Trapped in me.

韓国漫画「Cheese in the trap」の解釈ブログです。
*ネタバレ含みます&二次使用と転載禁止*

唇まで10センチ

2014-02-23 01:00:00 | 雪3年3部(キス未遂~正しさと誤りまで)


彼女の家まで車を走らせながら、淳はどこか嬉しい気持ちでハンドルを握っていた。

というのも、先ほど雪に自分の進路を打ち明けた際、彼女が予想外の反応をしたからだった。

先輩が卒業して社会人になった時‥まだ先輩の側に私はいられるのかな~なんて‥



彼女は自分が大企業の跡継ぎだということを知っても、嫉妬を表に表すでもなく距離を置くでもなく、

彼と自分が共にいるかどうかという将来を心配した。

淳はそんな彼女をいじらしく思い、雪の隣で嬉しそうに笑った‥。







「着いたよ」



淳は車を路肩に停めると、シートベルトを外す彼女に「忘れ物無い?」と声を掛けた。

彼女は微笑んで頷くと、帰宅の身支度を始める。

「雪ちゃん」



淳は彼女の名を呼び、微笑みながら彼女に近付いた。

ハンドルに手を掛けながら、そのままキョトンとした表情の彼女を抱き寄せる。

「何でそんなこと心配するの?寂しくなった?」



約半年後には、二人は全く違う環境に身を置くことになる‥。

雪は気まずそうに笑いながら、「いえ‥ちょっと心配しすぎてるみたいです」と口にした。



淳は彼女の耳元で、「拗ねた?」と口にして彼女をからかった。

いつも彼女から「よく拗ねる」と言われているお返しだ。

「だ、誰が‥!」



雪は幾分憤慨しながら、そのまま身を起こそうとした。

しかし淳は彼女を離さなかった。雪の腰に腕を回し、グッと深く抱き寄せる。



互いの身体が密着すると、雪の心臓がドクンと跳ねた。

雪は身体を硬直させたまま、冷や汗に似た汗がダラダラと顔を伝うのを感じる。



雪の体にまわされた淳の右手が、彼女の肩から腕を伝う。その触れ方は優しかったが、力強くもあった。

いつも別れ際にする軽いハグとは、何もかもが違っていた。



雪は抱き締められた状態のまま、グルグルと色々なことを考えた。

心の中はどこか気まずい思いでいっぱいだ。

こ、こういう時一体どうすればいいんだろう?

嫌じゃないけど...ギクシャクしちゃう




雪は自分がどういうアクションを返せば良いのか分からなかった。

ただひたすら今の状態にドギマギするので精一杯だ。

わ‥私も抱き締め返せばいい‥?



雪は自分の腕を動かそうと試みてみるが、ガッチリと抱かれているのでその手は力無くブランと垂れ下がる。

ゴクリ、と生唾を飲み込みながら、ぎこちない心と身体が軋んだ。

嫌じゃない‥もちろん嫌じゃないけど‥



そう思いながらもそのままの姿勢で固まっていると、不意に彼が身体を動かした。

彼の口元が彼女の耳とうなじのあたりを、優しく触れるように掠めていく。



敏感な部分に彼の息遣いを感じた雪は赤面し、更に身体を硬直させた。

息を吸うことも吐くことも、忘れてしまったかのように。



あの‥、と雪が小さく呟いた時、彼は彼女の前に身体をずらした。

目を丸くした彼女の顔の真ん前に、至近距離で彼の顔があった。




淳はあの日のことを考えていた。

あの蒸し暑い夏の夜、彼女の家に泊まった日のことを。



あの時は特に意識はしなかった。

しかしあの後もう一度あの日のことを思い出して、淳は自覚したのだ。



あの時確かに自分は、雪の唇に惹き寄せられた‥。

 




