ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

オリンピック教育も

2013-12-02 07:33:53 | Weblog
「オリンピック教育」11月26日
 論説委員の落合博氏が、オリンピック教育をテーマに執筆なさっていました。その中で落合氏は、『オリンピック教育を学校中心に全国各地で展開して生きない』と述べています。小中高それぞれの先駆的実践も紹介されていました。
 反対するわけではありません。ただ、なにかあると「○○教育」の充実を、という声があげられる現状をはがゆく思うのです。尖閣諸島や竹島の問題が浮上すれば領土についての学習を、東日本大震災後には防災教育の充実をという声があがりました。そして今度はオリンピック教育です。落合氏は、『学びの環境は整いつつある』としていますが、そうでしょうか。
 小学校を例に考えてみましょう。小学校では「総合的な学習の時間」が中心となるでしょう。しかし、世論に従えば、防災教育をとりあげなければなりません。環境や福祉、人権など従来からの課題も無視できません。納税や投資など経済の基礎について学ぶ必要性を訴える声も高まっていますから、何もしないわけにはいきません。そしてこうした学習が、本当の意味で「学び」として成立するためには、年数時間の授業時間では不可能なのです。まず、社会を見、疑問や矛盾を感じさせ、自分なりの仮説を考えさせ、問題を解決するための方法と見通しをもたせ、実際に調べたり話し合ったり、その結果をまとめたりし、その上でお互いの学習成果を交流しあい、自分の問題解決を振り返ったり結論を修正したりするという一連の流れが合ってこそ、真の学びだと言えるのです。
 だからこそ、年数時間では不可能だというのです。それにもかかわらず、「○○教育」を「押し付け」られれば、確かにやりましたというアリバイ作りのための実践に陥ってしまいます。クーベルタンの逸話を読ませ、オリンピック憲章について説明し、感想文を書かせるというような何の意味もない時間を2~3時間やって、本校でもオリンピック教育を実施していますと報告するようなことになってしまうのです。
 そもそも「総合的な学習の時間」は、全国一律にある課題を取り上げるという想定で創設されたものではありません。地域の、学校の特色や地域性を生かし、子供の興味関心に応じて学習課題を選定することが望ましいとされているのです。そうした特色との整合性も問題です。
 何もかもではなく、何かを切り捨てるという発想で学校教育の内容を見直すべきなのです。

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