町。
集合住宅に母親と2人で暮らす12歳の少年オスカー。
同級生のイジメに苦しみながらも、誰にも助けを求めることが出来ず、ただ復讐を夢想してはじっと堪え忍ぶ日々。
そんなある晩、彼はひとりの謎めいた少女と出会う。
彼女は、オスカーの家の隣に父親と引越ししてきたばかりの少女エリ。
やがて、同じ12歳だという彼女と毎晩のよう毎晩のように中庭で顔を合わせ、寝室の壁越しにモールス信号を送り合うようになる。
自分よりも大人びた彼女に次第に心惹かれていくオスカー。
その頃、町ではおぞましい殺人事件をはじめ奇妙な出来事が立て続けに起こり、住民の間に不安が広がっていた。
そんな中、エリが少女の姿のまま200年も生きているヴァンパイアだという衝撃の事実を知ってしまうオスカーだったが…。


寸評
単なるヴァンパイア映画でなく、底辺にイジメの問題が横たわっていて、さらには孤独な少年と彼の心が分からない大人との断絶、そして少年と少女の淡い恋などが描かれ奥深い。
最初はイジメにあうオスカーが描かれ、たいていの場合がそうであるように、オスカーもその事実を母親にはひた隠す。
しかし自身はいつかやっつけてやりたい気持ちが有り、屈折した毎日を送っていることが描かれる。
そしてエリ親子が引っ越してきて、やがてエリに強く出ることをけしかけられる。
ルービックキューブを通じて親しくなった二人だが、やがてオスカーはエリの秘密を知ってしまう。
その場面のエリがオスカーの血を見てお腹をゴロゴロ鳴らすあたりの描写は面白い。
そして、とまどいつつも完全にエリを拒否できないオスカーの様子が少年の少女に対する気持ちをうまく表現していて微笑ましくもある。
血を吸わずには生きていけないエリと、それを知ってもどうすることもできないオスカーの2人の切なさや哀しさが伝わってくる。
スウェーデンの雪に覆われた冷たい風景が詩情あふれる世界を生み出し、ヴァンパイア映画ではあるが、グロテスクな描写はあるもののメルヘンチックですらある。
唐突に思えるラストも、孤独な2人が行き着く先に思いをはせれば納得出来るのだが、その余韻は僕に次のような空想をもたらした。
エリは歳を取らないがオスカーは成長していく。
エリはその間もオスカーを見守るが、やがて成人したオスカーはエリに物足りなさを感じ新たな恋人が出来る。
エリは彼女に嫉妬しヴァンパイアの餌食とする。
絶望した彼はエリに襲いかかるが逆に噛みつかれて自らはヴァンパイアとなってしまう…。
その後の彼らを想像すると僕の中ではそんな展開となる。
この年2本の吸血鬼映画を見たのだが「渇き」よりは楽しめた。

ポエトリー アグネスの詩

2024-07-15 07:37:08 | 映画
「ポエトリー アグネスの詩」 2010年 韓国   

                               
監督 イ・チャンドン                                            
出演 ユン・ジョンヒ イ・デヴィッド キム・ヒラ カン
   アン・ネサン パク・ミョンシン

ストーリー
66歳のミジャは、釜山で働く娘に代わって面倒を見ている中学3年生の孫ジョンウクと2人暮らし。
介護ヘルパーとして働く彼女は、ある日、偶然目にした広告がきっかけで詩作教室に通い始めるが、まもなく初期のアルツハイマーと診断される。
ミジャは、“見ることがいちばん大事”という作詩教室の講師の言葉に従い、見たものについて感じたことを手帳に記していく。
そんなとき、ジョンウクの友人ギボムの父親から連絡を受け、孫の仲間6人の保護者の集まりに呼ばれ、ジョンウクと友人たちが、自殺した同級生の少女ヒジンに性的暴行をしていたことを知らされる。
ミジャは、アグネスという洗礼名を持つヒジンの慰霊ミサに行く。
そこで、入り口にあったアグネスの写真を持ち去ったミジャは、次第に彼女に心を寄せるようになり、アグネスの足跡をたどっていく…。


寸評
派手さはないし、テーマも重たいけれどけっして重苦しい映画ではなく、深い余韻に浸れる映画だ。
緩やかなカメラワークで、ミジャは孫のジョンウクを詰問するような所はなく、引き起こしたことの重要さを想う時でもそのタッチは変わらない。
あまりの静けさと、ジョンウクの悪びれた様子の無さに反感すら覚えるくらいである。
しかしそれは繊細な感情表現であることが徐々に感じ取れるようになってくる。

ミジャは詩という新しい世界に足を踏み入れた喜びを見せ、アルツハイマーを宣告された戸惑いを見せる。
孫が起こしたおぞましい出来事を知った悲しみ、嘆き、怒りといった主人公の内面をストレートに表現するのではなく、行動や表情の微妙な変化によってあぶりだしていく。
ミジャはなかなか思うような作詩が出来ないので苦労するが、それが生活苦や、孫の起こした事件や、その事件をもみ消すための金策、あるいはその行為そのものといった人生の苦悩とリンクしていく。

