goo blog サービス終了のお知らせ 

ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

Mさんのケース

2018-07-11 07:34:19 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「悪い意味でお役人」7月2日
 読者投稿欄に、東京都立川市の中学生M氏の『1人からの継続的な嫌がらせ』というタイトルの投稿が掲載されていました。投稿には、小学校1年生のときに3週間続けて、何回も消しゴムを隠されたMさんが、そのことを教員に告げ、同じクラスの1人の女の子が「犯人」だと判明したということが書かれていました。
 驚くのはその後の展開です。『私はそのことがとても悲しくつらいと感じました。でも、これはいじめではないというのです。いじめは、たくさんの人数で1人を一方的に痛めつけることだからだと』。文脈から見て、担任の教員に言われたようです。いじめについて防止対策推進法で、その定義が明確にされたのは、今から5年程前です。M氏の正確な学年が分からないのではっきりとしたことは言えませんが、Mさんが「いじめ」に遭ったのは、6~7年前と考えられ、法制定に向けて議論が行われていた時期と合致します。
 つまり、いじめについて、行政の論理での対応が進められようとしていた時期なのです。「行政の論理」について、私はこのブログで何回も繰り返してきました。要約して言えば、ある基準を設定し、その基準を物差しとして事象を一律に判定し対応することで、不公平さをなくすということです。生活保護の基準などを例に考えていただければ、理解してもらえると思います。こうした対応は、担当者による恣意的な対応を排除し、誰もが公平に扱われるというメリットがある反面、硬直的で融通が利かないと批判されることもあります。しかし、多少の批判はあっても、行政における公平性は何よりも大切な価値であり、私はこの行政の論理を否定するものではありません。もし、担当者の恣意的な対応を是認してしまえば、あの人は優しいからあの人が窓口にいるときに申請に行こう、というような行為が横行することになり、制度の趣旨が歪められてしまうでしょうから。また、個人の裁量範囲が大きくなるということは、発展途上国型の汚職が横行する原因ともなりかねません。だから、行政は基準に基づいて機械的に対応するものであり、それが「行政の論理」です。
 一方、いじめ問題については、行政の論理ではなく教育の論理で対応すべきだというのが私の主張です。それは、「デブ」と言われたからいじめ(あるいはその程度はいじめではない)と基準を設け機械的に判断するのではなく、当該児童が苦痛に感じたらいじめがあったという前提で対応を始めるということです。私は、いじめ問題について、「行政の論理」で対応しては、被害者は救われないと主張してきました。
 「あなたは辛いと言うけれど、文科省の基準では、それはいじめではない、したがってあなたの苦情は受けつけられない、あなたは他人の言動に対して過敏なのではないか」という対応を教員にされれば、せっかく勇気をもって告白した子供は絶望にかられるのは必至です。そして、Mさんのケースは、まさしく教員が、いじめ定義を機械的に当てはめてしまった事例だと思われます(なお、法による定義には、加害側の人数についての定めはないが、一般的には加害側は複数が想定されている)。
 いじめ問題への対応は被害者の立場に立って個別に判断する、この原則こそが全てであることを改めて確認したいと思います。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特殊事例の一般化

