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イエスは「神の国は今此処にある」と教えられたのであった

2019-05-31 10:12:33 | 日記
イエスは「実相」は「今此処」にあると
教えられた。
そして人に於いて実相を観て、
即座に病者を癒やせたのであった。
私たちは光源である実相と
その反映である現象との距離を縮めれば
実相が現象化するのであるが、
多少時間がかかる場合もある。
大事なことは
「神の国」は
実は現象に対して「今此処にある(is at hand)」
という“真理”を知ることである。
だって実相が展開しているのだから
ガスの炎(肉体・現象)がガス管噴出孔という理念(実相)から
出ているのと同じで
いつだって現象は実相から離れていないのだ。
つまり光と光源とはいつも一体なのであって
人間の心がそうじゃないと
思っているだけの話しだ。
天国は今此処にあるのだ。
人間は神の肖像(にすがた)であり「神の子」という生ける観念体である。
(参考 奇蹟の時は今 アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)
【イエスは「神の国は今此処にある」と教えられたのであった。今此処にある(is at hand)と説かれたのであった。また「われは“道”である、“真理”である、“生命”である」と現在形の語でいわれたのであって「あるであろう(Will be)」というような言葉は使われなかったのである。
 神癒が生ずるあらゆる場合に於いて、心の内に“神の完全さ”が今此処にあると、その実相の完全さを直視して、それをそのままに承認し給うたのであった。そして“心”に承認せられたものが即座に実現したのであった。そして癩(らい)は即座に潔められて癒え、盲者は即座に眼ひらきて見え、而して即座に発熱は彼女から逃げ去りて癒え、また久しく病の
床にありし者は、即座に起きて寝床をとりかたづけて群衆の前に姿をあらわし、さらに跛者の娘は直ちに起ちて歩み出し、生まれつき視力なき者は即座に視力を与えられた。またある男は即座に完全に健康を回復した・・・等々。あなたはこのような神癒が即座に起ることがあることを疑問に思ったことがありましたか?
 われわれ大多数の人間にとっては、イエスが常にもち給いしほどの信仰を築きあげるためには、徐徐に信仰を深め行く“時間”が必要なのである。】
真理を知るには
多少時間がかかる。
真理は深いのであって、聖典・聖経読誦、
そして間断なき祈りそして愛行も
必要である。
そしていつか真理の奥殿に入っていく。

神に願いが聴かれる前に先ず感謝を捧げよう

2019-05-31 10:07:24 | 日記
神の国(実相)においては
既に願いは聴かれている。
つまり祈りは実現されている。
それだからイエスは
祈るに先立って感謝をささげたのである。
私たちも真理を知ったのであるから
願いが聴かれる前に感謝を捧げる習慣を
つけようではないか。
祈り実現のために必要事である。
(参考 奇蹟の時は今 アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)
<イエスは神に願いが聴かれる前に先ず感謝を捧げることが神癒実現の精神的受諾を確認強化するものであることを立証した>
【「あなたの深切な御配慮に対し、あらかじめ感謝いたします」という語句は商用手紙に慣用句になっている古めかしい成句である。普通この種の手紙は、「あなたの従順なるサーヴァント」と結尾に書いて発信人がサインしたものである。この商業文にあるような相手を信頼し切った態度でイエスは“天の父”に接したのであった。イエスは神の恩寵が必ず彼のために働いてくれるものとあらかじめ期待していたのであった。そして彼は自分を地上に遣わし給うた“神”の御意思を遂行するための“従順なるサーヴァント”の役をしていたのだった。それだから、彼は自分の祈りは必ずきかれるのだということを疑わなかった。そして“汝の主なる神を愛せよ”という第一の誡(いまし)めを彼は常に守った。そしてこれがイエスと神との間の聖約であったのである。】

「主の祈り」とは「実相は円満完全なり」という祈りである

2019-05-30 09:42:11 | 日記
「主の祈り」というのは
イエスが弟子たちに祈り方を請われたときに
教えた祈りだそうである。
そしてこの祈りこそ
本当の祈りかたなのであると
アディントンはいうのである。
「主の祈り」というのは
「実相は円満完全なり」という祈りである。
(参考 奇蹟の時は今 アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)
【『ルカ伝』第11章1節には次のようなことが書かれている。
「イエス或る処にて祈り居給いしが、その終りしとき、弟子の一人いう『主よ、ヨハネの其の弟子に教えし如く、祈ることを我らに教え給え』」
このとき、イエスはこの弟子の願いにこたえて、その後二千年に亘って、イエスの教えに従う者がこの祈りを踏襲し来ったところのあらゆる問題を全包容せる祈りを教えたのであった。これが「主の祈り」であって、キリスト教者も色々の教派に分れていてその信条も多くあるが、すべての教派に共通に受け容れられているのが、この“主の祈り”であり、それは次の如くである。
「この故に汝らは斯く祈れ。『天にいます我らの父よ、願わくは、御名の崇められんことを。御国の来らんことを。御意(みこころ)の天のごとく、地にも行われんことを。我らの日用の糧を今日もあたえ給え。我らに負債(おいめ)ある者を我らの免したる如く、我らの負債をも免し給え。我らを嘗試(こころみ)に遭わせず、悪より救い出だしたまえ。あなたの国は神の国であり、力と栄光とは、永遠にあなたのものであります』」(『マタイ伝』第6章9~13節)】
アディントンは
これを次のように書き換えてみると
もっと分りやすいというのである。
これがクリスチャン・サイエンス流の正しい解釈なのだと
私も思うものである。
(参考 奇蹟の時は今 アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)
【天にまします我らの父よ
あなたの御名は称えられたまう。
あなたの御国は来ているのです。
天国に御心が今あるごとく
地上にも御心が行われます。
あなたはわれらの日常の糧を
今日いま与えて下さっています。
われわれが自分に対する人の過ちを宥(ゆる)すが如く
あなたもわたし達の過ちを赦して下さっています。
あなたはわたしたちを導き給うて
誘惑に陥らぬようにして下さっています。
そしてあらゆる“悪”から解放して下さっています。
何故なら、あなたの国は、「神の国」であり、
御力(みちから)と栄光とが永遠に満ちています。アーメン】
谷口雅春先生は
この「主の祈り」は1957年当時の
米国のディヴァイン・サイエンス教会系のものだとお書きになっているが、
実際にあったものの引用である。
因みに投稿者自身のことについていえば、
アディントンの『奇蹟の時は今』
谷口雅春先生の『ヨハネ伝講義】
ホルムス・谷口雅春共著の『心と運命』
ホルムスの『人生は心で支配せよ』
ステラ・テリル・マンの『信仰と愛行による新生』
等の「生命の実相」のキリスト教解釈によって
真理を本当に体得できたことをご報告し、
特に決め手となった本は
アディントンの『奇蹟の時は今』であることをお伝えして、
キリスト教に縁が深いと自覚される方には
この本を熟読されることをお勧めします。