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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

みんな違ってみんな正しい

2018-07-21 08:21:56 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「専門家間の違い」7月11日
 『論点』欄のテーマは、『万引き 解決への道は』でした。是枝監督の『万引き家族』に触発されたテーマ設定のようでした。3人の専門家が論じているのですが、それぞれの現状認識、問題意識が全く異なっている(編集部がそういう方を選んだのでしょうが)ことが、とても興味深いです。
 立教大教授小長井賀與氏は、保護観察官の経験もある元法務官僚です。小長井氏は、『弱者を支える営みを広げれば、万引きなどの犯罪が減る』と述べ、『幼少期は親の愛情不足を物で埋める』『中高生は学校での不満の憂さ晴らしや肝試し』という背景分析をなさっています。
 一方、全国万引犯罪防止機構理事長竹花豊氏の現状認識は違います。『外国人による集団窃盗が横行し、中でも、高額の渡航資金の返済に苦しむ留学生の存在が目立つ。インターネットオークションの発達で転売しやすくなったことも万引きを助長している』と述べ、犯罪としての高度化に懸念を示していらっしゃいます。その当然の帰結として、『進化した顔認証機能』の活用や警察との連携という対策を提示なさっています。
 さらに、精神保健指定医竹村道夫氏は、『逮捕された人のうち4~24%に窃盗症がみられる』という事実を示し、『治療で回復が見込める人には、可能な範囲で医学的な支援をすべき』と提案なさっています。
 それぞれが、万引きという事象のある面をみているという意味で、正しい認識なのでしょうが、認識の違いは対処法の違いに結びつき、それが総合的な対策を打ち出す際の難しさに結びついているという印象です。こうした食い違いは、学校における諸問題に対する対処法の模索でもみられるものです。
 「問題教員」と呼ばれる人たちへの対処法についていえば、精神疾患の多さに着目する人、指導力不足に着目する人、政治活動等偏向教育を行う教員や団体に着目する人など、様々おり、それぞれが自分の問題意識と異なる問題についても認識しながらも、対策の優先順位で対立してしまうのです。
 子供の問題行動についていえば、問題を起こす子供も虐待等の被害者であるという見方をする人と、暴走族や半グレとのつながりから凶悪化を指摘し刑罰の強化を重視する人がいます。さらに、スマホの過剰使用による脳の変化などの知見から対策を訴える人もいる状態です。
 いじめ問題についても、子供の規範意識や道徳性の低下に原因を求める人は道徳教育の教科化などの対策を支持しますし、自殺など重大事態を引き起こすように内容の深刻化に着目し、いじめは犯罪という立場をとる人は登校停止や強制転校などの措置、対策を怠った教員への罰則導入など外的圧力を強める対策を主張します。また、いじめ加害者も苦しんでいるとしてその心のケアを重視する人たちもいます。
 どの例の、どの立場も間違ってはいません。でも、全体像を捉えてもいません。時代の移り変わりによって多数派が変わっていくという側面もあります。全体像を俯瞰すると共に、時間の経過による質的な変化にも気を配り、かつて自分が経験したときには~だった、という思い込みから脱却することも必要です。自戒を込めて。

 

