今、世界では、デジタルネイティブと呼ばれる世代が台頭しているのだそうだ。
生まれたときから、
または、物心ついた頃から、インターネットに触れて育った彼らは、
現実世界と、Web上の世界の境界線を持たず、
その自由な発想で社会と関わっていくのだと。
ここのところ、ず~っとグズグズの空模様だった横浜。
ゆえに外にも出ず.....写真切れの私。
っちゅーことで、過去のファイルから、
アナログなモノ写真、集めてみました。
例えば、アメリカでは、13歳の少年が起業し、大きな金を稼ぎ出したり、
また、アフリカでは、
当初、草の根運動的に、エイズ対策を呼びかけていた青年が、
世界規模の組織に参画することを実現したり.....。
インターネットは確実に、新しい世代の可能性を広げているらしい。
馬車道・神奈川県立博物館の美しいステンドグラス。
また、そうかと思えば反対に、よろしくない事例として、
少年が自らの裸の動画を公開することで金を稼いだり、
そこからポルノサイトが発生したり。
......と。
つまり、関わり方は様々なれど、
そこには、共通して、
『相手の属性に関係なく、人間関係を築くこと』が存在しているのだそうで......
それが世界を変えていくかもしれない、と、
まぁ、そういうことなのだそうである。
へええええ。
なるほどなぁ!
こちらは開港記念館のステンドグラス。
......しかし、
感心しながらも、一方で疑問は残る。
例えば十代の少年や、
また現実社会とほとんど関わりを持たない人間が、
果たして本当にずっと、そうして人間関係を築き続けていられるだろうかと。
確かにインターネットは国境や距離は取り払うだろうが、
人の、微妙な感情の揺れや、腹のうちまでは見透かすすべは持たないのだから。
たとえば十代の少年が、
本当の意味でビジネスやそれに関わる人の心を理解しているとは思えないし、
また、ある企業で実施されているという、
取締役会議や面接の、社員への全面公開なんていうのは、
どこまで意味と効果をなすのかなぁと、正直思う。
なぜなら、表面上のやりとりや、理論の正当性はともかくとして。
または、
どこでなにを公開しようと、各自の能力を第一に尊重しようと。
密談や、そこにまつわる人間の裏感情がなくなるわけではなく......
この社会の半分ほどこそは、
理論や正当性の通じない、古風な密談で出来ていると思うからだ。
鶴見線・国道駅
しかし、それと同時に、
やはりこういったことへは否定的な意見ばかりを持つべきでもなく、
たとえばその、デジタルネイティブたちが、
金儲けや上場することなんかには興味がなく、
『もっと大切なことがあるだろう』『ただ、いい仕事がしたい』というスタンスは、
おおいに評価されるべきだと思う。
いや、
正直、アナログ世代の私などは、「なんのこっちゃ!?」と、
彼らの言うこと、発想の半分ほども理解出来ていない、
というのが本当のところなのだろうが、
何にしろ、新しいものを否定するばかりが能でもないだろう。
そしてモノクロ写真と私(笑)
そして、それらのことを考えたとき、思い当たらずにはいられないのが、
もしかしたら、新しい世代、デジタルネイティブは、
昔気質の職人みたいな精神の持ち主なのかもしれないなぁと。
消費して、大型化して、とにかく垂れ流していた時代から生まれ出たのは、
逆に、『社会』にとらわれることなく、人間の基本的な価値観に立ち返る世代、
なのかもしれないと。
デジタルの海を自由に泳いで。
.....だとしたら、未来は明るい。
ボクの働いている仕事場にも、今年成人式を終えたばかりのスタッフがいますけど、彼らにしてみれば、既に中学生くらいのときからネットでニュースを読んだり、友人とチャットをしたり、音楽をダウンロード購入したりしていたんですよねぇ。
仕事柄、ボクも精一杯デジタルに精通しているつもりではありますが、彼らのデジタルに対する距離感やその捉え方は、おそらくボクらの世代とはちょっと違うのだろうなと考えることがあります。
だからこそ、その柔軟な発想と独自のスタンスで、今後もインターネットの無限の可能性を模索していってくれることを心から期待しています。
しかし一方で、その未熟さゆえに『テキストによるいじめ』が問題になっているのも事実です。
人を傷つける強さは、テキストだろうが言葉だろうがなんら変わらないんだということを、まだはっきりと自覚していないのかも知れません。
今後は、インターネットを通じた人との関わり方についても、道徳教育の一環として盛り込んでいく必要があると思います。
これから先10年後20年後の未来、そんなデジタルネイティブたちが社会で主導的な立場にたっている頃の日本が、いったいどのようになっているのかを考えると、期待半分不安半分といったところです。
そうなんです。
...って、私も聞きかじりなんですけどね(笑)
そんな言葉が生まれているらしいです。
そういわれてみれば...なんですけど、今の子って身軽ですよねぇ。
持つことに執着しないというか、サラッとしてるというか。
きっとそれこそが、音楽のダウンロード購入とか、流れで進んでゆくチャットとかで育った証なのでしょうね。
肌に馴染んだ感覚のようにデジタルを捉えてるのかもしれない。
でも、一方でふみ様のおっしゃるように、彼らはともすれば、人間の心の機微とか、怖さとか、見逃してしまいがちなのかもなぁと思います。
何しろ、文字やwebカメラでは、ちょっとしたまつげの伏せ方だとか、こわばった空気だとか、伝わらないですからね。
彼らはインターネットを通じた人との関わり方を学ぶと同時に、実社会でもたくさん経験を積まねばならないと思います。
言ってみれば勉強や学歴が、世間に出ればほとんど役に立たないのと一緒で、ネット上では親友になれても、実際に会ったら「うわー、合わねぇ」なんてこともあるわけですから(笑)
人間も動物ですから、身にまとうもの(服装とかではなく、空気といいましょうか)は、人と肌でぶつかり合って感覚で捉えるしかないんですよね。
何が人を傷つけ、何が危険なのかも。
期待半分、不安半分。
本当にそのとおりだと思います。
やっぱり、世界がどんなに変わろうとも、時代がどんなに変わろうとも、バランス感覚を失ってはいけないですね。