【久遠のキリストと同体のみの自分を認める】という部分が、極めて大事なのであって、この言葉で、野郎自大な観にならずに、済むわけです。
私が昨日ブログ投稿した
「久遠のキリストと同体のみの自分を認める」
という“実相”を顕わすための究極の決め言葉は、
あるいは神様が私個人のために選んでくれた
格別の言葉であるのかも知れません。
神様は依怙贔屓することなく、
すべての人に
その人なりの特別の言葉を用意してくれるんだと、
どこかで読んだような気もします。
「実相を観じること」を
「久遠のキリスト」を観じることと
勘違いされる方は
多いのではないかとも感じます。
神は見えないから、
神になれないのです。
自分が「久遠のキリスト」の
表われであることを観じるわけです。
“神の子”の時空世界への表現として
“神”を顕わすことは、
最高度に出来ましょうが、
神は見えないのですから、
「神それ自体」を現象世界に
顕わしようがないのです。
だから自分が神になっちゃおうと思って、
「神の子円満完全」と観じても
無理があります。
だから「「久遠のキリストと同体のみの自分を認める」
の中の【同体のみの自分を認める】
という部分が、
極めて大事なのであって、
この言葉で、
野郎自大な観にならずに、
済むわけです。