孫の事件が大きな展開を見せ、ミジャはついに完成した詩を通じて死んだ少女ヒジンと同化していく。
哲学的ともいえる不思議な魅力にあふれていて、この数分間は圧巻のシーンとなっている。
警察に通報し事の裁きを待ち、作詩仲間の刑事とバトミントンをするミジャの姿は感動的ですらある。
教室の終了時の宿題として老女だけが作成した詩は少女の詩となり、少女の声となり変わっていく。
少女は微笑んでいるのだが、恐らく老女も川の流れにゆったりと身を任せ静かに流れていったのだろうと思わせる余韻の映像も最後まで静かだった。

本当に静かな映画だったなあ…。

ボーン・レガシー

2024-07-14 07:24:04 | 映画
「ボーン・レガシー」 2012年 アメリカ


監督 トニー・ギルロイ
出演 ジェレミー・レナー  エドワード・ノートン
   レイチェル・ワイズ  ジョーン・アレン
   アルバート・フィニー デヴィッド・ストラザーン
   スコット・グレン   ステイシー・キーチ

ストーリー
ジェイソン・ボーンの消息は依然掴めないままとなっていた。
その一方でアーロン・クロスという人物が次なる計画、アウトカム計画の主要なメンバーとなり、トレーニングのためにアラスカの寒い森の中で暮らしていた。
ガーディアン紙の記者がこの頃、イギリスのウォータールー駅で暗殺されるという事件が起こった。
ジェイソン・ボーンにより、CIAの違法な活動が次々と明るみに出ていた。
その中にはアウトカム計画も入っており、上層部はアーロンを消し去ることを決意する。
アラスカの上空で無人機がアーロンを見つけると、ミサイルを撃ち込み、上層部はアーロンが死んだと思った。
また、アウトカム計画に携わっている研究者は銃を持ち、研究所内のデータを壊すと、所員を殺害していった。
そこにいた生化学者のマルタは逃げ延びたが、家に訪ねてきた人物たちが「アウトカム」の関係者として口止めするためマルタを殺そうとしたところ、そこにアーロンが現れて彼女は救助された。
そこで彼女がいつもアーロンのカウンセリングを行っていたことが判明する。
アーロンはブルーのピルを飲んでおり、薬の代用可能な活性ウイルスを接種するためピルを製造しているマニラに行くことになった。
彼らがマニラにいくことを突き止めた上司は、殺人マシーンをマニラに送り込んだ。
マニラの工場についたアーロンたちは、そこでブルーのピルを取り除いた。
警官たちが異常に気付き閉鎖しようとしたが、彼らは逃走に成功する。
マルタとともにバイクを使い、警察の追っ手から逃れたが、そこに殺人マシーンが近づいてきた。
殺人マシーンは警察のバイクを使い、彼らを追撃したが、柱にぶつかり死亡した。
アーロンとマルタは、男の人の船に乗せてもらい、知らない土地へと旅立った。


寸評
「トレッドストーン作戦」の裏で動いていたもう一つの国家的陰謀ということで、ジェイソン・ボーンのマット・デイモンは写真のみで登場し、女性指揮官のパメラ・ランディが少しだけ顔を見せる。
シリーズを見てきた者へのサービスだろう。
本作においては、アーロンを抹殺しようとしている側の人物が多くて、当初僕は彼らの権限と役割がよく分からなかったので整理してみる。

指揮をとっているのは国家調査研究所の責任者であるリック・バイヤーだ。
彼は「我々は人の益になる非道徳的な人間なのだ」と言い、国民を守るためには罪を犯しても良いという信念の持ち主だ。
ゲノムに関する科学史上の画期的な発見者であるヒルコット博士が発案した「アウトカム」という極秘作戦を運用中だったのだが、違法活動が明るみになりそうなので関係者を抹殺しようとしている。

ゲノム操作が絡んでいるので製薬会社が登場し、バイヤーに協力しているのがステリシン・モルランタ社の医療統括責任者であるテレンス・ワードで、彼は会社の利益の為に「アウトカム」を中止すると言うバイヤーに反対するが説得されている。
テレンス・ワードは自社の利益の為に戦争継続を主張する軍需産業関係者を連想させる。
マルタが明らかにする青の薬と緑の薬に関するエピソードはインパクトが弱いと思う。

同じくバイヤーに協力しているのが退役軍人のマーク・ターソなのだが、彼の所へ極秘作戦が暴露された対処についてCIA長官ほどの人がバイヤーに相談したいと話に来るほどの立場の人なのかよく分からなかった。
更に理解できなかったのが研究所で乱射事件を起こしたドナルド・フォイト博士だ。
彼はバイヤーに命じられて開発に係わっている研究所の人間を殺そうとしたのか、漏れた青い液体の揮発成分を吸い込んで異常行動を起こしたのか分からなかった。
自殺したのは命令の遂行の一環だったのか、異常行動の終焉だったのかを理解できなかった。

