ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

周回遅れの愚策

2019-12-28 09:13:43 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「周回遅れ」12月19日
 論説委員濱田元子氏による『「論理国語」は必要か』という見出しの特集記事が掲載されました。『(高等学校)新学習指導要領では実用面が重視され、文学と切り離した「論理国語」が新設される(略)文部科学省の理念が先にありきの改革で、真の読解力は得られるのか』という問題意識で書かれた特集記事です。
 濱田氏は、「真の読解力」という切り口で様々なデータや専門家の見解を取り込んで、読み応えのある論を展開なさっています。さすがだなという思いです。「論理国語」については、私もこのブログで何回か取り上げてきました。しかし、濱田氏以上の緻密な分析と提言は到底出来ないので、今回は少し違う視点から考えてみたいと思います。
 私の知人にIT関係の起業家がいます。若くして起業し成功を収めた彼は典型的ないわゆる理系人間です。彼は、従来の国語の授業が嫌いだし、意味がないと言っています。正解がきちんと一つにはならないし、それが正解だと聞かされても、その解説に納得がいかないケースがほとんどであることを嫌いな理由に挙げています。典型的な文系人間である私とは異なる感覚ですが、そう感じる心情も理解できます。
 しかしその一方で、最近、欧米ではITの先端技術者にとっては、音楽や美術など芸術的なセンスが必要だとされているという話をよく聞きます。論理だけでは行き詰まりがあり、芸術的な感性がブレークスルーをもたらすということだそうです。芸術に正解はありません。各人が自分なりの理由で評価し、自分とは異なる他人の評価を一方的に否定することもできません。この芸術の特色は、そのまま文学の特色だと言えるのではないでしょうか。考えてみれば当たり前です。音楽や美術も、文学も、創造者の内面にうずくまるものを表現したいという欲求のほとばしりなのですから。
 そう考えれば、「論理国語」新設の背景にあるであろう、論理的に物事を考え解決する能力に優れた人材の育成によって国力増強に資する、という政策目的を達成するためにも、むしろ芸術や文学を学ぶことに時間を割くべきだというのが正しい方向性ということになるのではないか、という結論に達してしまうのです。
 つまり、文学軽視は、今後の我が国のIT分野での敗北を決定づける愚策なのではないか、感性重視に舵を切った欧米から見て周回遅れの時代錯誤な政策なのではないか、ということです。どう思われますか。
 
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