淳は彼女の両腕を掴みながら、じっと雪の唇を見つめた。

あの時心の中に感じた熱い思いを、もう一度確かめるように。



そして今度は、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。

彼女も同じく彼の瞳を見つめているが、どこかキョトンとした表情をしている。



二人は前髪が触れそうな至近距離で、暫し見つめ合いながらじっとしていた。

その唇と唇までの距離約10センチが、今二人の間にある全てだった。



雪は依然としてどうすれば良いのか分からなかった。

大きな目をキョロキョロと動かしながら、ただそのまま硬直する。



彼はそんな彼女を見つめながら、その瞳が閉じるのをじっと待っていた。

上目遣いの視線のまま、彼女の表情を静観する。



雪はなぜ彼が真顔のまま目の前に居続けるのか分からなかった。

心の中で何度も「え?え?」と言いながら疑問符を飛ばし、とうとう最後まで目を大きく開けていた。



そして淳は、彼女に向かって一言発した。

「やだ?」



「へっ?!」と素っ頓狂な雪の声が、車中に響く。

雪は大きなリアクションと共に首を横に振ると、上ずった声で答えた。

「いえ‥!ち、違くて‥!」



緊張しちゃって、と言って彼女は俯き、彼から視線を外して頭を掻いた。

彼はそんな彼女を見ながら、気まずい気持ちで同じように頭を掻く‥。



雪の腕を掴んでいた淳の手が、力無く外された。

淳は彼女から視線を逸らしながら、ポツリと彼女に謝った。

「‥ごめん」



腕に感じていた彼の体温が、離された掌と共にゆっくりと引いていく。

雪の視線は、無意識に彼の手を追っていた。

まるでスローモーションのように、徐ろに離れていく。



そのまま身体も離す淳を追って、雪は無自覚に身を乗り出した。

胸の中が寂寞と焦燥で騒ぎ、名の付かぬ感情が波のように押し寄せる。



雪は何も考えられないまま、気がついたら声を上げて彼の掌を強く掴んでいた。

「ちょっと待って!!」



その突発的な彼女の行動に、思わず淳は息を呑んだ。

口を開けたまま二の句の継げない雪と、あっけにとられたような表情の淳は、そのまま互いを見つめて固まる。



しかしそれきり雪が何も言わないので、淳は再び視線を逸らした。

「それじゃ、もう‥」



背を向けようとする彼を前にして、雪は心が焦燥で騒ぐのを感じた。

ダラダラと汗を掻きながら、自らを奮い立たせる。

ダメ‥!このまま見送るなんて‥。あぁ私ってば何て鈍いの‥!



自分の”恋愛初心者&鈍さ加減”が嫌になる‥。そして手を握ってしまったからには、もう後には引けなかった。

雪は彼の掌を掴んでいた手を離し、今度は淳の顔を掴んでグイッと上に向けた。

淳は驚き、思わずその大きな目を見開く。



雪は座席の上で半分立ち上がりかけながら、彼の顔を掴んで言った。

「せ、先輩‥!」



垂れた厚い前髪の隙間から、彼女の瞳が見えた。

メラメラと燃えている。



顔面蒼白の淳は、その尋常ではない目つきの彼女を前にして、ただただ息を飲んだ。

「雪ちゃ‥」



何をされるかさっぱり読めない。淳の顔がビクリと引き攣る。

そして次の瞬間、彼女の顔が近づいて来た。覆いかぶさるような姿勢の雪が、淳の顔に影を作る。



優しく、彼女は彼の頬を触った。

柔らかく温かな彼女の唇が、彼の頬にそっと触れる‥。



彼女がゆっくりと唇を離しても、

淳はポカンとした表情のまま彼女を見上げていた。



雪は勢いで行った自分の行動を今更自覚して、顔中真っ赤になっていた。

下ろした手で彼の服を掴みながら、シュンシュンと蒸気を上げて燃え上がる。



「雪‥」



ようやく何をされたか理解した淳が、笑みを浮かべながら彼女の名を口にした。

しかし彼がみなまで言う前に、雪は彼の鼻をギュッと掴んで声を上げた。

「笑うな!」



ジンジン痛む鼻を押さえながら、淳はひたすらビックリ仰天である。

そして「もう行く!」と勢い良く言って、彼女は車を下りて行った。



肩を怒らせながらドスドスと帰路を行く雪だったが、

不意に振り向いて「う、運転気をつけて下さいよ!」と彼に声を掛けた。

 

そして彼女が目にしたのは、笑い出す寸前の彼の顔‥。

「‥‥ぷ‥」



雪は既に車から数メートル離れていたが、彼のけたたましい笑い声はその場で大いに聞くことが出来た。

「ぷはははは!!」



雪は悶絶しそうになりながら、その場でひたすら声を上げる。

「ああああああ‥!」



そんな彼女の後ろから、「そっちこそ気をつけて帰ってね!」と彼の声が飛ぶ。

雪は恥ずかしさといたたまれなさでいっぱいになりながら、そのまま道を歩いて行った。



背後でまだ彼の笑っている声が聞こえる。

そして湿気を沢山含んだ夜風が、雪の隣を吹き抜けて行った‥。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<唇まで10センチ>でした。

お嬢さん‥そういう時は目を閉じるのデスヨ‥(^^;)