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学習可能レベルへのバージョンアップ

2018-07-20 08:30:02 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「丸投げ禁止」7月10日
 『政策なき移民の拡大』という見出しの特集記事が掲載されました。記事によると我が国は、『2016年の統計では、1年間で日本に移住した外国人は42万人、ドイツ、米国、英国に次ぐ世界第4位で、すでに事実上の「移民大国」』なのだそうです。そうした現状を受け、それでは増え続ける外国人移住者の子供たちへの教育体制はどうなっていくのか、というのが私が注目した点でした。
 記事には、『外国人の子どもが、障害児らを対象とした特別支援学級に在籍する割合は、日本人の2倍以上』であり、『日本語で返事ができないなどの「言葉の壁」が障害の産むと混同されているため』だという記述がありました。また、『(本国では)レベルの高い学校に通っていたのに、日本に来てから言葉の壁で学習の機会と意欲を失い、本人も臨まない道に進んでいく子』がいるという指摘もありました。さらに、『日本語力ゼロで来日した子どもの教育が地域と学校に丸投げされてしまう現実がある。本来なら国が一貫した日本語教育のシステムを整えるべき』という専門家の提言も紹介されていました。
 実態については、私が教委に勤務していた頃の経験から納得できるものでした。言い換えれば、この10年余り、ほとんど状況は改善されてはいないということです。専門家に指摘ももっともです。私は日本語教育についての知見は持ち合わせていません。ただ、人権教育の一環としての外国人差別の問題の中で、外国人子女に対する日本語指導に触れると共に、中学校夜間学級の担当として、日本語の読み書きができない成人外国人に対する授業をたくさん目にしてきました。その実態は、まさしく「丸投げ」でした。
 日本語指導に特化した教員免許はありません。教委にも専門家はほとんどいません。都教育委員会のレベルでも日本語指導の正式な担当はなく、それぞれの区市の状況に応じて、区市教委レベルで試行錯誤しているのが実情でした。私も指導主事になって上記の事業を担当するようになって初めて経験し知ることばかりでした。多くの教員の努力でなんとか細々と続いてきた日本語指導は、結局、日常の意思伝達レベルがゴールでした。
 学校に入学してきた子供たちは、半年もすると、小さなトラブルに自分で対処できる程度の日本語力を身に着け、学校生活も安定してきたように見えてきます。しかしそれは表面的な見方なのです。小学校でさえ、授業を理解し、授業に参加し、学ぶ喜びを実感するためには、様々な抽象的な概念を表す言葉の習得が必要です。構造、社会、多数決、証明、仮説、比喩、活用、判断、評価、状況、時系列、義務、責任、恩、犠牲、歴史、公害、議論等々、授業で使われる言葉の中には、子供の日常生活では使われないものが多くあり、こうした言葉の意味やニュアンスを理解し、使いこなせなければ学習内容を理解することは出来ないのです。
 こうした言葉はいくら子供同士で遊んだり、係り活動をしたりしても、定着しにくいのです。考えてみてください。先に挙げた言葉をポルトガル語やスペイン語で説明できる大人が我が国にどれだけいるかを。ちなみに私は一つも言えません。
 記事には、1年間に42万人の移住者がいると書かれています。その中に何人の学齢期の子供がいるかは分かりませんが、10万人として、これを平均的な1学級当たりの人数で割ると4000学級となります。4000学級に一人ずつ担任を置けば、4000人となり、一人当たりの人件費を厚生年金負担分まで含めれば、700万円近くになります。合計で、280億円です。毎年、人件費だけでこれだけ教育予算が増えていくのです。もっとも、年間4000人も、相応しい人材を確保できるとも思えないですが。
 つまり、大学等における人材育成のための課程を創設するところから始めれば、必要な予算はさらに増えていきます。政府にそれだけの覚悟はあるのでしょうか。そうそう、もっと経済的な方法があります。学習に必要なレベルまでバージョンアップした通訳機能をもつスマホを、移住者の子供全員に配布するという方法です。これならば、数年後には寄り少ない予算で実現可能かもしれませんが、研究は進んでいるのでしょうか。文科省が主導すべきだと思うのですが。

 

