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YUKI

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狭山事件の謎2…冤罪の構造と犯人像

2011-06-23 00:19:54 | Weblog
一見、一件落着に思えた事件は
警察の初動捜査ミスと思い込みにより、事件は意外な方向に…

事件の真相は推測の域を出ないものの、

警察が40人体制で張り込みながら目の前の犯人を取り逃がし
メンツ丸つぶれとなった腹いせに、自供と証拠を捏造し
被差別民を犯人に仕立て上げてしまったことは、ほぼ確定でしょう。

残念なことに、法廷もそれに加担したとしか思えない…

まぁ真犯人も、被差別民の養豚場からスコップを盗んでおくというように
そうなることを目論んでいたフシがあるのだが。

さて、
被害者は生前に「強姦」されていながら、抵抗した痕跡が全くないこと、
そして被害者家族の行動に不審な点が見られること、などから

「近○相○」の発覚を怖れての身内による犯行説が極めて有力とされている。

まぁ、状況証拠しかないので、これ以上のことはメンドーなことになるんでしょうね…

よ~やく、この事件の概要がつかめたものの
思い当たることは、警察が変なメンツにこだわらなければ、被害者の他に
6人も死なずにすんだということです。

一人の名探偵がいれば、防げたことなんでしょうね…

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ラウンジピュア
No.057 事件関係者が6人自殺・変死した狭山事件
▼矛盾だらけの証拠品
最初に発表された情報によれば、これだけ証拠が揃えば石川が犯人であることは確実である。
しかし後の調査や、石川の裁判中の供述によって、
これら証拠の品々や捜査にはかなりの矛盾点があったことが判明している。

まず、石川が描いた、カバンを捨てた場所の地図である。
これは最初に警察官が紙を2枚重ねて地図を描き、下の紙を石川に渡し、
石川はその紙に残っている跡をなぞって同じものを描いただけだと判明している。

確かに石川が描いたことには違いないが、これは本人の意思で描いたものとはとても言えない。

また、発見されたカバンは革製のカバンであったが、
善枝さんの父親の証言によると善枝さんの持っていたカバンは革製に見える旅行カバンであり、
このカバンは善枝さんのものではないことが分かった。

万年筆は自供によって勝手口の鴨居の上から発見されているが、それまでに2回に渡り、
延べ26人で4時間以上の大掛かりな家宅捜査が行われているにも関わらず、発見されていなかった。

それが自供後の3回目の家宅捜査ではすぐに見つかり、
なおかつ、鴨居の上に万年筆を置いてみると、
それはただ立っているだけでもよく見える状態だったという。
自供後にそういう状態の万年筆が見つかるのは極めて不自然である。

更にこの万年筆は鑑定の結果、ペン先がほとんど擦り減っていない新品同様のものであり、
インクはブルーブラックだった。
善枝さんのノートや日記に使われているインクはライトブルーであり、
この万年筆も善枝さんのものではないことが分かった。

腕時計も、発見された物はシチズン・ペットであったが、
善枝さんの腕時計はシチズン・コニーであり、これも善枝さんのものではなかった。

金の受け渡しの時に犯人が潜(ひそ)んでいた畑から地下足袋の足跡が採取されているが、
その大きさは10文から10文半で、石川の自宅から押収された地下足袋の大きさは9文7分だった。

脅迫状との筆跡鑑定のために、石川に文書を書かせてみた。
石川はほとんど字の知識がない。
それでも書かせた文書と脅迫状を比べて筆跡、句読点の使い方、文章の特徴などを鑑定してみた結果、
警察では同一人物と鑑定されたが、学習院大学の教授と京都市教育委員会では、
別人であるという鑑定結果となった。

そして脅迫状や善枝さんの遺留品からは石川の指紋は検出されていない。
真犯人は別にいるとしか思えないような事実が次々と明らかになっていった。
「本当に石川なのか?」
事件を追っていたジャーナリストや著名人、開放同盟などが次々と声を上げ始めた。
多くの支援者が集まり始め、石川の無罪判決を勝ち取る動きが始まった。

▼6人もの人間が変死と自殺
この事件は、事件発生後、被害者・善枝さんと少なからず関わりを持っていた人物が
6人も自殺や変死を遂げており、その点が大きな謎となっている。

果たしてその中に真犯人がいたのか、あるいは共犯者が責任を感じて死を選んだのか、
または、知ってはならないことを知ってしまったために自殺に走ったのか、
多くの書籍により推理はされているが、明確な結論は出ていない。

<1人目>
善枝さんの遺体が発見されてから2日後にあたる5月6日、
運送会社勤務の奥富玄ニ(31)が、農薬を飲んで井戸に飛び込み、自殺した。
奥富は新居を建てたばかりで、明日が自分の結婚式であった。

奥富は善枝さんの実家である中田家に住み込みで働いていた時期もあり、
善枝さんとも面識がある。血液型はB型。字は脅迫状の筆跡と良く似ていたという。

<2人目>
不審な3人組を見たと警察に通報した、情報提供者である田中登(31)が、
5月11日、包丁で自分の胸を刺して自殺した。
「警察に協力したのに犯人扱いされた。」と悩んでノイローゼ気味になっていたらしい。

<3人目>
7月14日、中田登美恵(24)が農薬を飲んで自殺。
登美恵は善枝さんの姉であり、誘拐事件の時、金の受け渡し役を務めた女性である。
石川の死刑判決に相当なショックを受け、その時から精神に異常をきたし始めたと言われている。