2018-07-10 07:54:22 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「ずれた発言」7月2日
 『中2運転の車大破 1人死亡、4人重軽傷』という見出しの記事が掲載されました。『中学2年の男女5人が乗った乗用車が中央分離帯に乗り上げ、金属製ポールに衝突し大破した(略)無免許の中学生だけで乗車していた』という事件について報じる記事です。
 記事の中に、『亡くなった生徒のご冥福をお祈りいたします。あってはならない事故であり重く受けとめております。子どもたちの規範意識の向上に取り組んでまいりたい』という岡山市の菅野和良教育長のコメントが紹介されていました。私は、とてもおかしな発言だと感じました。
 今回の事件は、無免許で、当然のことながら運転経験も乏しく、技術も未熟な者が、そのことを軽視し、一つ間違えば無辜の市民を巻き添えにして大量の死傷者を出すかもしれなかったという極めて悪質な危険運転、犯罪行為です。そして、自分の子供が無免許で、自分が所有する車を乗り回すという行為を黙認していた保護者の無責任ぶりが断罪されるべき事案でもあります。さらに、事件の発生が、休日の早朝という、学校管理下ではない時間帯なのです。特別な子供たちのグループと、異常な保護者の組み合わせで起こった特殊な事件であり、岡山市立の中学校に通う一般的な生徒の規範意識の低下が問題となるような事件ではないはずなのです。
 この教育長は、「立派な」教育者なのかもしれません。しかし、市の教育行政を司る立場の人間が、このようなコメントを発すると、「そうだよね。やっぱり学校には、きちんと善悪を教え込んでもらわないと」などと考える市民が増えてしまいます。それは、家庭や地域の担うべき責任を、学校に負わせて、それを当然だと考える風潮を強めてしまうのです。
 中2の生徒が、無免許運転がいけないことであると知らなかったはずはありません。交通事故の悲惨さについても、どこまで実感を伴っていたかは分かりませんが、十分に理解していたはずです。事故の恐ろしさについて実感がないのは自己を体験したことにない大人も同じであり、その理解や認識は、成人とほぼ同じレベルであったはずです。中2の生徒100人に自分たちが無免許で運転することについて訊けば、100人が揃って、「いけないこと」「危険なこと」「他人を巻き込む可能性があること」について答えることができるはずです。それでよいのです。学校が出来るのはそこまでです。
 学校はあるレベルまでの規範意識を植え付け、その上で放課後や休日の問題行動については、良識ある家庭や地域の方々に委ねるというのが当たり前の姿なのです。中2の我が子が自分の車を持ち出して運転するという行為を黙認する異常な保護者を想定してその対策にまで責任をもつなどという感覚では、学校はパンクしてしまいます。教育長には、「学校では生徒に規範意識の醸成について十分な取り組みをしてきた。もちろん、再度各校における指導の実態について点検はするが、今回の事件については基本的に家庭と保護者の問題であると考えている」と述べ、家庭の責任について意識喚起を図ってほしかったと思います。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰かがすでに

2018-07-09 07:20:24 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「もう既に」6月30日
 『終盤パス、パス、パスの10分間 戦略かひきょうか』という見出しの記事が掲載されました。サッカーW杯対ポーランド戦、日本代表チームが、『負けていながら後方で10分以上ボールを回して時間を稼いだ』ことに対する様々な見方を報じる記事です。もう既にいくつもの学校で行われていると思いますが、これは、道徳の授業で取り上げる絶好の教材になります。
 子供の関心は高いですし、記事にあるように様々な考え方が可能な素材だからです。ある程度の経験と指導力がある教員であれば、「これは使える」と咄嗟に思うはずなのです。しかし、使えそうという直感だけで授業に臨んではなりません。いろんな意見が出やすそうだから、と「サッカーのポーランドとの試合について、どう思いますか」と漠然とした質問を投げかけて授業を始めては、初めこそ活発に発言が続くかもしれませんが、焦点がぼけ、論点がかみ合わなくなり、子供の意欲も萎んでいってしまう、ということになりがちです。大切なのは、教員が、学習指導要領が示す内容のどの項目に準拠して授業を計画するか、明確に意識していることです。
 小学校道徳の学習指導要領高学年を基に考えてみると、自分との関わりの中の、「より高い目標を~」「自分の特徴を知り~」が考えられます。前者は、単に目の前の試合に全力を尽くすというのではなく、W杯での決勝トーナメント進出という高い目標の達成から見て、という視点になります。後者は、自分たちのチームが相手と比べて実力的に劣るという自己認識に基づいた行動、という見方で話し合うことになるでしょう。
 また、人との関わりの中で、「信頼」をテーマに選べば、11人のフィールドプレーヤー全員の意思統一が求められる状況を理解した上で、ブーイングに一丸となって耐えるという部分に焦点を当てることが考えられます。少し毛色は違いますが、試合後の様々な意見そのものに焦点を当て、異なる意見を尊重するということを実際に話し合いを通して体験的に考えさせるというのもあり得ます。
 もちろん、私よりも発想豊かな教員であれば、もっと違う斬り込み方もあるでしょう。いずれにしても、腕の振るい甲斐のある素材です。様々な事情で実践できない教員も、せめて学習指導案を立ててみるくらいのことはしてほしいと思います。それは、道徳の授業の仕方について一つのヒントを得る貴重な経験となるはずです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女性の苦しみを女性が理解しない