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悪いのはその人

2018-07-19 08:12:56 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「彼女は特別」7月10日
 『終末期現場つらかった』という見出しの記事が掲載されました。看護師による横浜市大口病院中毒死事件について報じる記事です。記事によると、久保木容疑者は、事件の動機について、『患者さんの要望に応えることが多く、仕事が嫌だった』『自分の勤務中に患者が亡くなって家族に説明するのが面倒で苦手だった』『人々が次々と亡くなる終末期医療の現場と仕事がつらかった』などと語っているようです。
 看護師が患者を殺す、それだけでも異様な事件であるのに、殺した患者が1人ではなく複数、一部の報道では20人という途方もない犠牲者数、その理由が仕事が辛いというだけ、とんでもない犯罪です。
 私の母も、終末期医療の病院にお世話になり、亡くなりました。ベッドが空くということは、全快しての退院ではなく、死亡を意味する病棟、確かに重苦しい雰囲気を感じました。でも、看護師さんたちには本当に良くしてもらいました。お陰様で母は安らかに旅立っていけた、と感謝の気持ちで一杯です。
 あの看護師さんたちはこの事件の報道に触れ、自分たちの職への誇りがけがされて思いを抱いているはずです。それだけにこの容疑者については、怒りが抑え切れません。しかしその一方で、この事件の報道について、一点だけ納得できることがありました。それは、今回の事件を変な意味で一般化していないことです。つまり、こんな看護師が現れるのは看護教育に問題がある、看護師資格の取得を厳しくすべきだ、終末期医療現場の労働環境について抜本的に見直す必要がある、といった議論をほとんど見かけないということです。
 私は、我が国の国民性なのでしょうか、特殊な事例を取り上げ、過剰にフレームアップして危機意識をあおり、「大所高所」から問題を論じるのが、望ましい態度であるという価値観が蔓延しているように思えてならないのです。このブログでは、学校教育改革について、再三取り上げてきました。そこでもこの「大所高所」病を批判してきました。
 その一例が、「かけっこで手を繋いでゴールイン」という一時期ごく一部の学校で行われた事例を大袈裟に取り上げ、戦後教育を蝕む誤った平等主義として、日教組に支配された学校教育を取り戻す、というキャンペーンを行った事例です。また、1000人に2人か3人の特殊な教員が行った犯罪を取り上げ、教員全体の質の低下と責任感の欠如が深刻化していると決めつけて、教員の管理を強化したりもしてきました。いじめ対応の不適際についても、1000以上もある教委の中の数件の能力不足の事例を根拠に教育行政に権限の首長移管が進められました。
 私も教委に勤務し、教委研修の見直しや管理強化などに取り組んできました。ですから、こうした改革全てを否定しているわけではありません。ただ、個人の資質やその組織固有の問題による「小さな事件」を、全国的な課題であるかのように拡大化し、世論を煽り、その世論の力を利用して丁寧な議論なしに早急に結論を出していく手法に危うさを感じるのです。
 今回の事件の大部分が久保木容疑者自身の問題であるように、学校教育に関わって起きる様々な問題が、構造的なものなのか、特殊例なのか、きちんと見分けて議論することが望ましいと考えるのです。

 

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代替物は

2018-07-18 08:25:36 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「代わるものは」7月6日
 特集ワイドは、『ドイツ評論家ガブリエルさんが語る 広がる「21世紀型ファシズム」』でした。その中に『スピード社会が我々を壊す』という小見出しがつけられた段落がありました。
 そこでガブリエル氏は、『だからスマートフォンがはやるのです。抗うつ剤のようなものです。地下鉄でもどこでも指先を動かすのは、内省から逃げている。精神が自分を食い尽くそうとするのを必死に防いでいる。スマホに没頭することで、鬱と戦っているのです。もしスマホがなければ人々は即座に鬱になる』と語っています。ガブリエル氏の意図を正確に解釈するのは難しい言い回しです。
 私は、現代人の多くが、スマホの中に現実逃避することで精神の安定を保っている、という意味に解釈しました。スマホを取り上げられたことでカッとし、親を殺そうとしたという事件が報じられたことがありましたが、その若者は、自分が存在できる世界がなくなるという恐怖に逆上したのかもしれないと思いました。
 学校においても、スマホの扱いについて試行錯誤が続いています。スマホ使用頻度と学力低下について、その相関性を指摘する研究が発表されたり、夜間遅くまで使用する子供の健康問題に焦点が当てられたりしています。そうした状況を受け、規則で制限したり、家庭ごとにルールを決めることの有効性が議論されています。
 しかしそれらは、あくまでも学習や生活習慣における問題点への対処という発想でした。もし、ガブリエル氏の指摘が正鵠を射ていたとしたら、従来とは全く異なる発想の対策が求められることになります。校則に拠るにしろ、家庭のルールに拠るにしろ、スマホに触れる時間を減らすこと=善という考え方に基づいていますが、ガブリエル氏によれば、スマホを制限すると、鬱など精神が蝕まれるようになるというのですから。
 つまり、単にスマホ使用を抑えるだけではなく、その分のすき間を埋める何かを子供たちに提供する必要があるということです。できれば、自分の内部を見つめ直し、自分自身をメタ認知出来るような時間と行為であれば望ましい何かを。
 読書でしょうか。静かな環境で行う「瞑想」のようなものでしょうか。日記などの文章による感情の表出による自己内対話でしょうか。無心になって体を動かす作務のようなものでしょうか。これらは既に一部の学校において、特色ある教育活動という名の下に行われているものです。
 ここまで書いてきて、何だか先日元幹部の死刑の執行が行われ久しぶりに注目を浴びた「オウム真理教」を連想してしまいました。どうも私の中にはこうした「もの」に対する嫌悪感があるようです。同じような感覚の方は少なくないのではないでしょうか。それだけに、公教育に於いて、スマホに代わる代替物を見つけるのは難しいのかもしれませんが、近い将来、本当に具体的な問題として浮上するような予感がします。

