ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

教科書というもの

2013-12-11 07:30:39 | Weblog
「それが教科書」12月4日
 『教科書から同胞団削除』という見出しの記事か掲載されました。以前も取り上げたエジプトの歴史教科書についての記事の「続編」ともいうべきものです。前回は、政治による教育へも介入という視点で述べましたが、今回は「教科書とは何か」を考える視点方述べてみたいと思います。
 記事によると、『「来年度の教科書をすぐチェックしてほしい」。7月3日のクーデターから約2週間後、イスラム組織ムスリム同胞団出身の前任者に代わって着任したナスル教育相は、職員にそう命じた~(中略)~同胞団に関連した部分を全て削除し、教科書は95㌻から59㌻に減った。教科書の改訂は前政権でも行われた。教育相や事務方トップは同胞団出身者が占め、同胞団を弾圧したムバラク氏ら歴代大統領の業績に関する記述が歴史教科書から大幅に削除された。広報担当者は「同胞団は教育を利用して、エジプトの歴史を書き換えようとした」と批判する。だがクーデターによる反動で、今度は同胞団が教科書から消された』のだそうです。
 ひどい行為だと憤慨する人がいるかもしれませんが、これこそ「教科書」の本質を表している出来事なのです。つまり、教科書は、学術書でも研究書でもないのです。学術書や研究書は、一言で言えば、「真実」を明らかにするために書かれるものです。歴史や社会事象の解釈については、筆者の考えが反映されますが、少なくとも「物証」のある事実を無視することは出来ません。そんなことをすれば、その筆者は、当該分野の学者として認められることはないのです。
 一方、教科書は、ある目的を達成するために無数にある歴史的、社会的事象の中から、作成者が取捨選択して構成するものなのです。ですから、同じ時代の同じ地域の出来事を同じ分量で記述するとしたとき、そこに何を取り上げるか、そのことをどのように評価するかは、「目的」に応じて変わるのです。より正確に言えば、「目的」に応じて変えるのが良き教科書執筆者なのです。
 我が国における朝鮮半島や中国の占領を対象とした場合でも、書き方は多様にあるのです。中国人女性を強姦した日本人兵士はいたはずです。一方、中国人と人として理解し合い親友といえる関係を築いた日本人もいたはずです。反日教育を行う「目的」であれば、前者を取り上げ、後者は無視しなければなりません。日中友好が「目的」ならば後者をクローズアップし前者は消し去らなければならないのは、当然なのです。
 先日の日韓議連では、またも共同教科書作成の必要性が唱えられましたが、それはこうした「教科書」の本質を理解せず、教科書と学術書・研究書を混同した世迷い言に過ぎないのです。
 独仏における共同教科書の成功例を挙げて反論する方がいるかもしれませんが、それは独仏が、自由・民主・法治など基本的な価値観で一致しているからこそ可能だったのです。反日を主要な教育目標に設定している中韓との間で、教育の「目的」を共有することが可能だと考えない限り、こうした主張は意味をもちません。
 教科書はその国が掲げる教育の目的によって変えられるという宿命をもっていることを忘れてはなりません。
 
コメント
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