ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

Mさんのケース

2018-07-11 07:34:19 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「悪い意味でお役人」7月2日
 読者投稿欄に、東京都立川市の中学生M氏の『1人からの継続的な嫌がらせ』というタイトルの投稿が掲載されていました。投稿には、小学校1年生のときに3週間続けて、何回も消しゴムを隠されたMさんが、そのことを教員に告げ、同じクラスの1人の女の子が「犯人」だと判明したということが書かれていました。
 驚くのはその後の展開です。『私はそのことがとても悲しくつらいと感じました。でも、これはいじめではないというのです。いじめは、たくさんの人数で1人を一方的に痛めつけることだからだと』。文脈から見て、担任の教員に言われたようです。いじめについて防止対策推進法で、その定義が明確にされたのは、今から5年程前です。M氏の正確な学年が分からないのではっきりとしたことは言えませんが、Mさんが「いじめ」に遭ったのは、6~7年前と考えられ、法制定に向けて議論が行われていた時期と合致します。
 つまり、いじめについて、行政の論理での対応が進められようとしていた時期なのです。「行政の論理」について、私はこのブログで何回も繰り返してきました。要約して言えば、ある基準を設定し、その基準を物差しとして事象を一律に判定し対応することで、不公平さをなくすということです。生活保護の基準などを例に考えていただければ、理解してもらえると思います。こうした対応は、担当者による恣意的な対応を排除し、誰もが公平に扱われるというメリットがある反面、硬直的で融通が利かないと批判されることもあります。しかし、多少の批判はあっても、行政における公平性は何よりも大切な価値であり、私はこの行政の論理を否定するものではありません。もし、担当者の恣意的な対応を是認してしまえば、あの人は優しいからあの人が窓口にいるときに申請に行こう、というような行為が横行することになり、制度の趣旨が歪められてしまうでしょうから。また、個人の裁量範囲が大きくなるということは、発展途上国型の汚職が横行する原因ともなりかねません。だから、行政は基準に基づいて機械的に対応するものであり、それが「行政の論理」です。
 一方、いじめ問題については、行政の論理ではなく教育の論理で対応すべきだというのが私の主張です。それは、「デブ」と言われたからいじめ(あるいはその程度はいじめではない)と基準を設け機械的に判断するのではなく、当該児童が苦痛に感じたらいじめがあったという前提で対応を始めるということです。私は、いじめ問題について、「行政の論理」で対応しては、被害者は救われないと主張してきました。
 「あなたは辛いと言うけれど、文科省の基準では、それはいじめではない、したがってあなたの苦情は受けつけられない、あなたは他人の言動に対して過敏なのではないか」という対応を教員にされれば、せっかく勇気をもって告白した子供は絶望にかられるのは必至です。そして、Mさんのケースは、まさしく教員が、いじめ定義を機械的に当てはめてしまった事例だと思われます(なお、法による定義には、加害側の人数についての定めはないが、一般的には加害側は複数が想定されている)。
 いじめ問題への対応は被害者の立場に立って個別に判断する、この原則こそが全てであることを改めて確認したいと思います。

 

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