すごく微細に心情が描かれた回でしたね‥。セリフが少ない分、様々な想像が出来る回でもあったと思います。

彼に抱き締められても、ドキドキとか嬉しいとかそういった感情が一切無い雪ちゃんにビックリです。

まだ彼と手を握るくらいで十分のレベルの「好き」なんでしょうね。

これからの雪ちゃんの心情の変化に注目です。


次回は<渡せなかった傘>です。


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彼女の居ない未来

2014-02-22 01:00:00 | 雪3年3部(キス未遂~正しさと誤りまで)
「‥‥‥!」



雪は驚愕した。

先ほど彼の口から語られた真実は、彼が世界的企業の跡取り息子だということだった。

目を見開きながら彼を凝視する雪の視線を受けて、淳は若干気まずそうな表情で話を続ける。

「まぁ‥とは言えちゃんと下積みからだよ」



彼は今学期からZ企業のインターンに一般学生と共に入り、研修を始める。

会長の息子だからといって、特別扱いされるわけではないようだ。

「父はその辺厳しいんだ。俺も親の七光りとは言われたくないし‥」



「とにかく頑張らなくちゃいけないだろうな」と彼は続けた。

跡取りという立場に甘んじることなく精進することで、やがて父親や社員達にも認められるようになっていくだろう、と。

お、お金持ちだと思ってはいたけど‥



雪の胸中は、未だ動揺の最中であった。

彼が資産家の息子だということは知ってはいたが、まさかここまで大きな会社の跡取りだとは‥。

「雪ちゃんがいつも頑張ってるように、俺も頑張らなくっちゃ。でしょ?」



そう言って微笑んだ彼の横顔に雪は視線を移したが、すぐに目を逸らしてしまった。

先ほどの衝撃がまだ尾を引いている。雪は彼がどういう存在なのかということを、改めて考える。

お父さんの会社‥。留学‥。跡継ぎ‥。



想像も出来ないような大きなスケールのファクターを、さらりと何でもないことのように口にした隣の彼‥。

外車のハンドルを握り、整った横顔で自分の横に座る、大企業の跡継ぎ。およそ悩みなどないような顔をしている。



雪の脳裏に、将来に思い悩む四年生の先輩達の姿が浮かんで来た。

思うようにいかない就活、漠然とした将来、常に感じる焦燥感‥。



くさくさしている柳瀬健太や、爪を噛む佐藤広隆の姿も浮かんで来た。

そして辿り着く結論は、一年後は自分もその集団の中で彼らと同じ表情をしているだろうということだった。

何で‥今更‥



雪の胸中は驚愕という嵐が去った後で、がらんどうの状態だった。

その暗闇に残される自分と、およそ自分とは立場の違う、隣に座る彼‥。



二人はこんなにも近くにいるのに、その境遇は天と地ほどに違う。

人生が一本の道だとしたら、今は交差している二人の道も、やがて違う方向へと伸びていくだろう。

雪は彼の横顔を眺めながら、今の自分の気持ちを心の中で呟いた。

今更、先輩が別世界の人に感じられる。

この人は最初から、就職の心配がないんだな‥




お店の方はどう? と穏やかな表情で口にする彼は、先ほど雪が思い浮かべた苦悶した四年生達の姿と、

およそ真反対に位置するように思えた。そしてそれは同じく、自分と彼が正反対の方向に居るということでもあった。

私は‥



そして雪は、今自分が置かれた境遇を改めて省みた。

頭の中に思い浮かぶのは、懸命に働く両親の姿‥。

両親は麺屋を営んでいる‥。

父親の事業の失敗と店の開業で、二人の元にはもう殆ど蓄えはない




開業してからというもの、両親の心から笑った顔を一度も見ていない気がした。

いつも何かに心を囚われ、色々と思い悩み、溜息を吐いている姿しか思い浮かべることが出来なかった‥。

両親の老後は、私と蓮が面倒を見なくちゃいけない。

けど彼のアメリカでの勉強も、将来どうなるかは全く分からない‥




頼みの綱の長男も、いきなり帰国したかと思えば毎日遊ぶかバイトをするか‥。

卒業の目処さえ立たない彼に両親の将来まで任せる気には、とてもじゃないがなれなかった。

そしてなぜここまで自分の未来に希望が持てないのか、雪は今の自分を取り巻く状況を省みてようやく気がついた。

何一つとして、安定していない‥。



目の前に広がる漠然とした未来を渡っていくための武器が、何も無い。

一つでも保証された何かがあれば、安心出来るのに。

隣に座る彼の生き方のように、自分を守ってくれるものが何か一つでもあればいいのに。

確実な未来が保証された男と、その彼の車に乗って将来を悩む私



相反する生き方の二人。

分かってはいたものの、あまりにも違う互いの境遇に、心が重く沈んでいく。

先輩は先輩で、私は私なのに‥。

なのに何でこんなにも、苦しい気持ちになるんだろう‥。




空は暗く、厚い雲が立ち込めているのがネオンの明かりでぼんやりと見えた。

心に巣食う息苦しさを感じながら、雪はふとあることを考え始める。



そして雪は、彼に一つ質問をしてみることにした。

「あ‥それじゃあ仕事の他に、何か目標があったりしますか?

社会人になったら趣味で始めたいことがあるとか、三、四十代までには何か達成してたいとか‥。

長い目で見た計画のようなものが」




雪の質問は、奇しくも高校時代、河村亮が彼にした質問と本質の似た問いであった。

お前って勉強の他に得意なことってあんの?でなけりゃ、したいこととかさ



淳は少し考え込んで、天を煽ぐ。

「ん?三十代か‥。老けてイケメンじゃなくなってるかもな」



冗談だよ、と言って彼は笑ったが、

なぜかいつも先輩の冗談は笑えない‥。



そして彼は真面目に語り始めた。これから先、十年後二十年後の、未来の話を。

「まぁその頃には経営のイロハも身について上に上がってるだろうね。

それとも海外支社に発令が出たりとか‥」




「‥‥‥‥」

彼はその後も話を続けたが、雪の耳にはそれ以降の内容は入って来なかった。

心の中が重く沈む。雪はある期待を込めてその質問をしたからこそ、より一層その落胆が心に重く伸し掛かるのだ。

変なの‥。

私は今、彼に対する”嫉妬”以上に、彼に”冷淡さ”を感じている。




先ほどから語られる彼の将来に‥先輩の未来に‥

私がいない。




父親の会社、留学、跡継ぎ‥。

先ほど晒された真実はどれも受け入れるのに難いものだったが、それ以前に彼は、自分の彼氏だ。

質問をする前に過った甘い想像が、脳裏を掠める。

"雪ちゃんと結婚するつもり"なんて、期待しているわけじゃない。

私も、先に進もうだなんて思ってない。




だけど、と雪は思った。

彼の横顔を窺い見る。雪の本音が、がらんどうの心の中で寂しく響く。

たとえ口先だけでも、”その時雪ちゃんと一緒に何かしてるんじゃないかな”って、

言って欲しかった‥




とはいっても、まだ付き合い始めて二ヶ月しか経っていない。

まぁ‥まだ私のことをそこまで好きじゃないってのもあるだろうけど‥



そう考えれば納得できるような気もした。

しかし雪の心に引っかかるのは、先日自分が頭を抱えて将来を考えた時のことだった。

卒業後、就職後出会い?ちゃんと軌道に乗れる?ひょっとして社内恋愛?

