ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

うかつなことは口にできない

2022-06-10 08:29:23 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「リトマス試験紙」6月4日
 『「嫁さん」「旦那」使われ続けるのは?』という見出しの記事が掲載されました。『(嫁さん、旦那という呼称は)男女平等の時世にはには適さない言葉ではないだろうか。なぜこうした呼称が使われ続けているのか』という問題意識の下に書かれた記事です。
 記事では、『(嫁、旦那)いずれも戦後の民法改正で廃止された家父長制や家制度が色濃く残った』ものであるし指摘し、『1955年の第1回日本母親大会で発起人の評論家、丸岡秀子さんが「主人と呼ばず夫と呼ぼう」と提唱した』と呼称問題には長い歴史的経緯があることも説かれていました。
 そして、『呼称が変わらなければ、人々の意識も変わらない』『呼称の変化は性別役割意識などの解消につながる』『専門家は(略)差別を含まない呼称の普及を後押しすべき』と訴えているのです。
 全く同感です。私はこのブログで出来るだけ「つれあい」という表現を使っています。しかし私には、この記事の内容に賛意を示す一方で、少し複雑な思いも抱いてしまいます。それは、私が教委に勤務し、人権教育を担当していたときの経験によるものです。
 私が勤務していた教委では、同和問題を中心に、人権課題への向き合い方について教員代表と協議する委員会を設置していました。私は、人権教育に熱心な教員たちを接する機会が多くなりました。20年も前の日本社会では、飲みニケーションという言葉に代表される私的な人間関係を作ることが仕事を円滑に進めるという考え方が色濃く残っていました。私は、彼らと会合終了後に居酒屋で一杯、という形で座を共にするのが慣例のようになっていました。
 それは、私的な時間とは言いながら、とても緊張を伴うものでした。そこでの雑談の中で、私が不用意な発言をすると、「教委の人権教育担当者がこんな発言をした。教委の中で最も人権について知識をもち人権感覚をもっているはずの人間がこの程度の人権意識の低さなのでは、充実した人権教育の展開は期待できない。教委はなんらかの対策を打ち出すべきだ」と教委、行政全体がその責任を追及されてしまい、大問題になってしまうからです。
 酒席の雑談ですから、私的なこと、家族のことなどが話題になるのは自然な流れです。そこで、配偶者を何と呼んで話すか、という課題が浮かび上がってくるわけです。「つれあい」や「パートナー」という言い方をするようになったのはこの頃からでした。そのうち意識しなくても、自然に我が配偶者を「つれあい」と呼ぶようになりました。
 しかし、相手の配偶者を何と呼ぶか、というのは難しい問題でした。「おつれあい」「つれあい様」などの呼称はそれまでの人生で使ったこともなく、なかなか自然に口をついて出るようにはなりませんでした。
 また、配偶者を「つれあい」と呼んでいると、別の問題も生じてくるのでした。それは、「○○さん(私のこと)、奥さんの事つれあいって呼ぶんだね。さすが、人権意識が進んでいるね。○○さんと話すときは、言葉遣いに気を付けないと叱られちゃうかな」などと茶化されてしまうことでした。茶化すような口調であっても、相手の本音は、「要警戒」です。建前でしか話ができない人、と思われていたのです。当時は、まだ今ほど配偶者呼称問題について問題意識をもっている人が少なく、そんなことに拘るのは「うるさい活動家」という認識の人が多かったのです。
 当時の私は、「私は、つれあいという言い方に慣れているので」と自分が「つれあい」を使う人であることを伝えながらも、相手にも「つれあい」を使うことの意味を説くところまでは、なかなかできませんでした。敬して遠ざける、は嫌でしたから。
 今、時代は変わりました。嫁や旦那、奥さんなどの呼称を使うことがどのような意味をもつか、少なくとも子供の人権感覚を育てることを使命とする教員であれば、きちんと説くことができるようにならなければなりません。

 

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