「どうすればよかった?」6月26日
書評欄に、詩人渡邊十絲子氏が、『書こうとしない「かく」教室 いしいしんじ著(ミシマ社)』についての書評を書かれていました。その中に『書くことは、あらかじめ自分の中に用意したもののアウトプットではない。書くことで初めて姿を現すものを待ち受けることなのだ(略)中身あっての表現ではなく、表現が中身をつくっていく』という記述がありました。
思わず唸ってしまいました。私が都教委の指導主事だった頃、表現を重視するという新しい教科指導の方向性が示されました。私も、表現力の育成をテーマにした校内研究に講師として呼ばれることがありました。私はそうした場で、表現の仕方に習熟させることが大切なのではなく、まず表現したいと思える内容を一人一人の子供にもたせることが重要だと説いていたのです。
学習の中である発見や気づきがある→その内容を、発見の感動を誰かに伝えたい(表現したい)思いが高まる→表現の仕方を学ぼうという欲求が強まる→表現能力が高まる→よい表現が行われる、という流れをイメージしていたということです。私は社会科が専門でしたので、社会科においてこうした話をしてきたわけですが、他の教科でも同じです。
書くことというと普通はまず国語科が浮かびます。国語科の作文指導でも、まず書きたいこと伝えたいこと(主題)を明確にし、そこから章立てをし小見出しを付けという形で進んでいきます。多くの教員が同様な指導をしていたと思います。私もそうでした。色分けしたカード等を用い、それを操作しながら文章の構造をつくらせていたのです。
私は夏休みの自由研究の指導でも、テーマ設定の理由(疑問を持ったわけ、きっかけ)、予想、確かめるための実験調査、結果、分かったことと新たな疑問などの章立てをさせていました。同じ発想です。
これらは全て、用意したもののアウトプット型の「書く」です。しかし、それではだめだというのですから、唸ってしまったわけです。いしい氏は文筆業者、つまり書くことのプロです。アウトプット否定型の文章作成は、人生経験豊富で書くことを生業としている大人だからこそできることであり、小中学生には難しいことなのかもしれないとも思いました。しかし、いしい氏の「作文教室」は子供も対象にしているらしいのです。
私が不勉強なだけで、もしかしたら、国語科の教員の間では、表現が中身をつくっていく授業は一般的なものになっているのでしょうか。