遠藤修の恋人は、昨日彼からかかってきた一方的な電話に、落胆と苛立ちを感じていた。
捗らない勉強、狭い部屋に閉じこもっている孤独、家族から見放された寂しさ‥。
誰かにこの気持ちを聞いて欲しい。
彼はアパートの隣りに住む女子大生が朝出てくるのを見計らって、その扉の前で屍と化していた‥。
あたしのこの姿を見てよく平気な顔して素通り出来るわね‥。
え?マジで行っちゃうの?うわ‥そんな冷たい子だったんだ‥。あんた一生後悔するわよ‥。
呪いにも似たオドロオドロしい視線に、隣の女子大生は足を止めた。
二人並んで座りながら、彼は隣人である赤山雪に自らの境遇について愚痴り始めた。
彼のために、自分は家族も名誉も全て捨てた。
今までの暮らしからは想像出来ないくらい貧乏たらしい生活に身を落とし、
日がな一日勉強しているというのに‥。
「あいつは自分のことばっかり‥!」
そう言って彼は爪を噛んだ。
隣に座る雪が、彼の吸うタバコの煙にむせているのも気付かぬくらい、
彼の悶々とした心はささくれ立っている。
彼は、恋人についての不満を感情のままに並び立てた。
人間なのだから失敗することもある、他人に迷惑を掛けることもある。
けれど彼の恋人は、そんな彼のちょっとしたミスにも目をつぶることなく、いつもそれを責め立てる。
昨日だって久々に連絡が来たのだ。
なのに久しぶりの電話に耳を当てると、間もなく彼の怒号が耳に入ってきた‥。
しかし彼の憤りはそこだけでは無かった。もっと大きなわだかまり‥。
心にこびりついたその不信感を、彼は感情のままに吐露した。
「許せないのはあいつはあたしなんかとは比べ物にならないくらい、酷いことしてるってこと!
人のクレジットカード勝手に使いやがって‥!」
彼の言葉に、雪は
「おじさんのクレジットカードを勝手に使ったんですか?」と訝しげに言った。
「あたしのがあったらとっくにあげてるわよ!あたしのじゃなくて学校の‥」
彼はそこまで言ったところで口を噤んだ。
理性が感情の扉にストップをかける。
彼は、雪にこのことは一切他言無用でと頭を下げた。
言わないと約束した雪に、何度も何度も念を押す。
就活相談があるから‥とその場から立ち上がった雪を、彼は無言のまま眺めた。
彼女は彼の入りたいA大の三年生で、成績も良い‥。
「‥そう。無事卒業して良いとこに就職出来たらいいわね」
彼は酒気の残る身体で立ち上がりながらも、彼女にエールを送った。
そして、
「あたしみたいになっちゃダメよ」と消え入るように呟きながら去って行く。
トボトボと歩いて行く彼の後ろ姿を見ながら、雪はその心情を憂いた。
勉強のストレスに、自分を理解してくれない恋人、心に残った大きなわだかまり‥。
雪は彼を可哀想に思いながら、学校へと向かった。
雪が学校で受けた就活相談は、それはそれは容赦無いものだった。
「単位だけ見たら問題無いけど、サークル活動もしてないし語学研修もしてないし‥」
担当の女性は気乗りしない口調で、ネガティブな意見を淡々と述べた。
卒業ノルマを超えている英語の成績でさえ、最近は満点も多いからと難色を示された。
しかも文法の方は問題ないものの、英会話のスキルが圧倒的に足らないとズバリ指摘された。
さっさと英会話のスキルを出来るだけ早く伸ばすこと‥。
インターンもさっさと決めてさっさと行くこと‥。
雪は次々と投げかけられる課題が、エクトプラズムのように耳に入ってくるのに閉口した。
すると続けて担当者は、雪の履歴書に書かれた二つの資格に目を留めた。
去年塾に通って取得した、電算会計と流通管理士資格証だ。
「必要ないわ!」「え‥?!」
担当者は、資格を取っておくにしても系統を統一すべきだと言った。
これだと会計に進みたいのか流通に関わりたいのか、企業からしても優柔不断な印象しか得られないと。
「あなたがやりたい事は一体何なの?」