「アウトカム」より進化した「ラークス」のNo.3なので、この殺人マシーンと化した男のスゴサはアーロン以上でなければならないはずだが、それが上手く描かれていない。
バイクによるカー・チェイスは見どころのひとつとなっているが、No3の処理はあっけない。
アクション映画としてのスピード感やスリルは「ボーン・シリーズ」の前3作には及んでいないと思われる。

興味を引いたのはバイヤーがCIAや国防総省、アメリカ国家安全保障局(NSA)を動員し、更には軍事目的の通信傍受システムであるエシュロンを利用してアーロンの行方を割り出していく様子だ。
現実に米国は各国首脳の電話を盗聴していたことが報じられたことがあったので、この様子はリアリティを感じさせ、米国の力と怖さを知らされた思いがした。
脚本家のトニー・ギルロイが手掛けたスピン・オフ作品と思われるが、ジェイソン・ボーンのシリーズに比べると迫力不足は否めない作品となっている。

塀の中のジュリアス・シーザー

2024-07-13 07:51:17 | 映画
「塀の中のジュリアス・シーザー」 2012年 イタリア                                 

監督 パオロ・タヴィアーニ / ヴィットリオ・タヴィアーニ                       出演 コジーモ・レーガ サルヴァトーレ・ストリアーノ
   ジョヴァンニ・アルクーリ アントニオ・フラスカ
   フアン・ダリオ・ボネッティ ヴィンチェンツォ・ガッロ
   ロザリオ・マイオラナ ファビオ・カヴァッリ

ストーリー
舞台上で、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」が演じられている。
そして終演となり、舞台上に全キャストが集まり挨拶する。
観客はスタンディング・オベイションで大きな拍手を送る。
観客席がはけて、照明も消され、俳優たちが引き上げていく……。
6か月前。イタリア、ローマ郊外にあるレビッビア刑務所。
ここでは囚人たちによる演劇実習が定期的に行われている。
毎年様々な演目を囚人たちが演じ、所内劇場で一般の観客相手にお披露目するのだ。
指導している演出家ファビオ・カヴァッリが今年の演目を「ジュリアス・シーザー」と発表。
早速、俳優のオーディションが始まり、配役が決定する。
シーザーに、麻薬売買で刑期17年のアルクーリ。
キャシアスに、累犯及び殺人で終身刑、所内のヴェテラン俳優であるレーガ。
ブルータスに、組織犯罪で刑期14年6ヶ月のストリアーノ。
次々と、主要キャストが発表され、本公演に向けて所内の様々な場所で稽古が始まる。
ほどなく囚人たちは稽古に夢中になり、日常生活が「ジュリアス・シーザー」一色へと塗りつぶされていく。
各々の監房で、廊下で、遊戯場で、一所懸命に台詞を繰り返す俳優たち=囚人たち。
カメラは、そんな彼らの日常に密着しつつ、虚実が交錯する演出で、次第に刑務所全体がローマ帝国に変貌していくかのような錯覚を起こさせ、あるいは俳優=囚人と演じる役柄が同化していくさまをスリリングに描き出していく・・・。


寸評
題名が興味をそそる。
塀の中とはもちろん刑務所のことなのだが、僕達が普通では目に触れることすらない特殊な空間が舞台と言うだけで興味がわき、崔洋一監督に「刑務所の中」というおかしな映画もあったなと思っているうちに上映開始。
そちらとちがって、こちらはまるでドキュメンタリー映画かと錯覚させるようなつくりで、くつろげるような場面もなく、ぐいぐいと画面に引きつける剛腕映画だった。
ステージや稽古場は改装中で使用不能という設定が効いて、役を演じる囚人たちが刑務所の廊下や監房の空きスペースを使ってシェイクスピアを演じることでドラマチックな効果を上げている。
この設定が第一に評価される点だと思う。
印象に残るのはシーザーの暗殺後に行われるブルータスとアントニーの有名な演説シーンで、刑務所の各監房から見下ろせる中庭にシーザーの遺体を置き、それを鉄格子越しに見守る囚人たちをローマの群衆に見立て、群衆の支持がブルータスからアントニーに傾いていく様を表現した不気味とも言える迫力シーンだ。
行き詰まりのわずかな空間で稽古に打ち込むシーンをはじめ、簡略化した背景はすでに舞台の大道具の様でもあった。
第二は演じている俳優が10年以上の長期刑や終身刑という本物の重犯罪者ばかりで、その面構えは本物の味を出している点だ。
暴力に明け暮れていた男たちに、古代ローマの血なまぐさい権力闘争を演じさせるということで、彼等の経験した現実と古代ローマの歴史がオーバーラップしていき、演劇と言う虚構の世界が彼等の人生に覆いかぶさる展開に舌をまかせる。
それにしても素人であるはずの囚人たちのなんと達者な演技であることか!