2018-07-08 08:29:31 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「意外な壁」6月29日
 『性への配慮 時代遅れの学校 発達の早期化とマッチせず』という見出しの特集記事が掲載されました。記事によると、プ-ルシーズンを迎え、『たとえ体に合わなくても、学校指定の水着を着用するのが基本というルール』が問題になっているということです。記事では、『動きやすさを重視しているのかペラペラなんです。胸にパッドを入れる部分がないし、パッドを縫い付けるのも相当難しい』という4年生の女子児童の母親の声を紹介しています。また、水着だけでなく、体操着についても、『肌着を着ていると汗でぬれてしまうので、着るなと指導されているようで…。4年生まで男女同室で着替えているのに、上半身裸になっていたなんて』という母親の疑問の声が掲載されていました。
 よく分かります。特に小学校高学年の女子児童において、水着や体操服についての十年一日のごとき対応が問題となっています。私は教員時代に高学年を担任することが多かったので、その切実さがよく分かるのです。これは、30年以上前から続いている問題なのです。
 今でも覚えていることがあります。新しく異動してきたベテランの養護教員が、体育時の下着着用禁止を言い出したのです。理由は汗をかいて冷えるから、でした。彼女は自分の専門分野である「児童の健康」という視点から強く主張し、それが学校としてのルールになりました。学校のルールですから、保護者に周知しなければなりません。当時6年生の担任であった私は、保護者会でこの話をしました。
 正直なところ、まだ30代半ばだった私は、この手の話を母親たちの前でするのは苦痛でした。案の定、私の話が終わると、保護者からは質問が相次ぎました。別に自慢するわけではありませんが、その学級の子供と私の関係は上手くいっており、保護者との関係も比較的良好であったと思います。ですから、初め保護者から出されるのは控えめな疑問の提示という形でしたが、女子児童の保護者は全員呆れかえっているようでした。何しろ、養護教員の指示は、ブラジャーも禁止というものでしたから。
 初めは抑制的だった保護者たちが、話し合ううちに段々と興奮してきて、鋭い非難に変わってきました。私は、独断で、「私もみなさんのおっしゃるとおりだと思います。うちのクラスでは、下着の着用を認めたいと思います。養護の先生とは6年生の学年主任としてもう一度話をしてみますが、結論が出るまでの間も、下着着用で構いません」と宣言してしまいました。
 私は元々、養護教員の提案には反対でしたが、職員会議では、他の教員から特別意見もなく(低学年の担任にとっては関心の低い事項だったのかも)、校長も何も言わなかったので、敢えて波風を立てるまでもないかと軽く考えてしまったのでした。恥ずかしながら、私も当時はその程度の認識だったのです。
 これも自慢ととられてしまいそうですが、私は管理職からの信頼も厚く、校内には私を支持してくれる仲間(派閥)もいましたので、養護教員に話し、校長にも働きかけてもらって、彼女を説得しました。その結果、学校の基本方針としては下着を着用しないということだが、個人の状況により担任が認めてもよいという形、つまり彼女の顔を立てつつも実際には骨抜きにするという解決に至りました。
 指導主事になって人権教育を担当するようになってみると、この体操着や水着の問題は、紛れもない「子供の人権侵害」であると断言できるようになりましたが、当時の私はまだそこまで意識が高くなかったのです。しかし、その状態が30年後の今も続いているのは学校関係者の怠慢であり、恥でしかありません。学校関係者には、早急に改善を図る責務があります。
 そのこととは別に、当時に私が感じた違和感について言うと、同じ女性である養護教員が下着着用禁止に伴う女子児童たちの苦痛に思いが至らなかったことです。私が考えた、年頃の女の子は恥ずかしいだろう、というのはそんな経験のない男性が頭で想像しただけのことです。しかし、女性である養護教員は、自分自身の体験として、恥ずかしさを実感として分かっていたはずだと思うのです。それなのにどうしてそんなおかしなことが言えたのか、本来ならば女子児童たちも最もよき理解者として、女児の気持ちが分からない私のような男性教員を説得しなければならなかったはずの彼女がどうして、という疑問が今でも消えません。
 そんなことではいけないことは分かっていますが、実際問題として、水着や体操着の問題は、男性教員にとっては自分が口火を切って話題にしにくいものです。女性教員の皆さんはこの問題を放置しないでほしいと思います。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

