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現象と実相との関係

2017-12-31 18:18:51 | 日記
今読んだばかりの四部経のどこかに
「肉体は『心』の痕跡にして」という部分があり、
それが私の心に残った。
もう一か所
「病気とは『迷い心』の表現に過ぎざるなり」
という箇所も心に引っかかった。
最初の箇所についてだが、
肉体が「心の痕跡」だとすれば、
現象世界の総てが神の「心の痕跡」なのではなかろうか。
たしか『実相金剛心(?身)の神示』の中に
現象世界にあるものは
すべて実相世界にもあると書かれていたのだが、
現象の物質そのものがそのまま実相世界にあると
いうわけでないのは勿論のことだが、
現象と実相とは
何らかの形で
関係はあるのだと思われる。
現象世界は実相世界の写し世だからだ。
いずれにしても
実相世界は神の世界であるから、
円満完全であることは、
確信している。


ローマ人への手紙

2017-12-31 11:25:07 | 日記
<ローマ第14章>
キリスト者の倫理(12・1-15・13)
互いにさばくな(14・1―12)
6.日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。
7.すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はいない。
8.わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。
9.なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。
10.それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。

人間は生死を超えた不滅の存在

2017-12-31 11:10:17 | 日記
「現象はナイ」とすると
現象とみえるものは何なのだろう。
現象の形を見ずに働きだけを見ると、
それは“神性”とか“仏性”とかいう
神や仏の働きということになり、
この現象世界は
ただ
実相世界と同様に
神仏の世界であると
いうことになる。
人間は生にあらず、死にあらず、
生死をこえて、
仏性それ自体である、
と「正法眼蔵」は言う。
【(参考 正法眼蔵を読む 現成公案の巻 谷口清超著)
<現象に自己はない>
例をもって考えてみよう。人が、舟に乗って行く時、外の岸ばかりを眺めていると、岸の景色が流れ移って行くように思いあやまる。ところが、こっち側の舟(自己)が動いているのだということに気がついた途端、岸が動くのではなく自分自身が動いていたのだと分る。自己の中に、岸の動きがあったのだ。即ち、自己の中に総てがある。現象すらも、自心の展開であったと分るのである。それ故、乱れた心で現象(万法)を理解しようとすると、自分の今の心、この心(乱れた心)が常住で、変って行くのは“現象の方だ”と思いあやまるのである。ところが、現象は心のあらわれだといっても、それは仮の心、現象心のあらわれである。そんな心も外界も、本来はナイものであって、常住ではない。それ故、修行してじっと自己をみつめると、現象と“われ”とは何の関りもないことがわかる。即ち「万法のわれにあらぬ」である。が「法すでにおのれに正伝す」であるから、真の自己は仏道そのものと一体であり、現象の万法が真の自己とは無関係ということになる。この道理がちゃんと分るはずである。】



たった今、実相を観じる神想観をした

2017-12-31 10:14:33 | 日記
平成29年大晦日の午前9時、
実相を観ずるのみの
神想観を実修した。
「南無実相円満完全大調和」と観ずるまさにその一点に、
不可視のいのちの根源があって、
そこが時間・空間発せざるところの
「無」の一点なのでもあると
思う。
そのいのちの世界こそは、
この現象世界で
私自身を軸に万物が自他一体で展開しつつ存在している
神の子のそして神の子たちの、
あるいは仏のそして仏たちの
一大交響曲が演奏されている
奥深い世界なのだと思う。
現象世界はそれの写しだ。
正法眼蔵は、
仏教の見地から実相世界を説いていることが素晴らしく、
キリスト教の聖書も
神の国を明確に言葉で表現していて、
私はどちらからも実相のイメージをいただいていることが
私なりの実相の捉え方になっているので、
ありがたく感じている。

*投稿者より 皆さま良いお年を!