そう言われて、雪は頭が真っ白になった。
良い会社ならどこでも‥と辛うじて口を出た答えも、
どこの会社のどんな部署かとの質問の前には効力を失くした。
「良い会社ならどこでも良い」という漠然とした展望を言い当てられた雪は、
返す言葉も無く意識がフェードアウトして行った‥。
同じく就活相談で身も心もズタズタになった聡美と雪は、
トボトボと帰り道を歩いていた。
生気を吸い取られたような雪に負けずに、聡美もひたすら溜息を吐かれてズバズバやられたと言う。
ファッションやアパレル関係に携わりたい聡美は、父親から彼女の為に衣料店を建ててやると言われている。
その進路を就活相談で言及すると担当者は安心したが、店の切り盛りはやはり聡美の才覚にかかっている。
先の話だが、聡美は店が上手くいくかどうかを案じて溜息を吐いた。
誰にとっても、先の見えない進路に対する悩みは大きかった。
それでも雪は成績も良いし、あまりショックを受けなくても大丈夫だよと聡美は言う。
とりあえず英会話のスキルを伸ばすことを言われたのなら、塾にでも行くといいと前向きな提案もしてくれた。
しかし雪はとにかく気が重かった。
その暗鬱たる気持ちから、自然と溜息が出てしまう。
そんな折、聡美の携帯電話が鳴った。
父親からの電話に、聡美はキャピキャピと応答する。
何度見ても慣れないその光景に、雪は若干引き気味だ‥。
電話を切ると、聡美は夜ご飯一緒に食べようと言った。
パパがご馳走してくれると言うのだ。
しかし雪は丁重に断った。
資料探しに図書館に行かなくちゃならないし、課題も溜まっている‥。
聡美は惜しんだが、やがて二人は別れた。
聡美を見送ってから、雪は下を向いて歩きながら先ほどの心配事について考えを巡らせた。
英会話の塾の月謝‥どのくらいするんだろう‥。
通帳の残高も底尽きようとしてるのに‥夏休みにバイトしながら通うことになるの‥?
雪は先日実家に帰った際の、母親の言葉を思い出していた。
電話口で父親と話している母親の後ろ姿は、いつもより小さく見えた。
そんなに忙しいの?一旦帰ってきてお肉だけでも食べて行けばいいのに‥
それじゃあ今月の収入はほとんどないってこと‥?
ざわつく心は、憂鬱な記憶を引きずり出す。
ある日耳にした、父と部下との何気ない会話。
「うちの娘は高校時代にちょっと塾に通っただけで、後は独学で大学に上がったよ」
「ははは、赤山社長の娘さんは凄いですなぁ」
雪は天才では無かった。だから常に努力しなければならなかった。
テスト期間は徹夜に近いほど毎日勉強して、毎回必死に勝ち取っていた全校一位の成績‥。
「姉ちゃん、この電子辞書貰っていい?俺留学するからさぁ~」
雪が自分で買った電子辞書を持って行った弟。
雪は、留学に行きたいなんてとてもじゃ無いが両親に言い出せなかった。
弟のその天真爛漫さは、雪がどう足掻いても持ち得ないものだった。
「パパが店建ててくれるって!」
自分とはあまりに違う父親との関係。
素直に甘え、愛情を受ける聡美のことが、雪はいつも羨ましかった。
「女の子が高いお金出してまで、大学に通う必要なんて無いんだからな」
頑張っても頑張っても、得られない愛情。
努力しても努力しても、与えられない評価。
のしかかるプレッシャー。
優等生であることが当然とされてきた人生。
泣き言が言えない性格。
そして、あらゆる方向が行き詰まっている現実。
雪はたった一人、下を向いて唇を噛んだ。
助けを求める先は、どこにも無かった。
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<行き詰まり>でした!
就活相談大変そうですね。
しかし聡美パパ、娘のために服屋建てるとかどんだけ!
次回は<救済>です。
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