「非公開はダメ?」11月28日
『都構想批判巡り場外乱闘』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『日本維新の会は27日、同党が目指す「大阪都構想」を批判した民主党の大畠章宏幹事長に、橋下徹共同代表との公開討論を申し入れた』ということです。そして、橋下氏は、『大畠氏を政治家として二度と立ち上がれないぐらいこてんぱんにやる自信がある』と述べているのだそうです。
私は「都構想」については、どうぞご勝手に、というくらいの関心しかありませんが、維新の会や橋下氏が主張する「公開」討論という発想に違和感を感じてしまいます。現代は、「公開」が流行っています。新潟県知事も東電の社長との話し合いは「公開」であることにこだわっていました。確かに「公開」と「密室」と並べられると前者の方が良いことのような印象をもつ人が多いように思います。
しかし、本当にそうなのでしょうか。私は、関係者だけの閉じられた空間でしか言えない話はあると思います。また、公開の場では「建前」や「理屈」が優先され「本音」が隠されたまま話し合いが進むということもありがちでしょう。その結果、実際に役に立つ解決策が見いだされないまま、アリバイ作りのような議論、妥協点を探るよりも聴衆受けを意識した過激な意見が幅を利かせることになってしまうことを危惧するのです。
このようなことを言うと、人前で堂々と言えないような意見や考えなど価値がないという反論がなされるかもしれません。また、私事ならばともかく、公的な立場での議論は公開し広く市民に判断の基になる情報を提供するのが民主的で開かれた社会だ、という考え方を支持される方が多いとも思います。私自身が、原則としては、その立場なのですから。でも、社会の中で一定の人生経験を積まれた方であれば、自らの経験に照らし合わせて、私の言うことにも一理あると頷いていただけるのではないでしょうか。
私は指導室長時代に、様々な「密室」での話し合いをしてきました。議会の与野党の議員に呼ばれその控え室で、陳情に来た市民団体の代表者たちと庁内の会議室で、トラブルを起こした教員への処分と対応を巡って関係者と、などです。いずれも、個人のプライバシーに関わるからという理由ではなく、実効性のある成果をもとめて、であったつもりです。
学校教育改革についての議論も、公開の場だけでは、学校教育に不満をもつ聴衆にカタルシスを与えるような過激で一方的な意見、恣意的に「悪者」を設定しての勧善懲悪論的な発言、断罪し言い負かすことを目的としたような討論テクニックが横行し、「会議は踊るが~」という結果に陥ってしまう危険性が高いように思います。「公開」も時と場合によりけりだというのが、大人の知恵だと思います。
『都構想批判巡り場外乱闘』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『日本維新の会は27日、同党が目指す「大阪都構想」を批判した民主党の大畠章宏幹事長に、橋下徹共同代表との公開討論を申し入れた』ということです。そして、橋下氏は、『大畠氏を政治家として二度と立ち上がれないぐらいこてんぱんにやる自信がある』と述べているのだそうです。
私は「都構想」については、どうぞご勝手に、というくらいの関心しかありませんが、維新の会や橋下氏が主張する「公開」討論という発想に違和感を感じてしまいます。現代は、「公開」が流行っています。新潟県知事も東電の社長との話し合いは「公開」であることにこだわっていました。確かに「公開」と「密室」と並べられると前者の方が良いことのような印象をもつ人が多いように思います。
しかし、本当にそうなのでしょうか。私は、関係者だけの閉じられた空間でしか言えない話はあると思います。また、公開の場では「建前」や「理屈」が優先され「本音」が隠されたまま話し合いが進むということもありがちでしょう。その結果、実際に役に立つ解決策が見いだされないまま、アリバイ作りのような議論、妥協点を探るよりも聴衆受けを意識した過激な意見が幅を利かせることになってしまうことを危惧するのです。
このようなことを言うと、人前で堂々と言えないような意見や考えなど価値がないという反論がなされるかもしれません。また、私事ならばともかく、公的な立場での議論は公開し広く市民に判断の基になる情報を提供するのが民主的で開かれた社会だ、という考え方を支持される方が多いとも思います。私自身が、原則としては、その立場なのですから。でも、社会の中で一定の人生経験を積まれた方であれば、自らの経験に照らし合わせて、私の言うことにも一理あると頷いていただけるのではないでしょうか。
私は指導室長時代に、様々な「密室」での話し合いをしてきました。議会の与野党の議員に呼ばれその控え室で、陳情に来た市民団体の代表者たちと庁内の会議室で、トラブルを起こした教員への処分と対応を巡って関係者と、などです。いずれも、個人のプライバシーに関わるからという理由ではなく、実効性のある成果をもとめて、であったつもりです。
学校教育改革についての議論も、公開の場だけでは、学校教育に不満をもつ聴衆にカタルシスを与えるような過激で一方的な意見、恣意的に「悪者」を設定しての勧善懲悪論的な発言、断罪し言い負かすことを目的としたような討論テクニックが横行し、「会議は踊るが~」という結果に陥ってしまう危険性が高いように思います。「公開」も時と場合によりけりだというのが、大人の知恵だと思います。