事業継続が目的に

2018-07-07 08:19:45 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「肯定すべきこと?」6月28日
 『給食に肥満減少効果』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『学校給食が思春期の肥満を減らすのに役立っている』という分析結果が出されたそうで、『給食は子どもの欠食や栄養不良への対策で始まったが、(研究)グループは「現代では肥満対策に意義が変わってきている」と指摘する』ということだそうです。
 記事の最後は、『給食が好き嫌いを減らしたり、健康的な食生活を教育したりするのに役立っているのではないか』という言葉で締めくくられています。気になったのは、最後の言葉に象徴されるように、記事全体を貫く肯定的なトーンです。ある制度や事業は、目的を明らかにし、その目的達成に資する具体的な効果を想定して創設されたり計画されたりします。そして、その使命を達成したときには、廃止されるか、新たな目的を設定して新事業に衣替えされるかというのが、正しい事業評価であり、制度運営です。
 学校給食制度も例外ではありません。「欠食や栄養不良への対策」という事業目的が、達成されたのであれば、廃止されるか、新たに別の目的のために再編されなければなりません。しかし、学校給食について、こうした議論が本格的に行われたことはありませんでした。確かに学校給食はその使命を終えたという指摘がなされたことや、一部の自治体でレベルで事業の廃止が提案されたことはありましたが、国民全体レベルでの議論はありませんでした。自治体レベルで廃止が議論されたときにも、事業目的からの評価ではなく、保護者の利便性、つまり子供の昼食を家庭で用意するのは大変だからという点ばかりがクローズアップされたのでした。
 現在の我が国の学校制度は、戦後形作られました。義務教育は、戦災による被害状況が多様である中で、全国同じ内容や水準の授業が行われることを目指しました。つまり、画一性の重視です。それがいつの間にかなし崩し的に、学校ごとの特色ある教育活動重視に変わってしまいました。学校給食も、栄養不良への対策から肥満対策へと変わろうとしているわけです。時代の変化と共に、制度や事業の位置付けが変わることは悪いことではありません。ただし、それはきちんとした議論を踏まえることが前提になります。
 それなのに、我が国では、議論なしに、当初は想定とは別の面で意外な効果があることが確認されたから、その制度や事業は微調整して継続していこう、という形に陥りやすいのです。こうしたやり方は、変化にスムーズに対応できるというメリットがある反面、関係者の利害、既得権益の維持のために古い制度が残存し、事業がダラダラと続けられるという弊害もあるのです。学校給食制度を廃止すれば、職を失う人や事業継続が難しくなる企業などが発生します。そうした人や企業への「配慮」は必要ですが、配慮のために不必要な事業に公費が投入され続けるというのはあってたはならないことです。
 学校給食制度について、創設の趣旨、目的に達成状況、派生的な効果、事業継続のデメリット等を整理して議論を公開し、結論を出すべきなのです。学校給食のデメリットは、再三このブログで取り上げてきましたので、ここでは繰り返しませんが。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鶏か卵か

