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「疲れたらやすめ、突っ込むな」

2012-11-30 20:40:27 | 日記
ちょっと無理があると、
私は強行せず、
無理を私の予定から外してしまう。
私の年齢では
これは少しきついと感じたならば、
どうして
突っ込む必要があろうか。
どうしても
やる必要のあることだけは、
毎日やらなければならないが、
それ以外の
さほど必要でもないことは、
適当に
問題にならぬ程度に量を減らして
やればいいのである。
「疲れたらやすめ、突っ込むな」である。

祈りがあることが、幸い

2012-11-30 20:29:12 | 日記
私に祈りがあるということは、
何と幸いなことであろうか。
私に手に負えない難題がふりかかろうとも、
祈りの中で神に預けてしまえば、
神はよいように
必ず、
なさってくださるからである。
だから
一見重たい石がのしかかっていようとも、
重たい石あるがままで、
背中からその石をはずし、
地べたに置くことが可能である。
本当に
この祈りというものは
私にとって
ありがたい存在である。

仏と魔が混在して見分けがつかぬ人がいる

2012-11-29 09:49:08 | 日記
人間にも(これは主として大人の話だが)、
その人にある仏と魔の見分けが
まったくわからないように
見える人がいる。
あの人は
本当はよい人なのか、
裏がある人なのか
まったく見分けにくいのである。
こういう人は
仏と魔が混在していて、
本人自身が
それがわからず行動している。
しかし私たちは心の修行を積んで、
その人の同時に混在する仏と魔を
同時に見抜くこともできるのである。
こうなってくると、
人にだまされることも、
無くなってくるはずだ。

子どもの教育

2012-11-29 09:18:44 | 日記
子どもというものは、
いたずらもするし、
物欲もあり、
いうことをしっかり聞いてくれる時もあるが、
聞きわけのない時もあって、
この一見悪のように見える時に、
この子どもは悪い子だ、と判断し、
決めつけてしまうと、
その子どもに対する見かたが固定化し、
その子を実際に悪い子に
もっていってしまうことにもなる。
しかし実際は
その悪と見える現れの奥に
神性とか仏性と呼ばれる、
善そのものような、
すばらしいものが隠れているのであり、
その本来の善性を引き出してあげるのが、
教育というものなのだ。
たしかによく観察すると、
子どものあちこちに、
素晴らしさが垣間見える。
しかしこの仏と魔とは、
混在しているから、
ここから仏を見分けて育ててて行くのは、
ちょっと難しいところがあって、
それが出来る専門家を
必要とする。
教職が聖職であるのは、
そのような理由による。
また面白いのは、
その仏が子どもに顕われてくると
以前あった悪の面が
ケロリと無くなってしまうことであり、
これを見ると
悪というのは、
単に実(プラス)が欠けているという状態なのであることも
わかってくる。
ただ人間は
物質的世界で物質の扱いを通じて人間の完成をしてゆく存在であるから、
物質を粗末にしてよいなどということはなく、
むしろ、
物質の奥に、別次元に、「神」があると言った方が
正しく言えているということだ。
物質的展開そのものが
実相理念の表現だから、
そこにおいて、
理念なるものを
キャッチすると
素晴らしいのだ。

同化する能力+客観性

2012-11-28 16:41:34 | 日記
同化(同一化)の能力というものは、
芸術鑑賞の能力や
小説を
深く読む能力にも
つながる。
大事な能力だ。
しかしまた、
それだけ深く同化してしまうことは、
客観性を失う危険もあるし、
愛する対象をうしなった時には、
うつろになり、
自己を失う危機に陥る場合もある。
同化する能力がある人には
同時に客観性が必要だ。