 

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中途半端は危険

2018-07-17 07:56:06 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「中途半端な知識」7月6日
 『開かれた新聞委員会2018』が見開き紙面で掲載されました。委員たちによって、いくつかのテーマについて話し合いが行われていましたが、私が注目したのは、『新幹線殺傷事件でのニュースサイトの記事と「おわび」』についての内容でした。
 『容疑者自閉症?「旅に出る」と1月自宅出る』という見出しで書かれた記事について、『障害と事件が関係するような表現になっていたため、関係部分と見出しを削除しました』とお詫びを出したという件についての議論です。チェック体制の不備について状況説明する新聞社側に対し、委員からは、『人をかけても障害について知識がない人がやれば同じこと』『人権意識ではなく知識の欠如だろう』『人権は優しさより、知識で育てられるものだ』と、自閉症についての知識不足を糾弾する声が相次ぎました。
 私は教委勤務時代に人権教育を担当していました。人権教育の推進・充実を考える際には、人権感覚と人権知識を車の両輪と捉えるのが一般的でした。知識も、感覚も、です。私は知識不足が問題であることを否定するつもりはありませんが、より問題なのは、知識不足ではなく、あやふやで中途半端な知識をもっていることではないかと考えています。全く知識がないところでは、人権侵害はあまり起きず、生半可な知識があるところで人権侵害や差別が発生するのです。
 東日本大震災のとき、他の地域に避難していった子供に対するいじめが横行しました。放射能が感染する、補償金もらってカネがあるんだから奢れ、というようないじめが報じられました。いずれも、放射能汚染は人命を奪うほど危険、被害に応じて補償金が支払われた、という事実について知っているからこそ起きたいじめです。しかしその知識は不正確なものだったのです。
 ゲイではなく、おかま、ホモと言ってからかういじめがあります。どちらも男なのに男が好きな変態というようなイメージで用いられます。ゲイを説明するとすれば、男性同性愛者ということになりますが、彼らは変態ではなく、人を真剣に愛することが出来るという意味で、多数派である異性愛者と何ら変わる存在ではありません。性指向が男性に、という意味では間違ってはいないのですが、やはり不正確な知識です。
 学校現場では、このような子供の「中途半端な知識」だけでなく、教員にも同じような問題があります。学校における出来事を新聞記事風に書くとしたとき、「やはり帰国子女?学級内で孤立」「自己主張か我が儘か?またも一人っ子!」「問題行動の陰に愛情不足?母子家庭で育つ子」というような見出しが頭の中に浮かんでしまう教員は少なくありません。これらも、様々な情報源から得られる知識の一部だけを記憶しデフォルメして使うことによって生じる人権侵害です。
 知らないことよりも中途半端に知っていることの怖さ、生半可な知識しかないのに自分は知っていると思い上がる怖さを、教員は肝に銘じてほしいと思います。

 

