「真逆の反応」5月31日
『児童は地域の宝だった』という見出しの記事が掲載されました。『米南部テキサス州ユバルディの小学校で児童19人と教師2人が死亡した銃乱射事件を受け、地元には深い悲しみが広がっている』ことを報じる記事です。
以前もこのブログで、米国の銃問題を取り上げたことがありました。そのとき、私は銃規制強化を進めるべきという立場を明らかにしています。今回の事件の第一報が報じられた際、こんな悲劇を終わらせるため、銃を規制すべきだと主張する人々が涙ながらに声を上げる光景が併せて放送され、思わず「そうだ!」と声を上げてしまいました。バイデン大統領が『銃規制強化の必要性をアピールした』ことが伝えられたときも、銃規制が進展することを期待しました。
しかし、記事には次のような記述もありました。『ユバルディ郊外在住のクリスチャン・ローレンスさん(36)は銃の購入を決意した。「これまで銃を所持しようとは思わなかったが、警察が頼りにならないことが分かった。家族の安全を守らなければならない」』というものです。
事件当日、『児童らから再三にわたり緊急通報があったにもかかわらず、45分以上は警察官など約20人が廊下にいながら突入は見合わせていた』という不手際があり、そのことが警察不信、銃による自衛という考えを導き出したということのようです。
ローレンス氏は、36歳になるまで銃を所持しようとしなかったというのですから、どちらかと言えば反銃派、銃規制強化賛成派だったと思われます。本来であれば、ローレンス氏も銃規制強化の声をあげるはずだったのに、警察当局の対応の拙さのため、貴重な銃規制派を、銃所持派に転向させてしまったのです。残念です。
警察の行政機関です。ローレンス氏のケースは、行政側の対応のまずさが、住民の考え方を変え、行政への不信感を高めてしまう典型的な例だということができます。行政に携わる人間は、自分の行動が、自分自身や自分が所属する組織といった狭い範囲だけでなく、国家全体の行政への不信に繋がっていくという危険性を自覚すべきだと思います。
私は教委に勤務していたとき、教員の不祥事を扱う職務を担当していました。体罰やわいせつ行為、酒の上でのトラブル、異性問題など、対応した問題は多岐にわたっていましたが、そうした行為をしてしまった教員に対して必ず言うことがありました。
それは、「あなたが起こした不祥事は、全国数十万人の教員や学校に負の影響を与え、その職務遂行を困難にするということを理解しなさい」ということでした。一人の教員の体罰が報じられれば、「すぐ力で子供を従わせようとする。教員なんてそんなもの」「指導力がないくせにプライドだけが高いんだから」というイメージを植え付けてしまうのです。わいせつ行為が報じられれば、「うちの子の担任大丈夫かしら」「女の子にだけ優しいっていうし心配だ」などと、多くの真っ当な教員が疑惑の目で見られてしまうのです。酒に酔って騒ぎを起こせば、「○○先生、お酒が好きだって聞いたけど…」と全国の普通に晩酌をするだけの教員もアル中一歩手前のように見られてしまうのです。そして、そうした負のイメージは、より広く学校教育に関わる政策の遂行にも影響してくるのです。例えば、教員の多忙化を解消するための教員増や部活の社会教育移行などが、教員なんて~という誤解から支持を得られない、というケースが考えられます。
警察官同様、教員も自分の言動が、教員という職にある者全員のイメージや国や自治体の文教政策を左右するという自覚をもち続け、自分を律しなければなりません。