先輩就職、私=四年生 時間が合うのか? 外資に入社したらどうする?




一晩中悩んだが、答えは出なかった。

けれどそのノートの中に描かれる未来の中には、確かに彼が存在していた。

悩んだけどな‥私は‥



言い様のない寂しさが、心の中に広がっていく。

自分の未来には彼が居るのに、彼の未来には自分が居ない。

境遇の問題だけではなく、雪は彼との距離とその温度差をひしひしと感じた。



しかしよくよく考えてみると、自分が先走って期待しているだけのような気もしてきた。何と言ってもまだ付き合って二ヶ月だ。

先ほどは自分の為に留学を辞めたとまで言ってくれた‥。



けれど考えれば考えるほど、どこまで本当の話なのか分からなくなってきた。

”今は他の方向も検討中”と言っていたのもあって、卒業したらまた進路は変わるかもしれない‥?

こ、こんがらがってきた‥!



真実が何なのかハッキリしない状況で、雪は考えすぎてグルグルと目を回した。

そしてよく考えてみると、”雪が居るから留学を辞めた”という事実が、彼女に罪悪感を背負わせた。

私のせいで留学が中止に‥。いやでもそれは冗談だって‥



俯いて思案を続ける雪の方を見ながら、彼が「どうしたの?」と聞いてきた。

よほど挙動不審であったようだ。

しかし雪はパッと顔を上げると空を眺め、「雨が降りそうですね」と言ってその場を誤魔化そうとした。

貼り付いたような笑顔である。



淳はそんな彼女を見て、思うところを口にする。

「俺、自分の話ばっかしすぎた? 何か気を悪くさせる話でもしちゃったかな」



雪は自分の動揺が見破られたことを知り、幾分焦った。

再び誤魔化そうと口を開くが、彼は悟ったように呟く。

「バレバレだよ‥」



「‥‥‥‥」



雪はすっかりバレているこの状況に観念したように俯き、口を噤んだ。

暫し悩んだが、深刻な雰囲気を出さないニュアンスで、自分の気持ちを口にすることにした。

「せ‥先輩が卒業して社会人になった時‥その‥まだ先輩の側に私はいられるのかな~なんて‥」



雪の告白を受けて、淳はキョトンとした顔をした。

雪の悩んでいる内容は、彼にとってまるで予想外のものだったらしい。彼は笑顔で口を開く。

「何だ、そんなこと心配してたの?」 

「‥‥‥‥」



雪はしどろもどろになりながら、現実問題それはその‥とゴニョゴニョ続けた。

彼はそんな彼女の悩みなど何でも無いことのように、爽やかに笑って言った。

「社会人になったらもう会えないと思ってる?留学に行ったって会ってる人たちは会ってるのに」



サラリとそう答える彼の隣で、

雪は「ソウデスネ‥カンタンナコトデスネ‥」と言って頷いた。



聞きたい質問と、聞きたい答えのピントが微妙にズレていく。

そんな雪の心の引っ掛かりなど知る由もなく、淳はどこか嬉しそうに笑っていた‥。





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<彼女の居ない未来>でした。

いや~今回の話、皆さんどう思います?

私、最初読んだときは「何で先輩は未来予想図に雪ちゃん加えてないねん!」と雪ちゃん寄りで読んだのですが、

ここを読み返せば読み返すほど、雪ちゃんが変だなと思うようになりまして‥。

そもそも先輩に”将来の計画”を聞いた時点で、彼の頭の中はお仕事モードになるというか、

雪ちゃんを交えない自分の未来予想図を語るのは男性として普通じゃないかと思うんですよね。(おまけにそれまで就職の話をしていたし)

自分が彼の未来に居ないことを落胆する、というのは女性特有の考えかもなぁと思ってみたり。

そして雪ちゃんがノートに彼との未来を書き出してうんうん悩んでいましたよね。

あれ、何か先学期のD判定もらったグループワークの時と同じだなぁと思いました。

あの時も、動かない他の人達に苛立ちながらも自分で全て解決しようとしてましたよね。

一番大事なのはコミュニケーションだったのに。

彼との未来を考えるなら、まずは会話することから始めるべきだったね、雪ちゃん‥。(語りかけモード)


とまぁ、色々と考えることが多い回でした。

そして高校時代も、そして今回も、「したいこと」が答えられない先輩が、哀れ‥(T T)


次回は<唇まで10センチ>です。


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彼の将来

2014-02-21 01:00:00 | 雪3年3部(キス未遂~正しさと誤りまで)
「あああ‥!地下鉄乗らなくて良いなんて本当に感激です!

