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現象世界に何が現われていても、その現象世界の奥には円満完全なる「神の国」が存在している。

2021-07-31 11:33:03 | 日記
私の現在の意識は
テレビで東京五輪の試合を観ているのであるが、
別に「神の子」を意識していないし、
「神の国」を意識してもいない。
でもそうした自分の意識に関係なく、
私の意識の奥に“神の子”がいて、
“神の国”が存在しているのである。
現象は意識(内)の反映だから、
現象の奥にも円満完全が存在している。
これは真理の自覚からそう思えるわけなのであって、
真理の自覚が深まり、その真理を観じていることから来る自覚だ。
この自覚は「霊と心と肉体とは三位一体である」という
キリスト教の真理の自覚から来る。
この自覚は、
自分の環境世界だけでなく、
私の肉体についても同様であり、
私の肉体そのものが、
円満完全なる”神の子”に裏打ちされているから、
完全さそれ自体である。
結局「内」なる円満完全を
現象顕現すればよいのである。
三位一体説は
実相顕現の鍵である。
 
 
 

一躍超入、常住蒼空の世界

2021-07-31 10:11:33 | 日記
一躍超入、常住蒼空の世界に入るために、
色々方法はあるはずだが、
私投稿者は
神想観をして「内」なる神の許に往き、
「神の子円満完全」なることを神に委ねる方法で、
実行しつつあると自覚している。
従って宗教的真理としては、
アディントンの説くニュー・ソートの神学理論が
根拠だと思っている。
でもこれは雅春先生の『神癒への道』の内容と全く同じだ。
一躍超入するには「祈り」が必要だし、
明確な真理の裏付けが必要とされる。
真理を知らないと「信」も「観」も形成できない。
(神と偕に生きる真理365章)
【“本当の自分”を仏教では“仏性”というのである。キリスト教では“内に宿るキリスト”という。親鸞聖人は「大信心は仏性なり、仏性即ち如来なり」と和讃の中で喝破されたのである。罪ある汚れたる“肉なる者”(パウロの語)が大信心して「南無阿弥陀仏」と念仏するのではなく、本来罪なき阿弥陀仏と一体なるところの仏性が念仏して(親鸞)成仏するのである。つまり三次元空間の世界に於いて、色々の善ならざる行為(業)をなして、その業を蓄積して来た自分は、「肉体本来無し」(泥は水ではない。肉体は人間ではない)と、“肉体の世界”“泥の世界”を超越して、“仏性”の世界に超入すれば、“下界の雲の世界を超越して“常住碧空の世界”をジェット機が飛行するように、一切の汚塵も雲も煙霧もなき清浄円満光明世界に入るのである。】
 

“本当の自分”は常住汚(けが)れなきものである。

2021-07-31 09:32:02 | 日記
本当の自分は“神の子”、
つまり神の似姿である「神」であるから、
純粋で聖にして完全なるものなのである。
物質的な思いを時々思うことがあっても、
実相である“神の子”は、
何一つ汚れている部分は無いのである。
このことの自覚が大切である。
(神と偕に生きる真理365章)
【このパウロの自己分析による「本当の自分」の発見が、宗教的悟りの要諦(ようたい)であるのである。私が時々コップの中の水の譬喩(たとえ)をもって、「本当の自分」のことを修行者にわかり易く説明することにしているのは次のようにである。
「ここに透明のコップがあって澄明(ちょうめい)な純粋の水が入っているとする。この水の中に一つまみの泥を入れると、水は不透明になる。この時、人は“水が濁った”というのである。併し本当は水は濁っていない。水は依然としてH2Oの化学式をもった澄明な純粋の水である。濁っているのは水そのものではなくて、泥が濁っているのである。水は泥の濁りと何の関係もない。それだから濾器(こしき)で泥を濾し去れば、あとには以然として純粋な水があるのである。それと同じく“人間・神の子”の完全な実相は、どんな汚れた罪人のように見える人に於いても、変ることなく、円満な実相そのままである」】
ここで悪をなす人について、
そういう人でも実相は
汚れなき円満完全な実相そのものであると書かれているが、
 これは大事な真理である。
“神の子”つまり神であるからだ。

新約聖書「ヨハネによる福音書」新共同訳

2021-07-30 13:29:14 | 日記
新約聖書「ヨハネによる福音書」新共同訳
第5章 ベトザタの池で病人をいやす
1 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「べトサダ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
5 さて、そこに38年も病気で苦しんでいる人がいた。
6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。
その日は安息日であった。
10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは律法で許されていない。」
11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
12 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。
13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。
14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害しはじめた。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。
17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけなく、神を御自分の父と呼んで、ご自分を神と等しい者とされたからである。


自壊作用というのは、病気の場合には、慢性的に長引いていた症状が急性の如き生理的症状をあらわしてその後、急激に症状が消えるのであります。

2021-07-30 11:57:56 | 日記
吾々が真理を知ったときには、
今までの迷妄によって現われていた現象が
大きな響きを発するみたいに
一時的に破壊的な姿を現わします。
だがこれは迷いがくだけるのであるから、
本当の自分は砕けないのであります。
(新講「甘露の法雨」解釈 谷口雅春)
【吾々が真理を知った時に、今まで「無いもの」を「有る」と思っていたが、「それは本当はなかったんだ」と、悟った時に、迷妄が消えるから、急激に、迷妄によって「ある」かの如く現れていたところの全体が壊れる時に、大きな建物がこわれる時には大きな響きを発するように、現象的に何か破壊的な姿をあらわす。これを自壊作用と称するのであります。小さな業がボツボツ壊れるのだったら、ほんの少し風邪を引いて、ちょっとだけ熱が出たら治った、そんなことが一カ月に一遍あったとかいうように小さな形をあらわして壊れて行くのですけれども、大きな業が一度に壊れる時には、ちょっとはげしい急激な革命的な大変動を、現わすということがあります。病気の場合には、慢性的に長引いていた症状が急性の如き生理的症状をあらわしてその後、急激に症状が消えるのであります。】
聖経『続々甘露の法雨』にはこうあります。
【天使また更に説きたまう。
汝ら是らの真理を聴き了りたる後
肉体に激変起ること勿れ。
高く建ちたる建物の壊くるときには
轟然たる響きを発せん。
その轟然たる響きにも似たる病変は
高く建ちたる汝の過去の迷いの消ゆる響なり。
迷いの建物低ければ激動少し、
迷いの建物高ければ激動多し。
されど此らの病変を恐るること勿れ。
壊くるものは汝自身に非ずして「迷い」なり。
「迷い」壊くるとも本当の「汝」は壊けず、
「迷い」苦しむとも本当の「汝」は苦しまざるなり。
汝は神の子なり、仏身なり、
金剛身なり、不壊身なり、
無病身なり、常楽身なり。
感覚主義、合理主義に陥りて
金剛不壊の常楽身を見亡うこと勿れ。
今すべての病者は癒えて
その病床より起ち上らん。】