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「久遠の今」について(その4 「今此処の一点」の生命が振動する。生命の振動の持続が時間なのです)

2019-01-31 11:38:45 | 日記
時間とは「生命振動」の意識である。
聖経『甘露の法雨』には
【この全能なる神、
完全なる神の
『心』動き出でてコトバとなれば
一切の現象展開して万物成る。
万物はこれ神の心、
万物はこれ神のコトバ、
すべてはこれ霊、
すべてはこれ心、
物質にて成るもの一つもなし。
物質はただ心の影】
とあるとおりです。
(参考 神癒への道 谷口雅春 日本教文社)
【そういう変り易いものが相対時間でありましてそれは決して本当の時間ではないのであります。過去・現在・未来に属する相対時間と云うものはこうしたものであります。吾々は吾々の相対的活動を、地球の公転・自転の運動の何分の一だけ働いたと云う様な標準を求めるために、こう云う相対時間を使いますが、それは結局「目盛」に過ぎないのであって、本当の時間「実在の時間」というものは、過去・現在・未来というものの流れを超えたところの存在、「永遠の今」「久遠の今」「今此処の生命(いのち)」であって、この今此処一点の生命が「久遠の今」に生きているのであります。】
【さて此の絶対時間―換言すれば、「久遠の今」というものは一体何であるかというと、生命そのものである。「今此処の一点」の生命が振動する。生命の振動の持続が時間なのであります。生命の振動が止ったら時間がなくなってしまう。生命振動の意識が時間であります。】

隣人に対する罪

2019-01-31 10:08:46 | 日記
第一の神性隠蔽の復習を初めに致しますと
一言で言えば、「肉体なし現象なし実相あるのみ」の真理を悟らない
ということでありますが、
雅春先生はこう書かれております。
(参考 生命の実相第13巻 谷口雅春 日本教文社)
【イエスは「第一にして最大なる誡命(いましめ)とは心を尽くし、精神を尽くして全生命を捧げて神を愛せよ。」言いかえると神と本来一体なるところの実相を自覚せよといったのであります。これ第一の根本なる誡命を守ることができたならば、以後のいっさいの誡命は自然に整うといったのがイエスの教えであることは、前節ですでに詳説したところであります。】
今日ここで私(投稿者)が書きたいことは
多くの人々が自分の主観のみが正しいとする人生観世界観を
脱することが必要だということであります。
過去世及び現在までの人生において
潜在意識に蓄積されてきた「現象あり」の間違った思考は
本来神の世界・仏の世界に「自他一体」の存在であることをくらませ
自己中心の“我”の世界を
人自ら自由なる心で作り出してしまっているのです。
ドトールなどで人の会話を聞いていますと、
自分と同調する人との会話のうちに
自己の存在の安心感を求めている人がほとんどであることに
気が付きます。
この自己中心の我の世界観から脱するには、
“人間神の子”“生命の実相”の真理を
悟る以外にないわけであります。
(参考 生命の実相第13巻 谷口雅春 日本教文社)
【その次にイエスがあげた第二の誡命はなんであるかといいますと、「おのれの如くなんじの隣人を愛せよ」ということであります。
そこで隣人に対する罪とは、この第二の誡命を破るということにあたるのでありますが、なぜおのれのごとく隣人を愛しないことが罪であるかと申しますと、それは“われと隣人とは本来一体である”からであります。「われと隣人とは本来一体である」という事実は、どこから来るかといいますと、「われと神と一体である」との第一最大の真理から必然生まれてくるのであります。甲も神と一体であり、乙も神と一体であり、丙も神と一体である。かかるがゆえに甲も乙も丙も神と一体であることになるのであります。】


実相を観て癒したイエス・キリスト

2019-01-30 11:15:44 | 日記
イエス・キリストが多くの病人を癒したのは
「実相を観る」ことによったのであります。
これは雅春先生や
藤原敏之先生が講話によって
病者に「信」と「観」の転換に導き、
本人の神への信仰が神癒の奇蹟を起したのと
同様なのであります。
「信」と「観」の転換が為されれば
必ず不思議に健康が顕われます。
(参考 真理第一巻入門編 谷口雅春著)
【イエスは魔術師ではなく、科学者であって、祈りの科学を知らぬ者が為し得なかったことを心の法則を応用して成就したのであります。若し我々が聖書の伝える記録を真実だとするならば、イエスは懇願などは決してしなかったのであります。次にその例を挙げますと、マタイ伝第8章13節には、ローマの百卒の長がその害する下僕(しもべ)を癒して頂きたいと申し出たことがあります。すると、イエスは「行け、汝の信ずる如く汝になれ」と云われました。その同じ時刻に僕(しもべ)は癒されています。祈りの言葉は発しなかった。しかしイエスは信念の法則を応用したのであります。強く信ずると云うことは祈りであります。またペテロの母が熱病で床に就いていました。その時、イエスその手に触れ給うと、熱が去り、その女は起ってイエスに伝えたとも書いてあります。所謂祈りの言葉は何も言わなかった。イエスは自己の信念の内に相手の健康さを念じて癒したのであります。
「二人の盲者(めくら)彼の後に従い、
大声に叫びて言う、我等を憐み給え。イエス言い給う。汝、われこれをなし得ると信ずるや。彼等言う、然り。イエス彼等の目に触れて言い給う。汝の信ずる如く汝になれ。即ち目開く。イエス何人にも告ぐる勿れと固く戒め給う。」
イエスは祈りはしなかったが、心の内に強く実相の安全さを見給うたのであります。また聖書には次のような事が書かれています。
「見よ。手の萎(な)えたる人あり。イエスその人に言い給う、汝の手を伸ばせ。その人手を伸ばし、他の手の如く完(まった)くなれり。」
イエスは全く祈りを捧げず、唯、相手に内在する生命の実相の完全さを見られたのであります。】