冒頭に上演の最終幕が映し出され、それが最後にもう一度繰り返される。
そのシーンだけがカラーで、オーディションから稽古に明け暮れる6カ月間の様子はモノクロで映し出される。
それがドキュメンタリータッチを醸し出していて、彼等のセリフが芝居上のセリフから現実の会話へ変化していく時、いつ現実世界に変わったのか気がつかないくらいにスムーズな展開を見せる。
心憎いまでの演出で、これがすべて脚本通りと知ってなおさら驚いてしまう。
繰り返される冒頭シーンだが、ラストでは囚人に(日本語訳では)「芸術を知ることで牢獄が監獄になった」と言わしめるシーンが追加されている。
どちらも刑務所に変わりはないと思うのだが、牢獄は罪人を閉じ込めておく場所というのに対し、監獄は刑期の定まった罪人を監禁しておく場所的な意味合いを垣間見る。
彼等は芸術を知り、観客から喝さいを受けることで、定まった刑期を終えてここから出るという意義を見出したと言うことではないだろうか?
彼等に演劇を通じて贖罪の気持ちをわかせたのだと思いたい。
最後に囚人の一人が出所して現在は役者になっていることが紹介された。

ヘイトフル・エイト

2024-07-12 06:42:37 | 映画
「ヘイトフル・エイト」 2015年 アメリカ 

                                    
監督 クエンティン・タランティーノ                                    
出演 サミュエル・L・ジャクソン カート・ラッセル
   ジェニファー・ジェイソン・リー ウォルトン・ゴギンズ
   デミアン・ビチル ティム・ロス マイケル・マドセン
   ブルース・ダーン

ストーリー
南北戦争後のワイオミング。
雪の中を走る1台の駅馬車。
乗っているのは賞金稼ぎのジョン・ルース(カート・ラッセル)と手錠をはめられた賞金首の女デイジー・ドメルグ(ジェニファー・ジェイソン・リー)。
そこへ、馬が倒れて立ち往生していた元騎兵隊の賞金稼ぎマーキス・ウォーレン(サミュエル・L・ジャクソン)が、お尋ね者3人の死体と共に乗り込んでくる。
共にレッドロックを目指す一行は猛吹雪を避け、道中にあるミニーの紳士洋品店に立ち寄ることに。
そしてその途中でもう一人、レッドロックの新任保安官だというクリス・マニックス(ウォルトン・ゴギンズ)を拾う。
ようやく辿り着いたミニーの店にミニーの姿はなく、見知らぬメキシコ人のボブ(デミアン・ビチル)が店番をしていた。
そんな店には他に、絞首刑執行人のオズワルド・モブレー(ティム・ロス)、カウボーイのジョー・ゲージ(マイケル・マドセン)、南軍の元将軍サンディ・スミザーズ(ブルース・ダーン)という3人の先客がいた。
一見、まるで無関係な8人は、ひょんな成り行きから、この店で一晩を一緒に過ごすハメになるのだったが…。


寸評
超ワイドの画面に雪の平原が現れ駅馬車が走ってくる。
いつも通りの派手なタイトルと共に映画世界に入っていき、その駅馬車に乗っている目の淵に黒あざを作った女の登場でタランティーノの世界に入っていく。
O.Bと呼ばれる御者が操る駅馬車を借り切っているのは賞金稼ぎのジョン・ルースで、黒あざの女は1万ドルの賞金が掛けられたドメルグである。
ジョン・ルースは生死を問わないお尋ね者でも首を吊すために生かして捕らえる異常者兼スゴ腕の賞金稼ぎだ。
さらにもう一人の賞金稼ぎウォーレンと自称保安官のマニックスが乗り合わせる。
吹雪の中で繰り広げられるのは必要以上なまでの会話劇で、その間にタランティーノらしく女に対して容赦のない暴力が加えられる。
やがて彼らはミニーの店にたどり着くが、その店で繰り広げられるのも、またまた必要以上ともとれる会話劇だ。
もちろん後半に対する伏線も含まれた会話なのだが、それを発見するのに疲れてしまうほど繰り広げられる。
ミニーの店にはピアノがあり暖炉がありバーコーナーもあって、かなりの広さを持っている。
超ワイドの画面は、そこで繰り広げられる人物達のやり取りと、その店の広さと人物の距離感を写し撮っていく。
まるで舞台演劇を見ているような場面の連続である。
ここまで必要なのかと思えてくるし、退屈感を覚えてしまうほどの長さを持っていて、これが2時間48分に及ぶ長尺にした理由となっている。
僕はこの長さをもう少し縮めることが出来たのではないかと思っているが、後半の一気の盛り上がりのためには必要だったのだと見ることもできる。

映画はウォーレンが正当防衛と見せかけた殺人を犯すところから一気に動き出す。
吹雪で閉じ込められてしまったミニーの店で観客が期待していたであろう出来事が次々と繰り返される。
謎めいた連中の正体も徐々に明らかとなってくる。
このあたりの展開はスピーディで目は画面にくぎ付けとなる。
目が釘付けとなるのは、いつも通りの血反吐を吐く、頭が粉々になって吹っ飛んでしまう強烈なバイオレンス描写のせいでもある。
サミュエル・L・ジャクソンの服装と雰囲気もいいが、何といっても存在感があるのがドメルグのジェニファー・ジェイソン・リーだった。
血みどろの顔を見せ狂気の女を演じた彼女は他を圧倒していた。

