21世紀の最初の年に公開されたアニメ映画『メトロポリス』を
よ~やく観た。
ヒロインであるティマの「私は誰?」というセリフは、
ラストで2回繰り返される。
救いの手を握り返すこともなく、
半身は機械の身体を露出させて落下していく場面で、そして
砕けて部品となり…その「部品」が発する音…「私は誰?」
「私」には2つのレベルがあると思う。
①定義可能な、抽象的な私…社会的な存在→意味とか存在意義とか。
②定義不可能な、実存的な、私的な存在→ウィトゲンシュタイン的に言えば
「眼は直接、眼自身を見ることができない」
①の部分で、知的存在は苦悩するのだろうが
②を意識すれば、①という問いかけさえ消滅する。
そもそも「世界」とは「意味あるすべて」なのであって
「世界は私の世界」なのであるから。
思うに②のレベルでは「私は誰?」という問いかけは無意味なのだ。
①のレベルで考えれば…おそらく、こうなる。
人をほろぼすための存在…人はそれを邪悪と呼ぶが…であるティマの
「私は誰?」という言葉の意味は、
「私は邪悪な存在以外になれないのか?」という問いかけではないのか?
よ~やく観た。
ヒロインであるティマの「私は誰?」というセリフは、
ラストで2回繰り返される。
救いの手を握り返すこともなく、
半身は機械の身体を露出させて落下していく場面で、そして
砕けて部品となり…その「部品」が発する音…「私は誰?」
「私」には2つのレベルがあると思う。
①定義可能な、抽象的な私…社会的な存在→意味とか存在意義とか。
②定義不可能な、実存的な、私的な存在→ウィトゲンシュタイン的に言えば
「眼は直接、眼自身を見ることができない」
①の部分で、知的存在は苦悩するのだろうが
②を意識すれば、①という問いかけさえ消滅する。
そもそも「世界」とは「意味あるすべて」なのであって
「世界は私の世界」なのであるから。
思うに②のレベルでは「私は誰?」という問いかけは無意味なのだ。
①のレベルで考えれば…おそらく、こうなる。
人をほろぼすための存在…人はそれを邪悪と呼ぶが…であるティマの
「私は誰?」という言葉の意味は、
「私は邪悪な存在以外になれないのか?」という問いかけではないのか?