闇夜の中ではすべての牛が黒くなる。そう言ったのは、たしか哲学者ヘーゲルだった。同じドイツ観念論に属する哲学者・シェリングを批判して(『精神の現象学』序文の中で)そう言ったように記憶しているが、まあ、そんなことはどうでもよい。私は週2回、リハビリのデイサで時を過ごしているとき、ふと、この言葉を思い出すのである。
このデイサでは、利用者は、大半が年老いたジジババである。「あたしは昔、湘南ガールだったのよ」と嗄れ声で宣う婆さんも、「そこへ行くと、俺なんか昔の湘南ボーイだからな」と言い放つ爺さんも、今は年老い、しょぼくれた後期高齢者でしかない。現役の湘南ガール・湘南ボーイに対してなら、ひょっとして恋をし、あこがれ、あるいはライバル意識を燃やし、コンプレックスを懐いた(かもしれない)私だが、今となってはネガ・ポジのどんな感情も動かない。恋心も憧憬の念も、ライバル心もコンプレックスも沸き立つことはなく、穏やかな心で接していられる。
昔はかなりモテたと思われる爺さんも、その彼を眺めるこの私も、今となっては同じ〈老い〉という「闇夜」に沈んだ「黒い牛」でしかない。色褪せた「黒い牛」が、同類の「黒い牛」を見てどう思うかは、言うまでもない。時はすべての差異を平準化する。ジェラシーもコンプレックスも、そういう感情はすべて個々人の差異から生じるが、〈老い〉という闇夜はあらゆる差異を平準化し、無化してしまう。やがて時の流れは、だれをも、もっともっと深い〈無〉の闇へと没し去るのだろう。
週2回、リハビリのデイサを流れる時間の中に身をおくとき、私には時間が、ぴりぴりした自意識を和ませる、やさしい揺り籠のように感じられる。
時は残酷である。昔のアイドルの、50年後の姿を写した画像や動画を見るとき、私はついそんな思いにとらわれるが、デイサの時の流れに身をおくとき、私はそんな思いなど忘れて、のほほんと穏やかな気分でいられるのである。
こういう私の感慨を、デイサの若いスタッフはどう思うだろうか。結婚を間近にひかえ、るんるん気分で毎日を過ごしているAさんに、そのうち感想を訊いてみたいと思っている。
このデイサでは、利用者は、大半が年老いたジジババである。「あたしは昔、湘南ガールだったのよ」と嗄れ声で宣う婆さんも、「そこへ行くと、俺なんか昔の湘南ボーイだからな」と言い放つ爺さんも、今は年老い、しょぼくれた後期高齢者でしかない。現役の湘南ガール・湘南ボーイに対してなら、ひょっとして恋をし、あこがれ、あるいはライバル意識を燃やし、コンプレックスを懐いた(かもしれない)私だが、今となってはネガ・ポジのどんな感情も動かない。恋心も憧憬の念も、ライバル心もコンプレックスも沸き立つことはなく、穏やかな心で接していられる。
昔はかなりモテたと思われる爺さんも、その彼を眺めるこの私も、今となっては同じ〈老い〉という「闇夜」に沈んだ「黒い牛」でしかない。色褪せた「黒い牛」が、同類の「黒い牛」を見てどう思うかは、言うまでもない。時はすべての差異を平準化する。ジェラシーもコンプレックスも、そういう感情はすべて個々人の差異から生じるが、〈老い〉という闇夜はあらゆる差異を平準化し、無化してしまう。やがて時の流れは、だれをも、もっともっと深い〈無〉の闇へと没し去るのだろう。
週2回、リハビリのデイサを流れる時間の中に身をおくとき、私には時間が、ぴりぴりした自意識を和ませる、やさしい揺り籠のように感じられる。
時は残酷である。昔のアイドルの、50年後の姿を写した画像や動画を見るとき、私はついそんな思いにとらわれるが、デイサの時の流れに身をおくとき、私はそんな思いなど忘れて、のほほんと穏やかな気分でいられるのである。
こういう私の感慨を、デイサの若いスタッフはどう思うだろうか。結婚を間近にひかえ、るんるん気分で毎日を過ごしているAさんに、そのうち感想を訊いてみたいと思っている。
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