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水は水という「仏」なる理念であるから、「仏」として自分の道を行じている

2021-04-04 11:46:02 | 日記
<水は水という「仏」なる理念であるから、「仏」として自分の道を行じている>
興味深い道元のご文章がある。
水は水という「仏」なる理念であるから、
「仏」として自分の道を行じているという趣旨の内容である。
参考になるので引用する。

(正法眼蔵を読む 山水経の巻  谷口清超)
<水は分別裏にあり>
周代の『文子』という書にこう書かれている。
「水の道は、天に昇っては雨露となり、地に下っては江河となる」
俗世間でもこのように言っている。仏祖の児孫なりと称する人々が、俗人よりも愚かであってはならない。この一文の意味は、水は水の道を知っていようがいまいが、そのままちゃんと水として行じているということである。
「天に上っては雨露となる」というが、水はどんな上方、上空へ行っても雨露となるのだ。その雨露は行く先々で色々な形をとる。その行先が限られている、と思うのは小乗、声聞の教えである。或いはまた外道の邪教だ。水は火炎のなかにも行くし、又心の中、思量分別の中にも行くのである。いや、仏の智慧そのものの中にあるのが「水」なのである。

吾々の力はその95パーセントは使わずに眠っている。祈りと神想観とは自己の中にすでに内在する所の「実相の無限力」を目覚めしめ、それを現実界に導き出すものである。

2021-04-04 10:50:14 | 日記
私たち人間の本体は神なのである。
だがほとんどの人はこの事実を知ろうとしないのである。
だから、自分が神に属する無限能力を持っているにもかかわらず、
それを使うことが出来ず苦しむのである。
だから気づくように知らせるのである。
知らせたらそれを自主的に顕わすべく働きかけるのである。
(祈りの科学 谷口雅春)
【考えてみるに、人間は大抵自分自身の本当にもっている力の百パーセントを発揮していないのである。多くの人々は自分自身を過小評価しているのである。もっともっと力があるのにこの位で結構だと中途半端の所で停止していようとするのである。その停止が余りにも自分の能力以下の所である場合に、問題が出現して吾々の力をしぼり出してくれるのである。
 吾々の力はその95パーセントは使わずに眠っていると云ってもいいのである。人類の不幸は、余りにも人間を弱小なるもの、卑しきもの、地球に生えた黴(かび)の如きもの、塵(ちり)の中からわきでた蛆虫(うじむし)の如きものと考えすぎているのである。多くの人達はそれほどはっきり自分の弱小さを考えてはいないかもしれないけれども、潜在意識の底では、人類の通念として、何人もかかる弱小感をもっているのである。この弱小感の迷妄を破壊して、自己の内に内在する無限力を発揮するために必要な修行が祈りであり神想観であるのである。祈りと神想観とは自己の中にすでに内在する所の「実相の無限力」を目覚めしめ、それを現実界に導き出す所の力たらしむる所のものであるのである。】
 
 

我の力は行きつまり、神にふりむく機会を得る。その時祈りによって神と自分とが一つになることによってのみ、それを解決する所の無限の力を神から与えられるのである。

2021-04-04 10:10:09 | 日記
我の力は行きつまり、神にふりむく機会を得る。その時祈りによって神と自分とが一つになることによってのみ、それを解決する所の無限の力を神から与えられるのである。
(祈りの科学 谷口雅春)
【問題が吾々の人生に起って来る毎に、それを我の力で解決しようと思ってはならないのである。我の力はくだける。我の力は道を失う。我の力は行きつまる。吾々は我の力で行きつまることによって、神にふりむく機会を得るのである。その時祈りによって神と自分とが一つになることによってのみ、それを解決する所の無限の力を神から与えられるのである。
「神は吾が手をとりて平和と愛と豊かなる恵みの世界に導き給う。」常にかく祈りかく念ずることが必要である。】
迷いも悟りもあるのは、
人は「始めから悟っている存在」であるからなのである。
このことに、
つまり人間は“神の子”(神)であると、
気づくために迷いはあるように見える。
「人間我」ではだめであり「神我」なら真の幸福が得られる。
「迷いの行き詰まり」の見方、捉え方が
大事なのである。
「物質有り」の観念が迷いの根本だ。
「人間我」の無力さを
失敗において学ぶことが大切だ。
少しずつ神を知ることになる。