タイトルは8人となっているが、吹雪でミニーの家に閉じ込められるのは9人である。
しかしヘイトフルとなっているので御者のO.Bはその人数には入っていないと言うことなのだろう。
8人なのに9人いるなと思って見ていたら、10人目がいたと言うのが驚かされる。
セリフで圧倒しセリフで魅せる密室西部劇だがエンニオ・モリコーネの音楽はマカロニ・ウェスタン世代の僕には名前を聞くだけでも懐かしかった。
ラストもひねりを利かせていて最後まで観客を引っ張っていた。
映画館の観客に若い女性が案外多かったのに少し驚いた。
タランティーノを認める人にとっては満足のいく作品になっていたのではないかと思う。

プロミスト・ランド

2024-07-11 06:20:07 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2020/1/11は「八月の濡れた砂」で、以下「8 1/2」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「バックドラフト」「はつ恋」「初恋のきた道」「ハッシュ!」「パッチギ!」「パットン大戦車軍団」「ハッピーアワー」と続きました。

「プロミスト・ランド」 2012年 アメリカ 

                                   
監督 ガス・ヴァン・サント                        
出演 マット・デイモン ジョン・クラシンスキー
   フランシス・マクドーマンド ローズマリー・デウィット
   ハル・ホルブルック ベンジャミン・シーラー
   テリー・キニー タイタス・ウェリヴァー

ストーリー
大手エネルギー会社の幹部候補であるスティーヴ(マット・デイモン)は、仕事のパートナー、スー(フランシス・マクドーマンド)とともに、農場以外はなにもない田舎町マッキンリーへやってきた。
実は、マッキンリーには良質のシェールガスが埋蔵されているのだ。
スティーヴの目的は、その採掘権を町ごと買い占めること。
スティーヴたちは、近年の不況で大きな打撃を受けた農場主たちから相場より安くその採掘権を買い占めようとしていた。
農業しかないこの町で、不況に喘ぐ農場主たちを説得するのは容易なことと思われた。
地元有力者への根回しも欠かさず、交渉は順調に進んでいく。
ところが予期せぬ障害が立ちはだかることになった。
科学教師フランク(ハル・ホルブルック)が採掘に反対し賛否は住民投票にゆだねられることになった。
さらに他所から乗り込んできた環境活動家ダスティン(ジョン・クラシンスキー)が加勢し、思わぬ苦境に立たされるスティーヴだった
さらにスティーヴは、仕事への信念と情熱を根本から揺るがすような衝撃の真実を知ってしまい……。
ふと訪れた町で、図らずも自分の生き方を見つめ直す必要に迫られたスティーヴは、果たしてどんな決断を下すのか?


寸評
印象に残るのは、或る農夫が言う「あんた達はマンハッタンやフィラデルフィアなどでは井戸は掘らないだろう。ここが貧しい田舎だからお前達はやってくるのだ」の言葉だ。
僕はこの言葉を聞いて福島の原発を思い起こしてしまい、作品が身近なものに思えてきたのだ。
シェールガスという今時のテーマもった映画なのだが、結構普遍的なテーマでもあったと思う。
実際、私も高校生の頃に母親と共に河川改修に伴う立ち退き交渉にのぞんだことが有り、その時のことを思い出したりした。
その時の立ち退き交渉も、ここに描かれた交渉とさして違わぬものだった。

金を武器に貧しい町の町民に取り入り、持ち上げたり、脅したり、有力者に賄賂を贈ったりするスティーヴたちのやり口が赤裸々に描かれる。
時にはハッタリをきかせ安く買いたたき、マージンを低く設定していく。
しかしそれを悪と感じさせないのは、スティーヴのよかれと思ってやっている買収工作の姿に違和感を持たないからだ。
マット・デイモンが演じるスティーヴは全体的にはいい奴として描かれているが、一面では嫌悪感を持たれないような身なりにし、適当なウソもつくし、すごんだりもする一面を見せる。
彼がついていたと思われるウソが終盤になって大きな要素を持つが、これはこの映画の持つエンタメ性によるものだろう。
この二重人格的な主人公設定が作品を面白くしている。

日本でも昨今は地方再生が叫ばれている。
地方は貧しいし、若者が留まらない。
それは、そこに産業がないからで、働く場所がないからだ。
産業誘致は地方にとって再生の有力な手段の一つではある。
誘致に成功すれば莫大な金が地元に落ちることもまた事実で、僕は北陸を旅した時に福井の原発立地地域を見てそのことを痛感した。
福島の原発事故発生前のことだ。

映画は石炭や石油に代わるクリーンエネルギーといわれるシェールガスだが、その採掘方法は本当に安全なのか、あるいは住民に支払われる金は妥当な金額なのかなどの問題提起をしているようでもある。
福島も職場が出来、環境整備も行われ、箱物を含め多額の資金も地元にもたらしていたのだ。
そして誘致時には原発の安全性は大いに語られていたはずだが事故は起き、町の復興の目処は立っていない。
う~ん、地方再生は難しい…。
誰が考えても素晴らしいことなら躊躇することはない。
メリットが有れば、デメリットもあるというのが世の常だ。
ラストのマット・デイモンのつぶやきは、作者の良心でもあり苦悩でもあったような気がする。
色んな人々が登場したが、僕はアリスなる女性が人として一番魅力的に思えた。

