ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

芸術家の目

2014-10-01 07:59:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「芸術家の目」9月24日
 書家の石川九楊氏へのインタビュー記事が掲載されました。その中で石川氏は、郷土福井県から京都に出て、京都新聞に掲載された子供の書道の作品を見たときのことを次のように述べています。『京都の子供はなんと字が下手なんだろう!福井ではこんな弱々しい字、新聞に載せてもらえないぞ』。書道教育が盛んであった福井県の子供の字と比べ、『京都の子供の書道作品はあまりにみすぼらしく思えた』らしいのです。
 しかし、その後石川氏は見方を変えます。『久しぶりに福井に帰省し、恩師の勤める小学校を訪ねた時のこと。教室に張り出された子供たちの書を見て驚きました。確かに上手、そして元気。しかしみな同じような作ばかり。それで気が付きました。京都で最初、子供たちの書を「下手だ」と思ったのは、私自身が画一的な書道教育を受け、そこで培われた「目」しかもっていなかったからではないか』。
 私はこの石川氏の述懐を読んで、「逆転の逆転」という言葉が頭に浮かびました。ここでいう「子供」とは小中学生のことです。小中学校には、「習字」の授業はあっても、「書道」の授業はありません。「習字」は、教科としては国語の一分野であり、正しい字を書くことを目的としています。「書道」は、高等学校において芸術として音楽や美術と同じ枠にあり、芸術的な表現という観点で評価されるものです。
 福井県で盛んであったとされる「書道教育」とは、習字のことだったのです。石川氏自身が、『福井新聞主催の「かきぞめ競書大会」には県内のほとんどすべての小中学校が参加する』と語っているのですから、間違いありません。ですから、「確かに上手」『みな同じような』という福井県の小中学生の字は、まさしく習字の目的に沿っているのです。正しい字が様々であるはずはないのですから。
 一方、京都の子供の字は、個性的であり、「書」としては評価されても、「字」としては問題があり、「習字」の成果としては疑問符が付くのです。つまり、目の前の作品を、芸術作品である「書」とみるか、正しい字の訓練の成果である「字」とみるかで、評価はくるりと入れ替わってしまうのです。
 最初は福井がよいと思ったが、その後には京都の方がよいというように変わった石川氏の評価は、「書」の視点、芸術家の立場のものです。一方、もし、小中学校の教員が学習の定着度、達成度を測るとしたら、福井に軍配をあげなければならないのです。
 「書」と「字」、同じような例はほかにもあります。理科の自然観察で描く記録画と図画工作の授業で描く絵画は、評価の視点が違わなければおかしいでしょう。ドッヂボールをしているとき、それが体育の授業で行われているのか特別活動の学級活動で行われているのかによって、重視されるものは違ってくるのです。
 もし、石川氏が、書家の目線で「習字」の授業について語れば、とんでもない見当違いの議論になるかもしれません。しかし、世間の多くの人はそのことに気づかないでしょう。学校教育を巡る議論には、常にそんな危うさが潜んでいます。

 

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