内蔵が圧迫されるようなラッシュ‥!蟻の行列のような乗り換え‥!し、死んでしまう‥!」




雪は彼の車に乗りながら、その快適さに涙を流して感動していた。実家から往復三時間半の通学は、やはり大変であるようだ。

淳は「時間がある限り送っていくから」と彼女に向かって優しく言うと、

「あ‥でもそれはさすがに悪い気が‥」



と雪は頭を掻きながら申し訳無さそうな顔をした。

淳は「そんなに気を遣わないで」と言ってニッコリと微笑むと、こう口にした。

「これもデートみたいなもんじゃない」



優しい言葉を掛けてもらって、雪は嬉しいようなこそばゆいような気分になった。

身体をクネクネと捻っていると、トイレかと思って淳が首を傾げた‥。








車内での会話は弾んだ。

聡美が‥太一が‥と雪は今日の何気ない出来事を彼に話す。彼が優しく頷き、彼女の話に相槌を打つ。

二人の間には、穏やかな時間が流れていた。

「四年生はみんな時間が無いからね」



会話の流れから、ふと先輩がそう口にした。

雪は彼の言葉に頷いて、最近自分が感じたことを口に出した。

「四年生‥先輩も最近気を揉むこと多そうですね。就職の心配とか‥」



淳は運転を続けながら、「まぁ、それなりにね」と言って頷いた。周りの雰囲気もピリピリしてる、と。

やっぱり先輩も‥



やはり彼も就職するんだと、雪は思って口を噤んだ。

そして先日、父親から投げかけられた質問のことを思い出した。

彼氏のそんなことも知らないのか? 卒業するんだろう?

就職とか結婚とか、そういった将来の計画は何もないのか?










雪は車中から流れ行く景色を見ながら、ぼんやりと考えた。

そういえば‥本当に何も知らないな。

お金持ちで、家が事業経営してて、Z企業にインターンする‥。このくらいしか知らない




自分の隣に座っているのは、ただの同じ学科の先輩じゃない。まだ付き合って日が浅いとはいえど、自分の彼氏だ。

雪は彼の方を向くと、話を切り出した。彼の進路のことだ。

「あの‥先輩は卒業したらどうするんですか? 就職ですか?」



雪からの問いに淳は「ん?俺?」と言ったきり、少し沈黙した。

何かを考えているようだ。



淳は暫しの無言の後、ゆっくりと切り出した。

「‥実は卒業したら大学院に留学する計画があったりしたんだけど‥」



はぁ、と言って雪はその話に相槌を打った。

しかしよくよくその意味を考えると、とんでもないことを聞かされたんじゃないかと思い始める。

え‥? 今何て言った‥?え‥留学??



彼が卒業後に留学する‥。

それは雪にとって青天の霹靂だった。しかし彼は何事も無かったかのようなすました顔をしている。

この人‥今私にそのことを告白したっていうの‥?



留学するということは、約半年後に彼が遠い外国へ行ってしまうということだ。

突然告げられたその突拍子もない話は、雪の心を掻き乱した。

わ‥私は‥私はそれじゃ‥どうすれば‥



見るからに動揺している雪に向かって、淳は「行かないよ?」と言って話を続けた。

「雪ちゃんを置いては行けないだろう?」



含みある表情でそう口にする彼を見て、雪は最初自分がからかわれたんだと思った。

暫しポカンとしていたが、やがて再び心が不安で掻き乱された。

さっきのは冗談‥?いや、先輩なら本当に留学ありえるんじゃないの?!何が真実‥



雪は顔面蒼白しながら、「そ、そうなんですか‥?先輩留学は‥?」と再び聞いた。

すると彼はニッコリとほほ笑みながら、「冗談だよん」と言った。おどけた表情をしている。



雪は幾分ホッとしたが、やはりからかわれたんだと思って青筋を立てた。その笑顔が憎らしい‥。


そして彼は語り始めた。留学の話は、まるきりの嘘というわけではないようだった。

「前から母がずっとアメリカに来いと言ってるんだけど、前に一度断念してて‥」



そして彼は進路の話を続けた。それは雪が初めて耳にする話だ。

「けど俺の目標は国内本社であって、俺自身も国内の大学に通ってるわけだから‥」



雪の耳に、よく分からない内容が入ってきた。”本社”とは何のことだろう?

「今はちょっと‥他の方向も検討中。確かに色々考えるよ、四年ともなると」



そう言って彼は一旦話を切った。

雪は彼の話した情報を元に、その内容を整理してみる。



とにかく留学については、白紙に戻ったと言っていいだろう。

そして彼の言った”本社”というのは、今学期からインターンに行くZ企業のことだろうか?

そこに正社員として就職することが、彼の目標ということなのか‥?


雪は頭の中で整理した内容を踏まえて、彼にもう一度質問する。

「それじゃあ‥留学しないとなると、今度先輩がインターンする予定の企業に就職するってことですか?

正社員になるにはどうすれば‥」




覗き込むような姿勢で質問を続ける雪の眼は、真面目に就活を考える学生の目でもあった。

素朴な疑問を口にする彼女を前にして、淳はまた沈黙した。



しかしこれ以上は誤魔化しきれないと思ったのか、再び淳は口を開いた。

「これ内緒ね、」と前置きして語られた内容に、雪は息を飲むことになる。

「実は‥俺がインターンする予定の企業って、うちの父親の会社なんだ」



「はあ‥」




‥うちの

父親の

会社‥?