プリズナーズ

2024-07-10 07:16:06 | 映画
「プリズナーズ」 2013年 アメリカ

                                             
監督 ドゥニ・ヴィルヌーヴ                                    
出演 ヒュー・ジャックマン ジェイク・ギレンホール
   ヴィオラ・デイヴィス マリア・ベロ
   テレンス・ハワード メリッサ・レオ ポール・ダノ
   ディラン・ミネット ゾーイ・ソウル

ストーリー
感謝祭の日、平穏な田舎町に暮らすケラー・ドーヴァ(ヒュー・ジャックマン)とグレイス(マリア・ベロ)夫妻の6歳になる愛娘が、隣人のフランクリン・バーチ(テレンス・ハワード)、ナンシー(ヴィオラ・デイヴィス)夫妻の娘と一緒に忽然と姿を消してしまう。
警察は現場近くで目撃された怪しげなRV車を手がかりに、乗っていた青年アレックス(ポール・ダノ)を逮捕する。
しかしアレックスは10歳程度の知能しかなく、まともな証言も得られないまま釈放の期限を迎えてしまう。
ケラーは釈放されたアレックスの発した言葉や口ずさむ替え歌から彼が犯人であることを確信する。
しかし、一向に進展を見せない捜査に、ケラーは指揮を執るロキ刑事(ジェイク・ギレンホール)への不満を募らせていく。
そして自ら娘の居場所を聞き出すべく、ついにアレックスの監禁という暴挙に出てしまうケラーだったが…。


寸評
名作「羊たちの沈黙」を髣髴させる面白さと風格を持っていて、ワンシ-ン、ワンシーン、一言一句に意味が有り153分の長尺を全く飽きさせない。
ロキ刑事はハリー・キャラハンやジョン・マックレーンのようなスーパー刑事ではない。
その分、リアリスティックな刑事であり、彼は沈着冷静に地道な捜査を進めていく。
それとは対照的に、暴走していく父親を描いて対比することで異常な状況を一層盛り上げる。
オリジナル脚本ということだが、兎に角ストーリーが滅法面白い。
そのストーリー展開だけでも十分に観客を引き込んでしまう。

この映画のキャッチコピーの一つに”この映画、人ごとじゃない”とあるが、孫たちを滅茶苦茶に可愛く思っている自分が同じ立場になったら、はたしてあそこまでやれるだろうかと不安になってしまう。
ケラーの行為は罪に問われるのだろうが、それでも妻のグレイスに「私は感謝しています」と言わせている。
一言々々が大きな意味を持っていたと後で分かるのはミステリー映画の常道だけれど、適度の間隔でうまく散りばめられていた。
何の繋がりもないような事件が思いがけない形でからんでくるのも常道と言えば常道だが、それがあざとくないのがこの作品のいいところ。
新聞記事と雨のシーンが度々登場するが、新たな展開と息苦しさをうまく表現していたように感じた。
最悪の結末も有りうるのだと思わせ続ける演出もいい。

フェードアウトでそのシーンの後をくどくど描かないのもかえって雰囲気を醸し出していていい。
その手法はラストシーンでも生きていて、”おお!なかなかいいじゃないか!”と無言の内に叫んでしまいたい衝動にかられた。
ホイッスルという小道具を登場させた以上、最後の結末は容易に想像できるが、その描き方にはセンスを感じた。
日本映画だと絵空事に思えてしまいそうな話なのだが、アメリカ映画だと妙に真実味を感じてしまうのは僕のアメリカ社会に対する偏見なのだろうか。

アレックスは二重の意味でプリズナー(捕虜)だったのだけれど、完全主義者的なケリーもまたそれゆえに目をそむけることが出来ず狂気に走ってしまうプリズナー(自由を奪われた人)だったのだろう。
タイトルの複数形はそういうことではなかったか・・・。
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、前作の「灼熱の魂」も良かったけれど、こっちもそれを上回る出来栄えだった。

プロデューサーズ

2024-07-09 08:01:44 | 映画
「プロデューサーズ」 2005年 アメリカ 

 
監督 スーザン・ストローマン
出演 ネイサン・レイン マシュー・ブロデリック
   ユマ・サーマン  ゲイリー・ビーチ
   ウィル・フェレル ロジャー・バート

ストーリー
1959年、ニューヨーク。
かつてはブロードウェイで栄光を極めたものの今やすっかり落ち目のプロデューサー、マックス・ビアリストック。
製作費を集めるため、今日も有閑老婦人のご機嫌とりに悪戦苦闘。
そんな彼のもとに異常に神経質な小心者の会計士レオ・ブルームが訪れた。
さっそく帳簿の整理を始めた彼は、ショウが失敗したほうがプロデューサーは儲かる場合もあるという不思議なカラクリを発見する。
それを聞いたマックスは、大コケ確実のミュージカルを作り200万ドルの出資金を丸ごといただいてしまおうとレオに協力を持ちかける。
一度は拒否したレオだったが、小さい頃からの夢だったブロードウェイのプロデューサーになるチャンスと思い直し、マックスのもとへと舞い戻る。
かくしてレオとマックスは史上最低のミュージカルを作るべく、まずは史上最低の脚本選びに取り掛かると、またとない最低の脚本「春の日のヒトラー」が見つかるのだが…。


