「せめて望ましい測定」5月29日
総合研究大学院大学長長谷川眞理子氏が、『「測りすぎ」ていないか? 数値目標による評価』という表題でコラムを書かれていました。その中で長谷川氏は、国立大学の達成度評価について、『評価疲れ』ともいうべき現状を憂い、『評価をすることによって、何が具体的に良くなるのか。疑問が尽きない』と問題提起なさっています。
さらに、『こういうこと(「測りすぎ」)に躍起になるのは、ある分野の人間が培ってきた経験値と価値観による、その人の判断というものを信用しない』ということだと指摘なさっているのです。
そして、考える手がかりとして、ジェリー・Z・ミュラー著「測りすぎ」という書籍の内容を紹介なさっています。『測ろうとすると、数値で測定できるものしか測定できない▽そうやって測定できたものが、測定したいものを正確に反映しているとは限らない▽数値目標の達成度によって資源の配分などを決めると、低い数値目標を置いたり、事柄の分類を変更したりする欺瞞を招く▽数値目標の達成こそが目的となり、それが達成されたとしても、その組織や個人が本来やるべき業務はかえって悪化することもある▽数値化して比較すると、各組織や個人の個性は消されて均質化を招く』というものです。
とても納得できる指摘です。学校や教員も、この数値目標を掲げた達成度評価から逃れることはできません。そして、ミュラー氏の著書の指摘通りの弊害が起きています。しかし、今更「過剰評価」「測定執着」の流れを逆転させることはできないでしょう。単に学校教育に限ったことではなく、その根底には、自由主義経済思想、市場原理主義があり、競争がないよ人は怠けるという人間観、利潤追求型の組織原理があらゆる組織に有効という確固たる誤解があるからです。これらを突き崩すことは、今の世の中をひっくり返すくらいの大事業なのです。
長年、学校教育に携わり、多くの子供や保護者と接してきた教員や教委の担当者の皮膚感のようなものに基づいた意見など、それが千件、万件と集まったところで、見向きもされないのは確実ですから。
ですから私が望むのは、2つ点を改めてほしいということだけです。一つは、ある指標に基づいて学校を数値化して評価するのであれば、それ以外の点については、あれこれ注文するなということです。学力が低下しているとして学力テストの結果に基づいて教員給与の差をつけるという策を強硬しながら、子供の問題行動が注目されると、道徳教育だ生活指導だと新たな課題を背負わせてくる、そうしたことを止めてほしいということです。そのことは、当然ながら学校教育を変質させますが、それは「測定執着」した人の責任です。
もう一つは、正確な数値化の手法を確立してほしいということです。家庭教育に関心が薄く、家庭や地域の教育力自体も低い地域と保護者の多くが高学歴で高収入、子供の学力形成に関心をもち、そのために多くの教育資源を投入することが可能な家庭が集まった地域、2つの地域にある学校について、単に学力テストの成績で学校や教員の能力や努力を測るというような雑なやり方を止めるということです。
どちらもできないというのであれば、学校と教員の疲弊と士気低下は悪化する一方です。