‥。



「えええええっ?!」




車内に、雪の驚愕の叫びが響き渡った。

隣に居るのは、ただの同じ学科の先輩というだけでは無かった。自分の彼氏であると同時に彼は、

大企業の跡取り息子だったのだ‥。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<彼の将来>でした。

この二人、身の上の話とか全然してこなかったんでしょうか‥(汗)

付き合ってまだ二ヶ月とはいえ、これはあまりにも‥(@@;)


彼氏の進路を知らない雪も、自分の身の上を語らない淳も、本当に”孤独型”ですよね。

”孤独型”は聡美のような、何でも話してくれる”共存型”との方が相性良いんでしょうけどね~。

うーん‥。


次回は<彼女の居ない未来>です。


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気になるアイツ

2014-02-20 01:00:00 | 雪3年3部(新学期~気になるアイツまで)
「あれっ?」



小西恵は、遠目に雪の姿を見た。

いつも一緒に居る友達二人と談笑しているようだ。恵は手を上げ雪の名を呼び、走り寄る。



しかし振り返ったその人は、雪ではなかった。

(それはただいま絶賛”赤山雪コピー中”の、清水香織であった。)



恵はすいませんと言って、そのまま後退りしていった。

目の前の”雪に似た人”は、どうやら二人組から道を聞かれていたらしく、軽く会釈をしてそのまま去って行った‥。






そして恵は本物の赤山雪に会うため、約束していたベンチに向かった。

そこには雪と聡美、太一が集まっていた。恵はカバンから、彼らに買ってきた欧州土産を取り出す。



美味しそうなチョコレート、見たこともないオーストリアのお土産‥。

聡美と太一は素敵なプレゼントにキャアキャアとはしゃいだ。見守る雪は嬉しそうに微笑んでいる。

「旅行から帰ってすぐ開講じゃ、気も休まらないんじゃない?」



そう言って心配する雪の言葉を受けて、恵が「そうなの!労らなくちゃ~」と冗談ぽく口にする。

雪が「今度サムゲタン食べにおいで」と優しく言うと、恵は嬉しそうに頷いた。



聡美が「ヨーロッパで何を見物したの?」と恵に聞くと、恵は美術館を中心に見て回ったと答えた。

実際に目にする絵画の数々に恵は圧倒されたようで、興奮した調子でその思い出を語った。

「恵は絵が本当に上手なの。高校の時だって、先生達大絶賛だったんだから!」



雪が恵の背に手を当てながら、まるで自分のことのように誇らしげに自慢する。

褒めても何も出ないよ、と言って笑い合う恵と雪は、まるで仲の良い姉妹のようだ。



そんな二人の仲睦まじい様子を目の当たりにして、少し寂しさを感じる聡美。黙々とチョコレートを頬張る太一‥。

秋の午後は、穏やかな時間が流れていた。


「あ!あたし次授業だ!」



恵はそう言って、カバンを手に立ち上がった。開講早々授業開始らしく、恵は忙しない様子だ。

すると不意に聡美が雪に声を掛けた。

「あ、雪!あんたもそろそろ先輩んとこ行かなきゃじゃないの?」



あ‥と雪は言葉に詰まった。

「そうなんだけど‥」と言葉を濁して恵の方を窺う。



すると恵はニッコリと微笑み、雪の手を取って祝福を口にした。

二人が付き合っているということは、以前雪から電話にて報告を受けていたのだ。

「雪ねぇと先輩付き合ってるんだよね!大体予想はしてたけどさ~!すごいお似合いじゃん~!」



雪は決まり悪そうに頭を掻いた。

何だかごめん‥と謝りもした。



恵はそんな態度の雪に、幾分困り顔で続ける。

「も~!何よ雪ねぇ!言ったでしょ!あたし全然気にしてないってば!」



若干気まずい表情の雪、あっけらかんとした雰囲気の恵‥。

その後ろで、聡美がしまったという顔で口を押さえている。



合コンの時‥と呟いて思い出すのは、先学期雪から聞いた、恵を先輩に紹介した時の話だ。

あの時恵は淳のことが気になっていて、雪に仲介を頼んでいた‥。



それがこんなことになり、雪は恵に申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、

彼女は「あたし今はヨーロッパで見たイタリアのイケメンたちで頭がいっぱいだから!」

と冗談を口にするような調子で言って、雪をホッとさせた。



そして恵は笑顔で雪達三人に別れを告げると、そのまま授業に向かって行った。

カップル成立記念で今度サムゲタンご馳走してよ!と明るく口にして、雪が笑いながら了承する。




腕時計を見ると、もう遅刻ギリギリだった。

恵は慌てるあまり、道中でカバンからスケッチブックを取り落とした。

「ああっ!」



地面に開かれた状態で落ちたそれを拾い上げると、幾つも描いてあるデッサンが顕になった。

何ページにも渡って描かれた、数々の青田淳の絵が。



正面を向いた顔、横を向いている姿、俯き加減に微笑む表情‥。

恵はスケッチブックを抱き締めて、何とも言えない気分だった。何だかんだで気になるアイツ‥といったところである。



恵はそこに描かれている幾数の淳の絵に目を落としながら、ポツリと一人呟いた。

「第一印象は完璧理想の王子様だったのになぁ‥。でもやっぱ描き甲斐あるんだよな!」



恵はしみじみと思いを馳せながら、スケッチブックを大事そうに抱えた。

そしてハッと我に返ると、大慌てで授業に向かって行ったのだった‥。








同じ頃。ここは雪の叔父が所有する倉庫である。

叔父は意外そうな顔をして、モップを持った亮を前に口を開いた。

「ふぅむ‥これ以上は業者にお願いしようかと思ってたけど、亮君が最後まで手伝ってくれるとは‥」



亮は叔父の言葉が聞こえてはいたものの、頭の中は倉庫に置かれたピアノのことでいっぱいであった。

チラチラと何度もそれを窺いながら、逸る気持ちを抑えきれずソワソワする。

「大丈夫かい?まぁ僕からしたら安く上がって万々歳だけど‥」 



「あっハイ!勿論ッスよ!!」

心配そうに亮を前にする叔父に、亮はニッコリと笑って了承した。

いつになくハイテンションな亮は、叔父に向けて饒舌な調子で喋り出す。

「最近は景気も悪いし、オレも日当貰えるし、社長はお金を節約出来るし!HA,HA,HA!