<4人目>
昭和41年10月24日、事件から3年5ヶ月が経過していたが
この日、石田養豚場の経営者・石田一義の兄である登利造が、
西武線入曽駅近くの踏み切りで電車に轢(ひ)かれて死亡した。
登利造は事件当時は弟の経営する石田養豚場に勤務していた。警察では自殺と断定。

<5人目>
昭和52年10月4日、中田家の次男・喜代治が首を吊って自殺。
自分の経営する中華料理店の経営不振が原因とされている。
被害者・善枝さんの兄弟は、これで2人自殺したことになる。

この年の8月に石川の無期懲役が確定し、石川は9月に刑務所に入っている。

<6人目>
昭和52年12月19日、この狭山事件について事件を再調査していた
ジャーナリスト片桐軍三(36)が、東京都豊島区の路地で何者かに襲われ、激しい暴行を受けた。
頭骸骨の陥没や骨折、肋骨の骨折などの重症を負い、二日後である21日に死亡した。

▼判決
昭和39年3月11日、浦和地裁で行われた裁判では、石川は死刑判決となった。
翌日石川は控訴した。

石川は一審までは犯行を認めており、否認もしていなかったが、
9月10日に東京高等裁判所で行われた控訴審では、強引な取り調べや
「自白すれば10年で出してやる」と持ちかけられたこと、自白を強要されたことなどを話し、
一審で認めたことを一転して全面否定した。

昭和49年10月31日、東京高等裁判所で無期懲役の判決が出され、
上告するも、昭和52年8月9日には最高裁で上告が棄却され、石川の無期懲役が確定した。
石川は千葉刑務所に服役することとなった。

そして31年7ヶ月の時を経て、平成6年12月21日に石川はようやく仮出獄することが出来た。
石川は出獄後も支援者と共に無罪を主張し続けている。

▼真犯人を推理
この事件は、裁判上では石川一雄が犯人として判決も出ており、決着がついている。
しかし捜査も証拠もあまりにも不自然な点が多く、石川の無実はほぼ間違いない。

この狭山事件をモデルにいくつかの作品も作られ、書籍も多く発行されている。
その中には真犯人を推理したものも多いが、
あくまでも推理の段階であって真犯人が判明したというわけではない。

その中にあって、元朝日新聞の記者・殿岡駿星(とのおか しゅんせい)氏が、
著書「犯人 狭山事件より」(1990年出版)と「狭山事件の真犯人」(2005年出版)の中で述べている、
「真犯人は善枝さんの家族の中の一人、それも男兄弟の中の一人」という説は
大胆かつ有力な説となっている。
ただし、これは特定の1人を犯人として断定しているものではない。

中田家の見取り図
この説の根幹を成すものは、中田家の見取り図から判断される事柄と、
事件当日の家族の行動の不自然な点である。

中田家の見取り図は1988年、開放同盟が発行した
「無実の獄25年 狭山事件写真集」の中に掲載されており、それを参考文献としている。

中田家の玄関はガラス戸で、戸を開けなくても家の中から外の気配が見えるようになっている。

自転車が戻されていた物置と家との距離は約20メートルあるが、
自転車のあった位置は家の中にいても見える場所である。

なおかつ、誰かが敷地内に入って封筒を玄関の戸に挟(はさ)もうとすれば、
それもガラス越しに見えてしまう。

ましてや、この日は帰りの遅い善枝さんを心配して
家族全員が玄関の方を気にかけていたであろうし、
このような状況で部外者が誰にも見られず自転車を戻し、
玄関に封筒を挟(はさ)んで帰るようなことは不可能に近い。

それが出来るのは、中田家にいても不自然ではない人物、
つまり家族の中の誰か、と考えるのが理にかなっている。

そして、脅迫状には「警察に話したら子供は殺す」と書かれてあるにも関わらず、
脅迫状を読んでから15分後には警察に届けている。
普通であればまず家族全員で話しあってから
警察に届けるかどうかを決めそうなものであるが、あまりにも判断が速い。

また、ここで重要になってくるのが、脅迫状に指定された時間「5月2日の夜12時」である。
これは「5月1日の24時」とも「5月2日の24時」とも取れるあいまいな表現である。

二通りの意味に解釈した警察は実際に二晩続けて張り込んでいる。
実際に犯人が登場したのは「5月2日の24時」であった。

犯人の目的として、あえてどちらとも取れる日付を書き、二晩連続で警察を張り込ませる。
初日は警官の人数や配置を確認するための練習のようなもので、本番は二日目である。

脅迫状が発見されたのは5月1日の19時40分であり、
この日の24時までに警察側に張り込みの準備をさせるためには、どうしても急がなければならない。

そして1日の24時、犯人はこっそり現場に現れて警官の配置などを把握し、
明日、自分が登場する位置や逃走経路を確認して帰る。

つまり、脅迫状が届いた当日から警察に張り込みをさせるために
急いで警察に届けたのではないかと推測されている。

金の受け渡しに女を指定しているのも、
自分自身(男性)が金の受け渡し役に任命されるのを防ぐためである。

そして後に、金の受け渡し役を務めた、善枝さんの姉・登美恵が自殺したのは、
自分の兄弟が真犯人と知っており、石川の死刑判決に対する
ショックと懺悔(ざんげ)の気持ちからだったのではないか。

殺害の動機としては、犯人と善枝さんは、兄弟の関係というよりも男と女の関係になっており、
それが発覚しそうになったからだと推測されている。

殿岡氏は平成2年にこの該当人物に、この事件の核心に迫る8つの質問を書面にして送ったが、
「お答えすることは出来ません。」との返事が返ってきており、
依然この説は仮説の段階のままである。
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狭山事件の真犯人
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犯人―狭山事件より
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晩聲社
 
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