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AI先生

2018-07-16 08:04:12 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「AI先生」7月5日
 『ダメAIは良き相棒!?』という見出しの記事が掲載されました。米エール大の研究について報じる記事です。記事によると、『あえてトラブルを引き起こすAIの研究』だということで、『ドラえもんが完璧でないからこそ、のび太君が奮闘する場面が生まれるように』というたとえで説明されていました。
 まだ分かりにくいですね。そこで、記事では具体例として、『夫婦げんかの仲裁も、真剣な話し合いを勧めるAIより、間の抜けた冗談を言って笑わせるAIの方が怒りを吸収し、仲直りを早める』『AIがたまに無駄なブレーキを踏むと、(自動運転車)の運転手が警戒し、かえって事故を減らせる』があげられていました。現在、多くのIT企業の関係者が同大を訪れているそうです。
 記事は、『「ダメAI」に活躍の余地があるのは、社会の複雑さと人間心理の不思議さ故だろう。それが研究者の好奇心を刺激している』という言葉で締めくくられていました。私はこのブログで、AIを活用した授業改革について、否定的な見解を示してきました。統計的なデータ処理による改善効果が一定程度あることは認めても、教員の代役を果たすことはできないという立場でした。それは、AIによる授業改革で紹介されるAIは全て「完璧AI」であり、「ダメAI」的な要素が感じられなかったからです。
 私は、授業という営みは理屈通りには行かない複雑さをもち、子供の興味・関心・意欲の移り変わりも、不思議な生き物のように変化していくものだと考えています。だからこそ、いくら詳細な学習指導計画を立てても、実際に授業が始まれば、教員の「勘」とか、経験に基づく非論理的な暗黙知が授業の結果を左右するのです。つまりいくら学習指導案の精度を増しても、起こり得る全ての状況を想定して、適切な対応を導き出すことは出来ないという考え方です。私の理解が間違っているかもしれませんが、AIによる授業改革は、結局のところ、想定できるケースを極限まで増やしていくという方向で進められるというイメージです。それではダメなのです。
 以前も紹介した事例ですが、研究授業のために数人がかりで創り上げた学習指導案で臨んだ授業当日、窓から飛び込んできたバッタで子供たちが大騒ぎし、大混乱に陥ったままで授業が終わってしまったことがありました。この事態が想定にないからといってAIがフリーズしてしまったのでは、授業を委ねることは出来ません。
 ほんの少しですが、詳細化、緻密化という方向性を目指さない「ダメAI」という発想には、授業改革の可能性を感じます。注目していきたいです。

 