寸評
話自体は単純で、特別な盛り上がりが有るわけでも無いのに間延びしない演出はスゴイ。
導入部などはイマイチ乗り切れないのに、134分の長丁場を時間を気にすることなく引っ張っていく。
気がついてみたらエンディングロールが流れていたのだ。
これは個々の役者の奮闘以外の何者でもない。
マックス・ビアリストック役のネイサン・レインのミュージカルならではのオーバー演技に引き込まれてしまう。
ナチス信奉者を演じるウィル・フェレルやユマ・サーマンの演技はともかくとして、レオ・ブルーム役のマシュー・ブロデリックが毛布の切れ端を使って神経質な面を演じるのも、本来なら鼻についていた筈なのに、これもまた二人のやり取りの間と相まっていつの間にかその世界に溶け込んでしまっている。
これはミュージカル映画だからと暗黙の了解の下で納得させられ、いつの間にかスクリーンに引き込まれていて、そしてエンディングを迎えてしまっていた。
この力量というか、底力と言うか、裾野の広さというか、アメリカが抱えているショービジネスの懐の深さを感じてしまうのだ。

ビアリストックのパトロンであるばあさん達のダンスは印象的だったし、スウェーデン娘のウラを演じたユマ・サーマンは「キル・ビル」なんかより、ずっと可愛くってよかった。
「我が闘争」を薦め、アマゾンを紹介するのはシャレなんだろうけれど、最後の最後になって劇場ミュージカルを見終わった気分にさせてくれるサービスにニヤリとさせられてしまう。

フューリー

2024-07-08 07:14:38 | 映画
「フューリー」 2014年 イギリス

                                                
監督 デヴィッド・エアー                                       
出演 ブラッド・ピット シャイア・ラブーフ ローガン・ラーマン
   マイケル・ペーニャ ジョン・バーンサル
   ジェイソン・アイザックス スコット・イーストウッド
   ジム・パラック ラッド・ウィリアム・ヘンケ

ストーリー
1945年4月、第二次世界大戦下。
ドイツ軍が文字通りの総力戦で最後の徹底抗戦を繰り広げていたヨーロッパ戦線。
戦況を優位に進める連合軍も、ドイツ軍の捨身の反転攻勢に苦しめられていた。
ナチス占領下のドイツに侵攻を進める連合軍の中にウォーダディー(ブラッド・ピット)と呼ばれる米兵がいた。
長年の戦場での経験を持ち、戦車部隊のリーダー格存在である彼は、自身が“フューリー”と名付けたシャーマンM4中戦車“フューリー号”に3人の兵士と共に乗っていた。
ある日、ウォーダディーの部隊に新兵のノーマン(ローガン・ラーマン)が副操縦手として配属される。
だが彼はこれまで戦場を経験したことがなく、銃を撃つこともできない兵士であった。
繰り返される戦闘の中、想像をはるかに超えた戦場の凄惨な現実を目の当たりにするノーマン。
5人の兵士たちがぶつかりあいながらも絆を深めていく中、ドイツ軍が誇る世界最強のティーガー戦車がたちはだかる。
やがて彼らはドイツ軍の攻撃を受け他部隊はほぼ全滅となる。
なんとかウォーダディーの部隊は生き残るが、300人ものドイツ軍部隊が彼らを包囲していた。
そんな状況下、ウォーダディーは無謀にも“フューリー”で敵を迎え撃つというミッションを下す…。


寸評
映画が始まる前に米軍の戦車シャーマンがドイツ戦車ティーガーに劣っていたことがテロップされる。
そんな中での戦車戦が繰り広げられるが、戦車バトルを追求した戦争アクション映画ではない。
新兵が一人前の兵士に成長する話がメインではあるが、それが圧倒的な説得力を持つのは指導役とも言うべきブラッド・ピットが魅力を放っているからだ。
彼は戦場における勧善懲悪、スーパーヒーロではない。
新兵のノーマンに人を殺す事から教え始めるとんでもない上官である。
無抵抗の独軍捕虜を自分も手伝いながら無理やり射殺させる。
捕虜は家族がいるから助けてくれと写真を見せるが、その写真を叩き落して射殺する。
侵攻した村では美しいドイツ娘をノーマンに抱かせる。
生きて帰る為の強いリーダーなのか狂人なのか分からない。
そのくせ作戦、命令には忠実で激戦地にためらいもなく進んでいく。
戦場はそんな人間を育ててしまうのかもしれない。
ノーマンはその象徴だ。
これは戦争映画ではなく戦場映画なのかと言いたくなるくらい、戦場のリアルな様子が映し出される。
よくある戦死者の十字架を建てた埋葬シーンなど出てこない。
前線ではそんな事が出来ないくらいの死者が出ているのだ。
彼等はブルドーザーでもって一気に掘り起こされた穴の中に投げ入れられる。
そんな様子が兵士がうごめく背景として映し出され、戦車は死者をためらいもなく押しつぶして行く。
これが現実の戦場だと叫んでいるようでもあり、イスラム国に志願した日本人男性に見せたい気分だ。