2018-07-06 07:10:38 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「一貫した考え方」6月27日
 『「産まない方が幸せ、は勝手」 自民二階氏配慮欠く発言』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、二階氏は、『この国の一員として、みんなが幸せになるためには、子供もたくさん産んで、国も栄え、発展していく方向へ行くようにしようじゃないか』とも語ったそうです。
 この発言に対して国民民主党共同代表玉木雄一郎氏は、『特定の家族観や考え方を押し付けるのは時代錯誤だ』と批判したと書かれています。玉木氏の指摘はその通りだと思います。ただ、私は、玉木氏の発言にある「特定の考え方」について、もう少し考えてみたいと思います。
 二階氏の発言の根底にあるのは、国家のための個人という考え方です。夫婦としての幸せと国家を支える一構成員としての幸せが一致しているときは問題は生じませんが、両者が相反するときには、国家を支える構成員としての幸せを優先すべきだという考え方なのです。平たく言えば、国や所属する集団のために、ということを優先させるべきということです。
 こうした考え方は、子供を産む産まないという問題だけではなく、実は学校教育を巡る議論においても、根本的な対立軸として存在しているのです。現在の政府や経済界からは、人材育成という視点から学校教育を語ろうとする傾向が強く見られます。
 ボーダレス化が進み、国家間の競争に勝ち抜かなければ、経済発展はあり得ず、経済発展がなければ、医療も社会保障も現在の水準を維持することはできなくなり、結果として国民、特に医療や福祉を必要とする社会的弱者がその弊害を受けることになるので、みんなが幸せに暮らすためには、学校教育で優れた人材を育てることが必要なのだ、という論理です。
 一方で、学習者としての子供の幸せに焦点を当てて考える立場があります。この立場からは、子供が日々の学びを苦痛に感じることなく、新たなことを知る喜び、昨日まで出来なかったことが出来るようになる達成感や満足感を味わい、自分の成長を実感できることを学校教育のあるべき形として想定することになります。もし、全ての学校でこうした学びが現実のものとなれば、子供は意欲的に学び、自ら考え問題を解決しようとする姿勢が身につき、結果として創造性に富んだ人間に育ち、それはそのまま今の社会が求めている人材像と一致していくということになります。
 つまり、どちらの発想によるにしろ、学校教育が成果を上げていけば、国家の繁栄と人々の幸せが実現するという結果に落ち着くのです。しかし、個々の問題への対応や中短期的な個々の政策においては、この二つの立場は、対立し、ときとして正反対の方向性をみせるのです。不幸なことにこの対立は、保守とリベラル、国家主義と人権主義など、政治的な対立と重なる部分が多く、そのことが両者の融和や妥協を難しくしている側面があります。
 私は保守派ですが、教員や教委幹部として子供の身近にいた者としては、学習者としての子供を重視する立場です。そこで、いつも股割きに遭ったような居心地の悪さを感じてしまうのです。あるいは、論旨が一貫しないような印象を与えてしまうのかもしれません。
 学校は何のために、こんな素朴で単純なことこそ、実は共通理解が難しいものなのです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

よく考えれば分かったはずなのに

2018-07-05 08:05:43 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「日本式」6月26日
 女優とよた真帆氏が、『伝統の世界に新風を』という表題でコラムを書かれていました。その中で、京友禅の絵師でもあるとよた氏は、『西洋の油絵は人物やモノを形作る輪郭線がないのが普通ですが、日本画にはあるんです。私の絵は、輪郭を金色のペンなどで描きます』と述べています。
 恥ずかしい話ですが、私はこのことを知りませんでした。以前、私はこのブログで、絵画教室に通う小学生の投書を取り上げたことがあります。「通っている絵画教室では自由に描かせてくれるのに、学校の図工の授業では輪郭線を描きなさいと言われる。線で囲まれたものや人なんかないのに」と、学校の授業の硬直性を非難する内容でした。
 私はこの投書を取り上げ、学校の授業は学習指導要領に基づいて行われ、どの授業も身に着けさせたい技能や知識をねらいとしてもっており、その授業のねらいを把握することのないままに批判することは適当ではない、という趣旨の内容を書きました。
 この学校の図工の授業「擁護論」は、いわば形式的なものであり、輪郭線の意味について論じたものではありませんでした。正直に言うと、私自身、輪郭線には表現としての絵という視点からはあまり意味がないのではないかと考えていたからです。しかし、とよた氏によれば、日本画(これも立派な絵)では、輪郭線を描くというのです。
 このコラムを読んでから、思い立って義父の描いた水墨画の掛け軸をよく見てみました。亡くなった義父の遺品として、義父が習作として初めて描いた水墨画です。当然、技術的には拙いものですが、それだけに筆の跡を辿ることができました。輪郭線はありました。
 また、私が小学生の頃、図工専科だったK教員の授業において、水で薄くのばした黄色の絵の具で輪郭線を描くという手法で絵を描いたことがあったのを思い出しました。その技法で描いた絵で、私は区の絵画展で入賞し、賞状と賞品をもらったのでした。ですから、もう少し、自分の経験や身の回りのことに気を配っているだけで、輪郭線について問題意識をもち、調べてみることができたはずであり、そうすればより内容のある文章になったはずだったと思います。
 私はこのブログで、授業について様々な視点から論じてきました。授業分析の専門家だという自負があったからです。しかし、小学校の学級担任であった私は、音楽や図画工作の授業については、経験が乏しく、学習過程や教材の選択、学習環境、評価と助言などからの分析はできても、教科の専門的な内容については詳しくありませんでした。今回改めてそのことを痛感しました。
 もっとも、学習過程や教材の選択、学習環境、評価と助言などからの分析に基づいた批評はこれからも続けていくつもりですが、それに平行して内容についての「素人」ならではの疑問も提起していくつもりです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無定見の勧め