これまさにwin-win!一石二鳥!社長のお姉さんも得する、社長も得する、ザリガニ取ってどぶをさらうってもんスよ!」




亮は自分が手伝うことで皆がHappyになる、まさに一挙両得!と鼻息荒く語った。

叔父は積極的な亮を快く思い、頑張れよとエールを送って倉庫を後にする。亮は大口を開けて笑いながら、彼を見送った。



叔父がいなくなるのを見届けた後、亮はすぐさまピアノに近寄ってその周りをグルグルと回った。

「これこれッ‥!これこれこれ‥!」



昨日これを見つけてからというもの、亮は片時もピアノのことが頭から離れなかった。

亮は胸をドキドキと高鳴らせながら、ゆっくりと蓋を開ける。

 

亮はうわ言のようにコレコレ言いながら、震える指を鍵盤に向かって伸ばした。

心臓が口から飛び出そうな心情の中、ようやく鍵盤を押す‥。



がしかし、音は鳴らなかった。

スコ、と鍵盤はただ引っ込んだだけで、待ち望んだあの音は聞こえない。

「んだコリャ?!電子ピアノか?!コンセントは‥?!」



亮が大きな声を上げるのを、コーヒーを取って戻ってきた叔父が耳にして、

「あれ? 亮君ピアノ弾けるの?」と彼に声を掛けた。

「いいえ!弾けまっせん!!」



叩き返すかのような亮のリアクションに、思わず叔父はビックリしてコーヒーを吹き出した。

口を拭きながら訝しげな視線を送る叔父に、亮は直立不動で言葉を続けた。

「オ、オレみたいな奴が何で‥HA,HA,HA!まぁ‥ドレミくらいなら‥」



亮がそう口にすると、叔父は幾分残念そうな表情で言った。

「そうか‥。ゆくゆくはライブカフェにしたいと思ってたんだけど‥無用の産物になっちゃったなぁ」



叔父は溜息を吐きながら、捨てるのも勿体無いし修理も費用がかかるし‥と言って唸った。

亮はニコニコと笑いながら叔父の言葉に頷いていたが、頭の中はどうやったらピアノが鳴るかということでいっぱいだった。



そのため口にする言葉は、気もそぞろのため支離滅裂なものになった‥。

「そーっすよね!ごもっともでござーます!倹約すなわちエコ!ゴミ削減で青い地球!

我らの山や川は青く青く‥」




気になるアイツが後ろにある。

亮の心の中は”電気”でいっぱいだった。それがあればピアノが鳴るのだ‥。



指が無意識に鍵盤を弾く動作を始めていた。

雨が降りそうだ、という叔父の言葉など耳に入らないくらい、亮はひたすら焦れていた‥。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<気になるアイツ>でした。

恵ちゃん‥そんな誤解を生むもの持ち歩いちゃって‥!^^;


しかし淳の絵、上手です。

前回の”ピカソ淳”静香の絵と対称になっているんだと思います。

 

対称になっているのは絵だけではなく、静香と恵は美術という夢を諦めた者と、その夢を現在追っている者、という対称でもありますね。

かつての夢に憎しみすら抱く静香と、夢の最中でキラキラと輝いている恵‥。

 

この二人が相対する日が、いつか来るのかもしれません‥。


次回は<彼の将来>です。



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眠れる鍵盤

2014-02-19 01:00:00 | 雪3年3部(新学期~気になるアイツまで)
9:30 AM。

亮はセットしたアラームが鳴る前に、パチッと目を覚ました。



勢い良く上半身を起こすと同時に、携帯アラームが鳴る。

亮はその電子音を止めると大きなあくびをし、全身をぐんと伸ばした。



ようやく慣れてきた、朝の風景。

歯磨きをし、朝ごはんを作りながら携帯でニュースをチェックして、駆け足で職場へ向かう。

  

職場である宴麺屋の店内に入ると、既に雪の母親はエプロン姿で仕事に取り掛かっていた。

「亮君おはよ」 「うっす!おはよーございやす~!」



亮は威勢よく挨拶した後、まずは掃除掃除と言って店内を進んで行く。

しかしその間にも椅子や机にぶつかって大きな音を立てるので、雪の母親は気が気でないようだ。



この日初めて亮の姿を目にする雪の叔父は、彼の後ろ姿を見て雪の母親に声を掛けた。

「おっ!あれが新しく入ったバイトの子だね?」



雪の母親は頷き、娘の友達らしいと言って彼を紹介した。

叔父は、雪の友達ということは大学の‥?と口にするが、雪の母親は首を横に振った。

バイト経験は豊富らしい、と付け加えて。

「しかし力は結構ありそうだな‥!」 「力は強いですよ、力は‥」



雪の母が遠い目をする隣で、叔父はキラリと目を光らせた。

実は彼の経営するカフェが内装をリニューアルするということで、倉庫の掃除と整理に追われている最中らしい。

そこで力のありそうな亮を貸して欲しい、というわけだ。



雪の母親は彼の要求を飲んで、亮に叔父を手伝うように言った。日当も別に出るわよと付け加えると、

亮はニッコリと微笑んで返事をした。

「うぃーっす!了解しやした!」










‥しかし亮はその了承をすぐさま後悔した。

ゴミ袋を作っても作っても、一向に終わる気配が見えないのだ。

何だこのゴミの山は?!どーすればこんなになるんだ?!業者呼んで片せよ!