戦闘シーンはとてつもない恐怖と興奮を与える。
弾がどこから飛んでくるかわからない。
跳弾の表現も臨場感を出し、貫通力を重視した対戦車砲の描き方も迫力がある。
5人のヒューマンドラマと言うよりも、不十分な戦力で攻撃をいつくらうかわからない恐怖に襲われながら進軍する過酷な戦場の物語のように感じた。
したがって、連合軍、ドイツ軍、どちらにも過剰に肩入れせず、かといって突き放しもしていない。
最後のドイツ兵士の行動などを見ると、独軍=悪という単純構図ではないことが分かる。
これもよくある戦場のセンチメンタリズムではあるのだが、不思議とこれが都合主義には見えない。
舞台はDデイも終わって連合軍がベルリンを目指していたヨーロッパ戦線の終結4週間前だが、まだ死闘が繰り返されている。
ウォーダディーは「戦争は終わる。その前に大勢の人間が死ぬ」と言う。
もうすぐ終わるという時期に、大勢の人間が死んでいった事実を突き付けられる。
ドイツ娘との食事や交流、教育的指導による殺人など一見妙なエピソードも必然性というものを感じてしまう不思議さがある。
それでもやはりアメリカ万歳的なメッセージが見え隠れすると感じてしまうのは、アメリカの戦争映画に対する先入観がもたらしているものなのだろうか?
ラストはちょっと拍子抜けした。

ブッシュ

2024-07-07 07:12:45 | 映画
「ブッシュ」 2008年 アメリカ           

     
監督 オリヴァー・ストーン                         
出演 ジョシュ・ブローリン エリザベス・バンクス
   ジェームズ・クロムウェル エレン・バースティン
   リチャード・ドレイファス スコット・グレン
   タンディ・ニュートン ジェフリー・ライト
   ブルース・マッギル デニス・ボウトシカリス

ストーリー
多くの政治家を輩出してきたアメリカの名門ブッシュ家。
“W”(ダブヤ)ことジョージ・W・ブッシュも、後に第41代大統領となるジョージ・H・W・ブッシュの長男として重い期待を背負っていた。
しかし、偉大な父親の影に早々に押しつぶされていく。
父と同じ名門エール大学には入ったものの、在学中も卒業後も厄介事ばかりを引き起こし、いつしか家名を汚す不肖の息子となり果て、父の期待は弟ジェブにばかり向けられるようになる。
それでも、1977年にようやく“家業”の政治家を目指す決意を固めたW。
同年、生涯の伴侶となる図書館司書のローラとの出会いも果たす。
その後、88年の大統領選を目指す父の選挙戦を手伝うことになったWはその勝利に貢献するが、父の背中はますます遠ざかり、自分の存在はますます小さくなっていくと落胆する。
そんなひがみ根性が募る中、Wは“お前が大統領になるのだ”と神の啓示を聞いてしまい…。


寸評
つい先日まで政権の中枢にいた人々が実名で登場するのに驚く。
日本では作れない映画の一つだ。
ブッシュ前大統領はイラク政策の失敗があって決してよい大統領でなかったと思うのだが、この映画を見ると彼も実に人間的な弱さを持ったかわいげのある男だったと思わせる。
映画はイラク攻撃を馬鹿げた議論で決定していく様と、彼の生い立ちにおける苦悩を交互に描きながら、この男がアメリカ大統領であったことの不幸を描き出す。
それでも、父親への反感、兄弟間の競争、二人の子供への両親の期待度の違いなど、ごく普通に存在する家庭内の問題にむしろ目が行く。
彼もかわいそうな男だったんだなあの思いだけが残る。
イギリスのトニー・ブレアと散策しながら協力を要請し、フランスのシラク大統領には拒絶され、ロシアのプーチン大統領には慰められるところなども面白い。
「フランスが何か言った時には絶対に反対してやる」には笑った。
日本も喧々諤々だったイラク問題だが、各国の協力度合いの報告を受け、地雷除去の猿を送ってくる国もある中で「日本は調査団を派遣」とだけ触れられる。
もちろん小泉首相との対談シーンはない。
アメリカにとっての盟友はやはりイギリスなのだ。
この映画を見ていると、もちろん最終決定権者は大統領だから彼の責任ではあるのだが、イラク問題に関して言えばチェイニーが一番悪いんじゃないか?
どうもアメリカも中国もロシアも中華思想があってその覇権主義は、僕にとってそれらの国々を好きになれない国家としている。