2018-07-04 07:58:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「固定化こそが問題」6月24日
 総合研究大学院大学長長谷川眞理子氏が、『心地よい二分法 「熟慮」奪い去ったネット』という表題でコラムを書かれていました。その中で長谷川氏は、『人間にとって、そもそもいろいろなものを二つのカテゴリーに分ける方が、心地よいのではないだろうか(略)しかし、そこをなんとかというか、いやでもじっくり考えねばならないという「良識」があった。少なくとも少し前までは』と述べています。そして、『これを大きく壊したのがネットだろう』と続けています。
 そしてネット社会の特質として、『長々とした説明は不人気、単純明快な主張で人々に二分法を押し付ける。というか、二分法であっさり決着をつけたいという人々の本来の欲望に、すっかり乗っかている』を指摘し、その行き着く先に懸念を示していらっしゃいました。全く同感です。白か黒か、敵か味方か、善か悪か、きっぱりと決めて自分の立場を明確にすることが正しいというような風潮にはうんざりします。
 こうした風潮は、子供の世界にも及んでいます。もともと子供は大人に比べて論理的に考える能力や多面的に考察する能力が十分でなく、単純な二分法を好む傾向があります。例えば、子供ならではの正義感というものがあり、悪いものには罰を与えるべきと考え、忘れ物をした子供をみんなで叩くというような過重な罰を容認してしまうのも、子供の特徴です。ですから、子供を成長させるということは、単純な二分法的思考から多面的に考える姿勢を身に着けさせることだと言ってもよいくらいなのです。
 しかし、そうした発達段階を考慮してもなお、近年、子供たちの二分法的傾向は強まっていると思えるのです。私が特に懸念しているのが、二分法的評価の固定化です。昔の漫画にはよくこんなシーンが登場しました。お互いに虫の好かない奴と思っていた者同士が、あるきっかけで、例えば殴り合いのケンカをしたとか、絶体絶命のピンチを救ってくれたとか、をきっかけにお互いを見直し親友となっていくというようなシーンです。
 実際にこんなことは滅多にないはずですが、漫画や小説、ドラマなどに多く取り入れられていたのは、そうなったら素晴らしいという憧れがあったからだと思います。つまり、悪いと思っていた奴にも、それまで気付かなかっただけでよいところがあるという考え方が支持されていたのです。
 しかし今は、ダメな奴はダメ、嫌いな子は嫌い、最下層の子はいつまでも最下層、というのが当たり前になっているような気がします。学級であれ、部活であれ、子供社会が、一度何らかのレッテルを貼られたら、その集団内にいる限り、そのレッテルをはがすことはできないという固定社会になってきているのではないでしょうか。そのことを肌で感じているから、いじめ被害者は前途に絶望し、以前よりも早い時期にいじめから抜け出すことを諦め、自殺という最悪の選択そしてしまうようになったのではないでしょうか。
 いじめ自殺が増えてきているのは、いじめ件数の増加や個々のいじめの深刻化もありますが、二分法でいじめられる側に位置付けられてしまうと長期間脱出不可能という絶望感が背景にあるように思えてならないのです。単純で一面的な二分法が幅を利かす社会は、敗者復活を許さない絶望社会だということです。
 長谷川氏が指摘するとおり、二分法好きは人間の本能だと思います。容易に変えることはできないでしょう。ですからせめて、二分法的評価を短い期間で見直し更新していくという姿勢を身に着けさせることを目指すべきなのではないかと考えるのです。Aさんは嘘をついたから×、その後Aさんが下級生の面倒を見ていたから○、そして今度はAさんが約束を破ったから×、またまたAさんが掃除をまじめにしていたので○というように、一面的でも単純でも、評価がころころ変わる方が健全だという考え方です。
 二分法的発想自体よりも、その評価が固定化する方が弊害は大きいと思います。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