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内なるヘイト

2018-07-15 08:52:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「口に出しては言わないが」7月5日
 京都精華大専任講師白井聡氏が、『ヘイトスピーチとアベノミクス』という表題でコラムを書かれていました。その中で白井氏は、『「アベノミクスによって日本経済は劇的に成長する一方で、中国と韓国は経済崩壊する」(略)こうした当たりもしない予言が物語るのは、これらの書籍は、経済時事本の姿を借りたヘイトスピーチ的言説にほかならない、ということだ。安倍首相の「リーダーシップ」が日本社会にもたらしたものは何であったのか』と書かれていました。
 私も同じ捉え方をしていますが、ここでは、アベノミクスや安倍首相について語るのが目的ではありません。私が述べたいのは、リーダー的な立場の人の価値観や考え方が集団に及ぼす影響についてです。
 安倍首相が、韓国や中国に対して、ヘイトスピーチ的言説を口にすることはありません。もしかしたら、仲間内では口にしているのかもしれませんが、少なくとも公的な場で発言することはありません。当然です。そんなことをすれば、外交問題となり、国益を損なうと共に、国会で野党に批判の材料を与えるようなものです。経験豊富で老練な政治家である安倍首相が、そんなミスを犯すはずがありません。
 しかし、安倍首相の本音がどのようなものであるかは分かりませんが、安倍首相は韓国や中国が嫌いだと考えている人々がいることは間違いありません。安倍首相は、対韓国・中国のヘイトスピーチを繰り返す人々に対し、厳しく非難することがなく、ときには言論の自由をもちだして、擁護するかのような態度さえみせるのですから、本音は韓国や中国叩きを支持していると「誤解」する人々が現れてしまうのです。
 同じように、教員の考え方や価値観は、子供たちに大きな影響を与えます。教員が口では、いじめはいけませんと言っても、本心では「いじめられる方にも悪い点があるんだよな」と考えていれば、長い間には子供たちはその本音を察してしまいます。そして、その学級ではいじめがなくなることはありません。
 教員が、みんな個性がありそれぞれに良さをもっていると言っていても、実際には勉強ができ成績がよい子供を贔屓していれば、子供たちは、勉強が出来ない奴はクズだ、そんな奴は仲間としての価値がない、と排除したり無視したりするようになります。
 自分らしい生き方をするのが大切だと言っていても、教員の指示に従い、教員の意図を忖度する「素直な子」ばかり可愛がっていれば、学級は、気に入られるために型にはまった子供になろうとするグループと、教員に反感をもって反抗するグループとに分裂してしまいます。
 さらに、暴力はいけません、口で話せば分かり合えますという理想を語っても、教員自身が体罰を繰り返していれば、子供たちはもめ事を力で解決するようになっていきます。これ以上書き連ねても同じことの繰り返しなのでもう止めますが、教員がもつ価値観や考え方は、その教員の雰囲気として子供を染め上げてしまうのです。
 だからこそ、教員は、望ましい価値観、それは人権尊重、自由と責任など民主的社会を自認する我が国において重んじられる価値観ですが、そうした価値観を本当に自分自身のものとなるよう自分を創り上げていかなければならないのです。しかし、教員も人間です。実際問題として、様々な偏見や思い込みをもっているものです。どうしても、自分の価値観や考え方、感覚を変えることができないこともあり得ます。そんなときは、自分の望ましくない価値観を外に漏れさせないように、言動に細心の注意を払わなくてはなりません。常に緊張感をもって、です。それすらできないというのであれば、教員を辞めるしかありません。
 もし、自分が受け持っている子供たちの中に、望ましくない価値観や言動が蔓延っているとしたら、まず自分自身の内面を、そして言動の一つ一つを見つめ直すことが必要です。

 

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政府批判だから?

2018-07-14 07:47:06 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「似て非なる」7月4日
 『前川前次官講演 後援断る』という見出しの記事が掲載されました。文科省前事務次官の前川氏が講師を務める講演会の後援申請を、広島県と広島市の両教委が断ったことを報じる記事です。その中に、信じられない記述がありました。2回ほど読み返しましたが、誤報なのではないかと疑う気持ちが消えません。
 申請を断った理由として、『県教委は、「政府に対する批判的発言が目立ち、講演で触れる可能性が高い」』と書かれていたのです。本当なのでしょうか。県教委の認識は間違ってはいません。おそらく前川氏は、現政府が権力の不当な行使によって行政の公平性がねじ曲げられた、という趣旨の話に触れると思われます。前川氏自らが講演内で触れなくても、参加者から加計学園の問題について質問が出され、それに答える形で語られることも大いに考えられるところです。
 それは、安倍政権を構成する政治家や与党である自民党への非難であり、結果として野党への支援に結びつく行為であるという解釈が可能です。おそらく広島県教委も同じように考えたのでしょう。そうだとすれば、『特定の宗教や政党を支持しないとする内部基準に適さない』と言えばよかったのですし、そう言うべきだったと思います。もちろん、その判断に批判はあるでしょうが、内部基準をもちだし、それとの整合性で判断するという論理であれば、それなりに理屈はあり、行政の公平性も保たれることになります。しかし、政府への批判だからダメ、というのでは中国や北朝鮮のような独裁国家と変わらなくなってしまいます。
 一方で、広島県や広島市教委とは異なり、廿日市市教委は、『目的が生涯教育の推進という事業に当てはまる』として後援を認めています。私はこの判断を是とする立場ですが、申請の可否を判断する権限は教委の属し、私の価値観とは異なる判断が下されることについて、異議を申し立てるつもりはありません。行政機関の判断は、最終的には有権者が選挙という機会を通じて評価を下せばよいことですから。ただ、権力への阿りが露骨に見えるような理由を正々堂々と掲げる感覚に首を傾げてしまうのです。我が国が民主的で自由主義の国で有り続けてほしいので。
 蛇足ですが、もし今回の判断が、法改正により教育行政における首長の権限拡大の結果、教委事務局が政治家である首長の意向を忖度した結果だとしたら、制度を変えた弊害はこんなところにも表れているということになります。

