gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

『生命円満完全』と云う事は神聖な真理である(その1)

2019-12-31 10:13:45 | 日記

「生命円満完全」という真理の素晴らしさについて
2回に分けて投稿します。
(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)
<一種の脊椎カリエス病状で脊椎がまがらない病気にかかった娘さん>
【一昨年のことであった。東京都内の藪照子さんの娘が奇病にかかった。一種の脊椎カリエス病状で脊椎がまがらないし、右の股関節も自由にならず、坐るにも右脚を真直ぐに伸ばしたまま坐らなければならないのである。それだけなら好いが、夕方のある一定時刻になると悲鳴を挙げるほどその曲がらない方の脚が疼いて、もがき苦しむのである。その娘は生長の家本部前の脇田博士の病院に入院していた。脇田博士の医療も説得も何の効果もなかったので、博士は服部仁三郎氏を招んであげようと云うことになった。】
<神の子円満完全という真理で病が治った。>
【丁度、傷んでいる最中に服部氏が到着したのでした。そして、人間本来神の子、円満完全で病気は無いと云う話をその娘の枕元で話した。すると、十分間ほど話しているうちにその痛みがピタリと止まってしまった。藪さんの奥さんはこの娘が不思議な病気で、天気の日にはあまり尿量はないが、雨が降る日には多く尿量がある。少し降る日には少し多いし、多量に降る日には無闇に多量に尿があって、病褥を濡らして困ると云うことを訴えた。娘は夕方の疼痛時の放尿には疼(いた)んで便所につれてゆけないので、「おむつ」を利用していたのである。服部氏は、「それは雨が降るのを見ると、水を連想するので尿が多く出るのでしょう」と心理的な尿量増加だろうと話した。藪夫人は、私もそう思って、雨が降る時には雨を見せないように室をたて込んで警戒して置くのですが、本人は雨の降るのを全然知らない時でも其の尿量は雨量の指示計であるかの如く、正確に増減すると云う事を訴えた。「それでは、その雨の降る時間に来てみましょう」と云って、服部氏は次の日、雨の今にも降りそうな時をはかって病院を訪れたのである。そして、病気の娘の枕頭で、生命は神の子、完全円満、そんな不調和なことはないと言う真理をまた話していたのである。ところが雨がザンザ降って来た。娘はきげんよく聞いていて、少しも尿意を催さないのである。それ切り、雨量と共に増減する不思議な尿の病は治ってしまったのであった。】
<服部氏は短冊に「生命円満完全」と書いてそれを渡した。>
【脇田博士も此の奇病の奇蹟的治癒には驚いてしまった。まだ脚と脊椎の硬直はとれないが、疼痛と尿の異常は治ってしまったし、この種の病気は物質的医療の範囲外であるので、もう自宅へ帰って養生せられるが宜しかろうと云うことになった。服部氏は短冊に「生命円満完全」と書いて「これを部屋にかけておきなさい」と云ってそれを渡した。】


物質的世界観が霊的世界観に変容すれば現象世界もそれに対応して顕われて表現されることになる。

2019-12-31 09:51:44 | 日記

アディントンは
エメット・フォックスの
「祈るときはただひたすら神について想いをめぐらすのだ」というフォックスの著書における記述について
以下の文章の如くに評している。
投稿者が思うに
自分の普段考える内容が
神を想う時間が長くなればなるほど
自分の現象世界に
明るくよいものが現れてくる。
普段の「観」の在り方が変わる必要があるのだ。
物質的世界観が霊的世界観に変容すれば
現象世界もそれに対応して顕われて表現されることになる。
ただこれは一気にはいかない。
神を想う時間が増えていく必要があるのだ。
(参考 奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳)
【なんともそれは簡単なことであるが、しかもそれは単純平明な心で試みるならば効果をあらわすのである。「人間が巧者で、神がどうするかとその姿を描いて神を限定しようとしてはならない」と彼は警告したのである。彼の方法は神の属性すなわち~神は智慧であり、真理であり、想像を絶する愛であり、遍一切所の存在である~と知られている所のものを、そのまま復唱することによってお蔭を得るというやり方である。重要なことは、現在の悩みについて想い煩うことをストップしてその代わりに神について想いを集中することである。何故なら、もし吾らが現下の悩みについて思いめぐらすならば、同時に、神について想念を集中することはできないからである。神癒の秘訣は、少なくとも数秒間でも神のこれらの霊徳についての思いに心がスッカリ吸収されて、問題が完全に忘却されることである。「そうすればその時」と彼は言った。「あなたは、今現に一切の悩み困難から抜け出して、安全に愉しくある自分を見出すであろう」と。】