重いゴミ袋を沢山運んで、亮はもうクタクタだ。叔父はそんな亮に、ニコニコと微笑んで声を掛ける。

「あとはあっちの倉庫を大まかに整理してくれればいいから。残りは業者さん呼ぶからね」



ボロボロになった亮は力無く頷き、隣の倉庫へと歩いて行った。

日当ケチれば容赦しないぞ、と思いながら。



キイ、とその扉は開いた。

埃っぽい空気がドアの隙間から漏れ出てくる。

早く終わらせよう、と呟きかけた亮の目に、それはいきなり飛び込んで来た。



雑然とした室内に置かれた、一台のピアノ。

心臓が一瞬動きを止めた。ハッと息を飲んだまま、亮は目を見開いた。



叔父が亮の背中越しに、あのピアノは買ってはみたものの使わなかったんだと説明した。

亮は叔父とピアノを交互に見ながら、あんぐりと口を開けて呆然とした。



確かに今、目の前にある一台のピアノ。

頭で考える前に足は歩を進めていた。ゆっくりと、亮はピアノに向かって行く。



亮は初めてピアノを目にした子供のように、恐る恐るそれに手を伸ばした。

指でピアノをなぞってみると、黒いホコリが指についた。長らく誰にも触られていないのだ。



亮はゆっくりと、鍵盤蓋を上げた。

埃が舞い上がる中、蓋の下から鍵盤が姿を現す。



亮は吸い寄せられるように、その白い鍵盤を眺めた。

小さく震える指を、ピアノに向かってゆっくりと伸ばす。



しかし音を押さえる前に、亮はその指を引っ込めた。

何も考えられない最中だったが、何かが亮を阻んだ。







数年ぶりに見た鍵盤。

川のように広がる、白黒計八十八鍵。



すると鼓膜の奥で、音が聴こえた。

白と黒の川から聴こえてくるその音。

昔自分が奏でたあの、音の洪水‥。



亮は思わず目を瞑った。

脳を揺らすようなピアノの音が、鼓膜の奥を叩くように響く‥。












ショパン、シューベルト、ベートーベン‥。

亮の記憶の中に、何百回何千回と白と黒の鍵盤を叩いた日々が蘇る。

特に思い出されるのは、高校時代の練習風景だった。

神童と言われていた。亮にとって、ピアノを弾くことは生きていくことだった。







そして美術を専攻して日々を送っていた姉のことも思い出した。

しかし姉は亮とは違い才能が無く、彼女はいつも亮に突っかかった。

記憶に残っている。瞬きもせずに亮を射た、あの鋭い視線が。








亮は同じピアノ科だった、あの男のことも思い出していた。

あの時彼に対して、亮の警戒心は微塵も無かった。同じピアノを愛する仲間だとさえ思っていた‥。







最後に思い出すのは、遂に静香が美術を辞めた時のことだった。

淳の父との面談の末、その未来を諦めた時の姉の記憶。



アイツにはマジ心配が尽きねぇよ、とその時亮は口にした。

淳の部屋で寝転びながら。パラパラと漫画を捲りながら。







あの時は全然分からなかった。

夢を諦めるということ、夢を失うということが、一体どういう意味を持つのかを。







そう亮は心の中で呟いた。

ピアノの蓋を閉じ、それに背を向ける。



遂に鍵盤には触れぬまま、亮は倉庫を後にした。

しかし何度も振り返り、ピアノに視線を送った。亡霊のように、亮の心を離さぬそれに。








同じ頃、静香は家であるバッグを探していた。

高かったのにどこに仕舞ったのか思い出せず、静香は古い荷物がまとめてある箱にまで手を伸ばした。



そして奥の方に転がる、黒い筒を見つけた。

思わず蓋を開け、中に入っていた絵を取り出して広げる。



それは高校時代、淡い恋心を燃やして描いた淳の絵だった。

頑張って描いたが、散々亮に笑われた。そして結局、自分は絵を辞めることになった‥。

「クソッ‥何でまだこれがこんなとこにあんのよ‥!」



静香は忌々しそうに言い捨てると、そのまま絵をビリビリに破いた。

力を入れて紙を裂いていると、眠っていたあの感情が静香の心を揺らす。




あの時は分からなかった。

忘れていた夢が浮かび上がる時、どんな心情になるのかということを。









心の奥底に沈めたあの感情が、再び浮上して心を掻き乱す。

そしてその中に希望は一つも無い。ただ絶望と、落胆と、後悔だけが渦巻いている。









あの時は分からなかった。

あの頃咲き乱れていた希望や楽しさは、二度と取り戻すことは出来ないという、事実を。














亮の中のピアノは、静香の中の美術は、心の奥底深く沈んでいる。

しかし死んでいるわけではない。


それは今はまだ、滾々と眠っている。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<眠れる鍵盤>でした。

亮がピアノに手を伸ばそうとして、引っ込めるところ。

彼の無意識な葛藤が見て取れましたね。

そして弾いていないのに鍵盤を目にした途端頭の奥で音が鳴り出し、目を瞑って過去に場面を移すところ‥鳥肌モンですよね!

ここ、映像で見てみたいです^^。


あと気になったんですが、ここで出てきたこの人‥↓



だだだ誰?!(@@;)

エプロン着けてるということはバイト?それとも厨房の人‥?!

この先出てこないので、この人が誰なのか謎のままです‥。


次回は<気になるアイツ>です。


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