ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

一人一人の人生模様

2013-12-16 07:29:14 | Weblog
「無統制」12月10日
 専門編集委員の玉木研二氏が、『お話の時間』という標題でコラムを書かれていました。その中で玉木氏は、道徳教科化について触れ、『検定教科書が使われることになる~(中略)~問題は、教師の人生模様や人格も投影する、あるいはすべき授業で、教師自身が腐心や工夫をする気構えを失いはしないかということである』と懸念を述べていらっしゃいます。
 玉木氏は、道徳の授業においては、指導する教員の人生模様や人格が投影されるべきだといっているのです。本当にそれでよいのでしょうか。道徳に限らず、全ての授業、すべての教育活動の場面において、教員の人生模様や人格が影響を及ぼしているのは事実です。しかし、そうした事実があるということを認めることと、そうあるべきだと主張することは別のことです。
 私は、公立学校、特に義務教育である小中学校においては、教員による「個性」が影響力をもつという現実を直視しながらも、できるだけ「個性」によるバラツキを最少に押さえようとする方向性が大切だと考えています。海沿いのA県のa小学校の6年2組の子供も、山間のB県のB小学校の6年1組の子供も同じ授業を受けることができるというのが義務教育だと考えるからです。
 このように言うと、a小学校では7×6=42でb小学校では7×6=41では困るが、道徳のように心で感じる授業では構わないという趣旨の反論がありそうですが、だからこそ問題だと考えるのです。7×6=41が間違いであることは誰にも明らかであり、訂正が可能ですが、ある教員の「個性」の影響の大きさはその場では分かりませんし、分かったときには修正が難しいのです。
 極端に言えば、○○学会や○○真理教、○○の科学などの忠実な信者である教員が、自分の体に染みこんだ教義に基づいて語ったとき、それを認めるという保護者はいないはずです。道徳の授業中に、過激なアナーキズムや特定の民族を排斥する思想の持ち主である教員が自らの思いを吐露することを容認しはしないでしょう。だからといって、教員採用において思想調査をすることも多くの国民は拒否するはずです。
 だからこそ、学習指導要領を定め、その趣旨に則って教委が年間指導計画のひな型を作成し、各学校がそれらを参考に指導計画をつくり、教員は自校の年間計画に基づいて週案簿を記入し授業に臨むのです。そして、校長は週案簿を点検し、問題がない場合に認め印を押しその案で授業をすることを承認するというシステムが確立しているのです。
 ここまでしても、1組と2組で同じ授業にはなりません。そこには、子供の実態の違いがあり、それに応じた教員の工夫があるからです。「教師の人生模様や人格も投影する」ことと「教師自身が腐心や工夫をする気構え」は矛盾なく両立するのです。
 私が未熟な若造であった頃、私の受け持ち学級の子供が私にそっくりだと言われたことがあります。歩き方や口癖など、知らず知らずのうちに似てきていたのです。意図しない教員の影響力はとても大きいのです。そして、当然のことですが教員は完璧な人間ではありません。自分の「傾き方」も自覚できていないことが多いものです。だからこそ、「教師の人生模様や人格も投影する」ことを野放図に認めてはならないのです。

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