我々は『心の描いた形』を雛形として大生命に提出するのみで、現実化するのは大生命の無限の創化作用にまかせれば好いのである。

2019-12-30 19:31:02 | 日記

人を祈る方法について
雅春先生が教示してくださっている。
これは大事なことであると思う。
(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)
【現象のあらわれるのは、『心の描いた形』を雛形として大生命の創化作用によってあらわれるのであるから、吾々が心に描いた姿を現実化するのは大生命の無限の創化作用にまかせれば好いのであって、人間が意思の努力をもって懸命にねじ鉢巻式「凝念」の精神統一を必要とするのではないのである。ただ、大生命の御前に、欲する理想の事物の相を描いて出せばそれで好いのである。大生命の創化作用は常に間断なく行われているのであるから、我々はただ欲する姿を、謂わばただ製図して出すだけで好いのである。大体病者というものは「病気」の姿を心に描いて創化作用に提出しているものであるから、彼を病気から癒すためには、彼の「健康」を心に製図して提出しなければならないのである。そして『信』をもって『大生命よ、これを創化したまえ。患者の心に描いています観念はニセモノです。彼は神の子ですから健全なのです。』と心の中に言葉をもって宣言することが必要なのである。「汝ら祈るとき既に受けたりと信じて云え。神は必ず成したまわん」である。自己が若し病気であってそれを自己治療する場合には、自己の潜在意識に「病気」の観念があるのであるから、現在意識で強く明らかに、自分の潜在意識によびかけ、「感覚は信念の影に過ぎない。感覚に見えるものはニセモノである。人間は神の子であるから現に既に健全である」と念じ、既成の健全さを『観ずる』ことが必要である。而して念ずる通りに創化作用が成し給うのだと確く『信じ』て全托の心境になるべきである。】


人を祈るには徹底した真理の理解が必要だ。「現象なし実相独在」の真理把握を徹底して実相を観じるのである。

2019-12-30 16:33:54 | 日記

人を祈るには
徹底した真理の理解が必要だ。
「現象なし実相独在」の真理把握が
完全なる神癒には不可欠だと感じる。
(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)
<生命力は故障を修理する位は何でもないことなのである。>
【効果ある思念治療を行うために、自分の心のうちで次の如く念ずるのである。
「医者が如何に云おうとも、医者は人体の製造元ではないから、如何にせば人体を修復し得るかを知らないのである。生命力は、骨もなき卵細胞より骨を製造し、内臓のなき卵細胞より内臓を制作したところの製造元なのである。だから如何に骨に故障があろうとも内臓に故障があろうとも生命力は『無』からすら一切を製造し得るのであるから、故障を修理する位は何でもないことなのである。」】
<現象にどんな不完全が現れていても、不完全を気にせず実相の完全さを観じることなのだ。>
【また相手が激痛で七転八倒しているような状態であるならば、それを見てこちらの心が動揺すれば光明思念が完全に行われないのであるから、次のように自分自身に向って念ずべきである。
「神はすべてである。神は円満完全であり、神の中に不完全なる病気や激痛は存在し得ないのである。だから此の激痛は結局夢に過ぎないのである。それは“ある”かの如くあらわれているけれども、真に実在するものではないのである。人間は神の子である。神は霊であるから人間もまた霊的実在である。霊は傷つくと云う事も病むことも苦しむと云う事もない。霊は常に平和に満たされている。神は一切のものを善に創造したのである。神の法則の世界には神の一部分であるところの他の何物かに傷つけられると云う事はないのである。宇宙の一切の事物は完全に互に一体であり調和しているから何処にもどんな不調和もあり得ないのである。彼は今、平和と健康と完全と調和に充たされているのである。】