優しい人に、という圧力

2018-07-03 07:49:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どこまでがOK」6月24日
 放送タレント松尾貴史氏が、『SNSの「炎上」 正義の仮面をかぶってやってくる嫉妬』という表題でコラムを書かれていました。その中で松尾氏は、『(大阪北部)地震の数時間後に、ある女性タレントがインスタグラムでいわゆる「自撮り」写真を掲載し、「道が混んでてつかないー。困りました」とコメントを書き込んだら、「不謹慎過ぎます」「削除しろ」「交通渋滞以上に困っている方たくさんいらっしゃると思います」「空気読めや」などの批判コメントが続々と寄せられた』という「事件」を紹介し、『「空気読め」という言葉に象徴される、どこかで不幸が起きた時に、全国民が謹慎、自粛しなくてはいけないという強迫観念にも似た同調を強いるムードは、すこぶる不健康だと感じる』と述べていらっしゃいます。
 全く同感です。私もこのブログで、東日本大震災のときの過剰な自粛ムードを批判したことがあります。しかし、そう考える一方で、個人としてではなく、学校の教員の場合、どうなんだろうと考えさせられてしまいました。
 例えば、全校朝会で、校長が大阪北部地震で9歳の女児が亡くなったことを伝え、多くの夢や希望を実現することなく亡くなった幼い命への哀悼の意を示した後、教室に戻る途中、Aさんが、「一昨日、ディズニーシーに行ったんだけど、暑くて参っちゃった。でも、その分アイスは美味しかったよ」と大きな声で友人に話しかけていたとします。それを聞いたBさんが、「大変な地震があって死んだ子もいるのに、そんな話しないでよ」と非難したという状況を想定します。
 教員は何と言えばよいのでしょうか。もちろん、無視しているという選択もあり得ますが、Bさんから「ねえ、先生、そうでしょ」と同意を求められたとしたら、無視し続けるわけにはいきません。そのとき、Bさんの主張に同意すれば、教員は、松尾氏が非難する「過度に同調を強いるムード」に加担したことになります。しかし、学校の雰囲気や教員の文化を知る私からすれば、多くの教員は、消極的に、曖昧さを残しながらBさん側寄りの言動をとるはずです。教員の多くは、生命の尊さ、弱者への精神的連帯というような「美しい概念」への共感性が強いという傾向をもっているからです。
 そして、こうした教員の傾向は、実は、保護者や世間の人の多くが教員に対して期待していることでもあるのです。保護者に「我が子には、どのような人に育ってほしいか」と尋ねると、「優しい思いやりのある人」という趣旨の答えが返ってくるケースが多いのです。そして「優しく思いやりがある」人は、災害や不慮の事故に遭った人に対して、涙を流し、可哀想だとつぶやくような行動をとるというイメージがあるのです。つまり、Aさんのような子供像ではなく、Bさんのような子供像です。当然、教員にはBさんを支持することを期待するということになるのです。
 もし、教員が、「亡くなった子供は気の毒だけど、だからって楽しいことを我慢する必要はないよ」などと言えば、とんでもない教員として、噂が広まってしまうでしょう。臍曲がりで、変わったタイプの教員であり、指導主事であるといわれていた私でも、Aさんタイプを認めることは、少し覚悟が必要でしょう。
 つまり、松尾氏が問題提起した、過度の同調圧力というのは、学校がその原因の何割かを担ってきているのです。学校や教員が変わるのは容易ではないと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多分野専門家