 

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ありがとう、でも

2018-07-13 07:45:59 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「ありがとう、そして」7月3日
 竹島一登記者が、『管理より支援を』という表題でコラムを書かれていました。その中で竹島氏は、娘さんが起立性調節障害で苦しんでいらっしゃったときの学校対応を評価しています。一方で、最近の「ネオ文教族」が主導する教育改革を批判し、『政治が教育を語ると、即効性を求めて管理や競争強化に傾きがちで、実際には文部行政も翻弄されてきた。ただ、子どもの発達には先生たちの豊かな経験や専門性を発揮できる環境が必要ではないか。それを支援する政治であってほしい』と書かれていました。
 ありがとうございます、よくぞ書いてくださいました、という気持ちです。私がこのブログを長年続けて訴えたかったことを、竹島氏が明解に書いてくださいました。大手メディアの中にもこんなお考えの方がいらっしゃるのだと、本当に嬉しくなりました。
 私だけでなく、この竹島氏の主張に賛成の方は、一定数はいらっしゃることと思います。ではそういう方々は、「先生たちの豊かな経験や専門性」ということについて、どのようなイメージをお持ちでしょうか。同じ言葉で表現されていても、一人一人が描くイメージは大きく異なっているのではないか、という気がしてなりません。そしてそのことが、「先生たちの豊かな経験や専門性」派の主張が力をもてず、「管理や競争強化」派に負ける理由になっているように思えるのです。
 例えば、「豊かな経験」です。民間企業で学校とは異なる経験をしている人、というイメージをもつ人がいるはずです。あるいは、ボランティアで弱い立場の人により添った経験をもつ人などもイメージされるかもしれません。さらに、カウンセラーやソーシャルワーカー、小児科の医師や看護師など、教員とは異なる立場で子供と接してきた人も望ましい経験者とされそうです。そうした具体的な経歴ではなく、人生に置いて挫折とそこからの立ち直りを経験した人などという考え方もあるかもしれません。
 では、「専門性」についてはどうでしょうか。大学院を出た人、つまり修士や博士の資格をもつ人、あるいは学部卒であれば、国立や早慶上智のような「一流大」卒をイメージする方が多そうです。実際、「今度の先生、早稲田卒なんだって。ラッキー」という保護者の会話を聞いたことがありますし、教員資格を院卒にという提案もありました。同じような発想で、一流の民間企業に籍を置いた人なども人気がありそうです。TOEICの高得点獲得者も一目置かれるケースが多いですし、最近で言えば、プログラマー経験者なども引く手あまたかもしれません。
 こうして並べてみると、要は教員を続けることで身に着けたり高めたりすることができる「経験や専門性」ではないことが共通していることが分かります。逆の言い方をすれば、大学を出て教員一筋というような教員は、あまりよいイメージがもたれていないということです。私は、この一筋派です。だから自己擁護だと言われそうなのですが、敢えて言わせてもらいます。教員に必要な「経験や専門性」のほとんどは、教員として職務を遂行していく中で、OJTによって身に着けるしかないと。
 ノーベル賞受賞者であれば良い理科の教員になれるか、金メダリストであれば良い体育の教員になれるか、直木賞の受賞者であれば良い国語の教員になれるか、音コン優勝者であれば良い音楽教員になれるか、いずれもNOです。
 発展途上国で難民支援をしてきた人、幼児期に虐待を受けリストカットを繰り返した人、臨床心理士として悩みをもつ子供に寄り添ってきた人ならば、子供に優しく接し子供たちと良好な人間関係をつくりつつ規律ある学級をつくることができるか、これも残念ながらNOです。
 考えても見てください。医師でも、弁護士でも、一流のシェフでも、人間国宝の落語家でも、将棋や囲碁のタイトル保持者でも、専門家はみな、その道に精進することで専門家としての地位を築いてきているのです。他の職や分野での経験が何らかの影響を及ぼすことはありえますが、基本はその道における地道な努力なのです。
 民間企業経験者を特別枠で採用する、大学院卒を待遇面で優遇する、こうした「ネオ文教族」が推進してきた政策には、専門性に対する間違った認識があったのです。彼らだって専門性不要とは考えていないはずなのですから。ですから、教員の専門性について、きちんとした共通理解なしに、竹島氏の主張に賛同しても、結果としては逆の方向性を支持する側にまわっていたということになってしまう可能性があるのです。
 スクールカウンセラー制度が始まったときから存じ上げている臨床心理士の女性は、自分のカウンセラーとしての専門性には確固たる自信をもち、学校側に対してしばしば耳に痛いことも言われましたが、その一方で、「私には、30人以上の子供に同時に目を配り、集団を管理していく学級担任の仕事は絶対に出来ない」とも言っていました。本当の専門家は、多分野の専門家の存在意義と価値を知っているのです。人間を教え導く仕事だから教員には人間性が大事というようなことを言う人は、教員の専門性を理解していない人なのです。

