ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

AI先生

2018-07-16 08:04:12 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「AI先生」7月5日
 『ダメAIは良き相棒!?』という見出しの記事が掲載されました。米エール大の研究について報じる記事です。記事によると、『あえてトラブルを引き起こすAIの研究』だということで、『ドラえもんが完璧でないからこそ、のび太君が奮闘する場面が生まれるように』というたとえで説明されていました。
 まだ分かりにくいですね。そこで、記事では具体例として、『夫婦げんかの仲裁も、真剣な話し合いを勧めるAIより、間の抜けた冗談を言って笑わせるAIの方が怒りを吸収し、仲直りを早める』『AIがたまに無駄なブレーキを踏むと、(自動運転車)の運転手が警戒し、かえって事故を減らせる』があげられていました。現在、多くのIT企業の関係者が同大を訪れているそうです。
 記事は、『「ダメAI」に活躍の余地があるのは、社会の複雑さと人間心理の不思議さ故だろう。それが研究者の好奇心を刺激している』という言葉で締めくくられていました。私はこのブログで、AIを活用した授業改革について、否定的な見解を示してきました。統計的なデータ処理による改善効果が一定程度あることは認めても、教員の代役を果たすことはできないという立場でした。それは、AIによる授業改革で紹介されるAIは全て「完璧AI」であり、「ダメAI」的な要素が感じられなかったからです。
 私は、授業という営みは理屈通りには行かない複雑さをもち、子供の興味・関心・意欲の移り変わりも、不思議な生き物のように変化していくものだと考えています。だからこそ、いくら詳細な学習指導計画を立てても、実際に授業が始まれば、教員の「勘」とか、経験に基づく非論理的な暗黙知が授業の結果を左右するのです。つまりいくら学習指導案の精度を増しても、起こり得る全ての状況を想定して、適切な対応を導き出すことは出来ないという考え方です。私の理解が間違っているかもしれませんが、AIによる授業改革は、結局のところ、想定できるケースを極限まで増やしていくという方向で進められるというイメージです。それではダメなのです。
 以前も紹介した事例ですが、研究授業のために数人がかりで創り上げた学習指導案で臨んだ授業当日、窓から飛び込んできたバッタで子供たちが大騒ぎし、大混乱に陥ったままで授業が終わってしまったことがありました。この事態が想定にないからといってAIがフリーズしてしまったのでは、授業を委ねることは出来ません。
 ほんの少しですが、詳細化、緻密化という方向性を目指さない「ダメAI」という発想には、授業改革の可能性を感じます。注目していきたいです。

 

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