ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

異物排除

2024-06-29 08:26:07 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「力があるとされる教員が」6月22日
 書評欄に、多摩美術大教授飯島洋一氏による『「男のイメージ 男らしさの創造と近代社会」(ジョージ・L・モッセ著 細谷実、小玉亮子、海妻径子訳)中公文庫』についての書評が掲載されました。
 その中に次のような一文がありました。『「男らしさ」をより強化するには、その対極にある「対抗的タイプ」が捏造される必要があった。「対抗的タイプ」にはユダヤ人や同性愛者などが選ばれ、彼らを局外者として差別することで、他の国民は社会秩序に適合している話になる』です。
 私はこの記述を読んで、これはいじめの構造、それも教員仲間や保護者の中で「力のある先生」という評価を受けている教員が統率する集団で起きるいじめの構造に近いととかんじました。
 学級でも部活でも、いわゆる「力のある」教員は、集団を巧みにまとめていきます。独裁政権は、国民を支配するときに国民共通の「敵」を仮設し、「敵」に負けるなという危機意識を植え付けることで団結させていきます。それと同じ手法で、です。
 しかし、学級に「敵」は存在しません。そこで内部に異端者、集団の論理に適合しない者を見つけ出し、もし見つからなければ無理にでも創り出し、その少数の異端者とそうではない多数派の適合者という構造を生み出し、異端者を排除、仲間外れにし、適合者だけをまとめていくことで、集団全体を統治していくという手法をとるのです。
 もちろん、こうした悪辣な企みを意識して行うのではありません。無意識のうちに身に付けた統率の方法を実践してしまうだけのことです。こうした教員の思惑、考え方を察した影響力のある子供がリーダーとなっていじめを開始します。あっという間にターゲットにされた子供は、異端者と位置付けられ、攻撃され傷つけられるのが当然の存在になってしまいます。そして、大多数の子供にとって、異端者を攻撃することは、教員公認の、学級がまとまるための善い行いとなり、何ら良心のの呵責を覚えることのない行為となっていくのです。
 こうした状況で、いじめ被害者が校長や教委に訴えたとき、教員と大多数の子供は、「○○さんは、~した問題児である。でも、私たちも少し厳しく接しすぎた。だから、○○さんが謝るのであれば許して仲間に迎え入れてもよい」という反応をします。自分たちを、○○さんの過去の過ちを赦す慈悲深い善良な存在と位置づけ、上から目線で救済の手を差し伸べる、という態度を示すのです。
 これは、私が指導室長時代に対応した某小学校6年生の学級で起きたことです。私は指導主事を派遣し、校長室で担任教員を厳しく指導させましたが、指導主事からは「最後は、分かりましたと言いましたが、表情や口ぶりからは悪いのは○○さん、自分と学級の子供たちは何も悪くない、と考えているのは明らかです」という趣旨の報告を受けました。
 いじめは、様々な状況で起こります。しかしここまで述べてきたようないじめは、「力のある教員」の下でしか起きません。指導力不足教員の下では決して起きないのです。自分は指導力がある、そう自負している教員は、異物排除の論理で学級をまとめていないか、常に自己を振り返る必要があります。

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