 

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残念ながら必要です

2018-07-12 07:45:24 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「要ります」7月2日
 論説委員福本容子氏が、『その塀、ホントに要る?』という表題でコラムを書かれていました。その中で福本氏は、大阪北部地震における小学校のブロック塀倒壊に触れ、『地震の時危ない、という当然すぎる話ではなく、そもそもなぜ塀を立てるのか、という問い』について検討する必要性を指摘なさっています。
 そして外国での調査研究結果を援用し、『危険な人物を排除するつもりが、本来、監視の目となってくれるはずの多数の善良な住人との間にまで心のバリアーを築いてしまう』という塀の問題点を明らかになさっています。犯罪防止には、外から見える柵や生け垣のほうが効果的であるというのは、我が国でも、警察などが明らかにしています。私もそうだと思います。
 しかし、学校においては、高く目隠しになる塀は要るのです。私が教員として勤務した学校では、プールに隣接する家の住人から騒音についての苦情が出されました。そのご家庭には寝たきりの病人がおり、プールが使用される夏の暑い時期は窓を開け、自然の空気を取り込むながら、静かに寝かせたいのに、子供の声がうるさいということでした。
 教委からの指示を受け、プールでは一切声をあげないということを徹底し、私の長年の教員生活でも「異様」なくらいの静けさの中で授業を行いましたが、それでも苦情の電話は1日に何回と、教委にも学校にも掛かってきました。最終的に、その一軒のためだけに100万円以上の工費をかけ、防音壁が設置されました。
 保育園が騒音公害の発生源とされる時代です。葬式のように静かなプール、そんな異様な光景を避けるためにも、近隣住民との摩擦を避けるためにも、これからも高い塀が必要とされる地域は少なくないはずです。
 そしてもっと厄介なのが、女の子の水着姿の盗撮対策です。学校は、通常の体育の授業や運動会、体育祭などでも盗撮対策には気を遣わされています。まして、体操着とは違って「露出」の多い水着姿は、盗撮の被写体として狙われやすいのです。プールが道路に面していれば、怪しまれない程度の短時間車を止めて、車内から数十枚の写真を撮ることは簡単なことです。向かい側にマンションがあれば、それが低層であっても、望遠レンズで撮影が可能です。
 もちろん、どんなに高い塀を築いても、スパイ映画にでてくるような超高性能の望遠機能付きのカメラやビデオであれば撮影されてしまうでしょうが、そこまで考えるのは現実的ではありません。学校としては、女の子をもつ保護者が不安を感じない程度の高さの塀を設置することには、それなりの理由があるのです。特に近年、女児を性的対象とした犯罪が報じられるようになり、保護者の危機意識は高まるばかりなのですから。
 全ての学校で温度調節機能付きの室内プールが完備され、体育の授業を行う校庭が、校舎に囲まれた中庭にならない限り、学校における高い塀は役割を終えることは難しいのです。悲しいですがそれが現実です。

 

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