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私は自分を幸運であると思って感謝している

2013-11-30 20:25:39 | 日記
私が
身近な周囲の人たちと話しあったり、
手紙や電話で
知人の近況を聞いたり知ったりすると
非常に多くの人が
のっぴきならぬ大変な問題を
もっている人ばかりなので、
人間って
こんなにも
「苦」を背負っている存在なのかと
唖然とする。
私が相談に乗って
何とか一諸に考えてあげられる人は
ほんの一握りであって、
あとは実際のところ
私には何もできない。
例えば生まれ付きのハンディを持っている人には
私には何もできないし、
どこか体が悪い人に対しても
なす術がない。
昔中学生だった時に
体育の先生が
黒板に
「人生とは苦の連続である」と
下手な字で書いたのを
覚えている。
そういう人たちがとても多い中、
私は幸福でいるわけであって、
どう表現していいかわからないが、
私は幸運に恵まれていて、
ありがたいことと
思うのみである。

真理は自分の裡にあり

2013-11-30 18:11:40 | 日記
真理は
実は
自分自身の中にと言うか、
奥にと言うか
あるのであって、
現象を超えた存在である。
このことは
「生命の実相」に書かれていることだが、
私がはっきりと分ったのは、
「正法眼蔵を読む」を
通してである。
自分自身の中にあるのなら、
それを
炭坑夫のように
穿っていけばよいのであって、
現象的なものに真理はないのだから、
自己を究めることだけ
やればよいのだ。
そうすれば
神の子・神の国は出てくるのだから、
まず
外に求めまくることを
やめたほうが
よいのである。
さてそれなら
何によって自分は守護されるのかといえば、
真理探究が
そのまま守護と
なるのである。
これも
正法眼蔵が
説いていることだ。
私の「正法眼蔵を読む」についてのブログのアドレスを
書いておきたい。
http://blogs.dion.ne.jp/shuneichan/
よろしければ
見ていただきたい。

人間関係の円滑油は上手に使われる「情的要素」

2013-11-29 16:47:50 | 日記
公的な場面では
情実は許されないが
私的場面では
情的要素が
人間関係の円滑油として
必要である。
これがないと
ぎくしゃくする場合でも
上手で場に応じたやり方においてあると、
気持ちを
伝えることもできる。
「情的要素」を単純に
金銭的なものとして
考えないでいただきたいが・・・

しかし、
情的要素が
その範囲を越えて
利害目的で使われると、
今度は
人間関係を
不正なものとしてしまうことにもなる。
だが適度な情実は
私的場面においては、
人間関係を正しくする上で
必要なことも多い。

自己の運命を良くするには!

2013-11-29 10:39:16 | 日記
何故
「生命の実相」という本が
人間の幸福のために
必要であるのか。
それは「生命の実相」が
真理の書で
あるからである。
「生命の実相」の本が必要であることを
谷口雅春氏は
「生命の実相」の中で
ご自分で
書いておられる。

『(参考 生命の実相第38巻幸福篇下 谷口雅春著)
<七月一日>
いろいろと変わった思想のものを読んで、思想を混乱させればさせるだけ、自分の運命が混乱してくる。
罰を当てるのではないが、いちどお蔭を戴いてから去ったものの運命がそれほど花々しくないのは、その人自身の思想が混乱しているからである。
元の思想に還ればまた幸福がその人のために蘇ってくるのだが、いったん光明思想を去った者が元の思想に還ることは負けたような気がして正直に懺悔の心を表白することができない。そこでその人はいつまでもグズついて不幸の中に身をまかせているのである。

真理の前に跪くことは、不幸の中で身をまかせていることよりもいっそう勇敢なことであることを知らねばならない。』


真の主体性は、内心の声にしたがうこと

2013-11-28 15:22:08 | 日記
真の主体性は
内なる声を聴き、
内なる声に従うことである。
ただこの内なる声が
狐か狸の霊の声では困るので、
自己神性の声を聴くには
幼子の素直さが必要であり、
内心の声の主が
自己の内なる「神」である
必要はある。
ともかく、
自己内心の声は
実相が現われるにしたがって、
ますます明確に出てくるようになるので、
これに従うことで
本当に主体的で
価値を踏まえた生き方に
なっていくのである。