2018-07-02 07:41:22 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「求められるならば」6月23日
 『論点 大川小高裁判決』では、二人の専門家がインタビューに答えていました。京都大大学院法学研究科教授潮見佳男氏は、『画期的な判決』と評価し、『重要なのは、校長らの情報収集分析義務を認めた点』だとしています。分かりやすく言うと、『研究調査や情報収集の義務をきちんと尽くしていれば事態を予測できたケースは、「結果の予見可能性」があったと判断』してよいということで、大川小の件については、校長らはこの「情報収集分析義務」を怠っていたので過失が認められるという論理構成を評価し、判決を肯定的に捉えているということです。
 一方、宮城教育大教授田端健人氏は、『校長らに「住民の平均よりはるかに高いレベル」の知識や経験を求めた』として、判決に疑念を抱いています。田端氏は、『防災担当の市役所職員から「計算上、津波は越してこない」と言われて、校長らが一定の信頼を寄せていた中で、それを根本から覆すような知見を学校側が持てただろうか』と、校長にそこまでの専門的知見を期待するのは非現実的だという立場のようです。
 管理職というのは、責任を取るからこそ管理職でいることができるのです。ですから一般論として、多くの命が失われたという事態について、学校の最高責任者である校長が責任を問われるというのは仕方がないことだと考えます。ただ、今回の判決で求めている責任の範囲が妥当なのかについては、さらに議論が必要な気がします。
 市役所の防災担当の職員というのは、防災における「専門家」だと考えます。単に定期異動でその部署に配属されたということではなく、役所の防災担当部署に蓄積された知見に親しくふれる機会があり、その知見を生かして通常業務を遂行する中で、さらに知見を深め生きた知識として活用し、より一層知見を深めるというサイクルの中にいるからです。
 そして、校長には、そうした「専門家」をも上回るような、防災に関する知識や経験をもつことが求められているというのが今回の判決です。私の経験と感覚からすると、そんなことを求められたら校長適格者はいなくなってしまう、という危惧をもたざるを得ません。
 同日の別に紙面には、『違法塀「人災」濃厚』といい見出しの記事が掲載されていました。大阪北部地震で、学校プールの塀が倒壊し、通学途中の女児が死亡した件についての記事です。記事によると、『3年ごとに実施している学校施設の定期検査では、前回の2017年1月の検査が目視のみ』『違法な建築であることは一目瞭然。検査したのは本当に専門の職員なのだろうか』『打診棒でたたいても、音が反響せず意味がない』など、役所のずさんな検査が問題視され、それが「人災」という見出しになっているのです。
 大川小の判決の考え方からすれば、ここでも校長には、建築基準法施行令や構造物の強度等についての「情報収集分析義務」があることになり、役所の担当者以上の知識と経験が求められることになります。これも適当であると認めるとしましょう。
 しかしこの論法でいけば、校長は、防災、建築、医療、法律などさらに多くの分野について、相当なレベルの「知識と経験」を求められることになります。私も教委勤務時代には、校長に指導・助言する立場として、防災についても、建築についても、医療についても、法律についても、「知識と経験」をもつように努力しました。しかし、その実際は、役所の担当部署に聞いたり、役所の顧問弁護士に相談したり、嘱託医に質問したりというレベルでした。でも、大川小の事例も大阪北部地震の事例も、役所の担当部署程度の知見では不十分であるとしているのです。
 そうであるなら、日々の職務を遂行(結構多忙です)しながら、どのようにして「知識と経験」を身に着ければよいのか、途方に暮れる思いです。「専門家」が津波は来ませんと言っていても信用せず、独自にシミュレーションを重ね、「専門家」が安全ですと言っても信用せず、学校の全ての建造物に対して安全性を独自に調査し、「校医」のアドバイスは脇に置いて、あらゆる事例についてセカンドオピニオン、サードオピニオンを求めて準備しておくというようなことが、現実的なのでしょうか。
 学校は様々な機能をもっています。学校外の人は、自分が関わる、あるいは関心がある部分についてだけで学校を見る傾向があります。そしてその部分についてだけ、完璧を、理想を求めるのです。その程度はできるはずだと言って。
 ある中学生がこぼしていました。「先生は軽い気持ちで宿題を出す」と言うのです。宿題を出す教員は、このくらいなら負担にはならないだろうと思っているが、数学で出され、英語で出され、国語で出され、社会科で出され、となると生徒としては堪ったものではないというわけです。自分の担当教科という狭い部分だけで生徒を見、一人の生徒には他の教科や部活があるということが見えていないという指摘です。
 大勢の教員から宿題を出される生徒を、多分野の専門家から「情報収集分析義務」を科される校長に置き換えてみると、少しだけ問題点が見えてくるような気がしませんか。もちろん、事態はもっと深刻ですが。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする