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子どもの荒れは、親の心の荒れ

2014-07-31 18:01:12 | 日記
現在学校で子どもの心が
落ちつかなかったり
荒れた姿を簡単に現わしたりするのは
何故かと言えば、
親たちの心に確固たる目標もなく、
つまり
親たちの心が不安定であるということを、
示している。
子供達は
自分の親の心の
かくれた部分をも
そのまま表現してくれるから、
子ども達の現在の顕われは
親たちの心が
現在どんな状態であるかを
鏡になって
見せてくれているのだ。
では親たちの心が安定し
確かなものとなるためには
どうしたら良いのか。
これこそは根本問題であるが、
私にも
確たることは言えない。

神想観の中に生活がある

2014-07-31 15:53:17 | 日記
毎日の生活のなかで、
神想観を欠かさず、
神想観が
より深く実相を観ずるようになってくると、
生活の中に神想観があるというより、
神想観の中に
生活があるといった感じになってくる。
現象世界は
自分の霊的食べ物のようなものに
感じられてくる。
このへんのところを
道元禅師は
上手に
表現している。

【(参考 正法眼蔵を読む 家常の巻 谷口清超著)
<独坐大雄峰>
仏祖の日常には必ずこの「奇特の事」がある。それは即ち「独坐大雄峰」(坐禅)である。いくらこれを「坐殺する」と言っても、なおこれが「奇特の事」であることに変りがない。さらにこれ以上の奇特事もある。それが「浄慈の鉢盂(はう)を天童に移して喫飯する」のである。自然法爾の喫飯だからである。奇特事とは、このような夫々の喫飯である。それゆえ「独坐大雄峰」も亦喫飯である。鉢盂は喫飯用であり、喫飯用は鉢盂である。それゆえ淨慈山が鉢盂であり、天童山が喫飯である。何も別物があるのではない。それを飽了する。飽了して、さらに喫飯する。これが仏道である。そもそも鉢盂とは何か。ただの木片ではなく、黒い漆の器でもない。勿論単なる石や鉄などではない。物質の形を越えているから、底がなく、又鼻孔もない。その口が虚空を呑み、虚空を合掌して受けるのである。】

神界、霊界と現象界とのつながり

2014-07-30 19:40:50 | 日記
世の中で
異常・アブノーマルな事件がある時は、
その周囲で
異常・アブノーマルな心が育ってしまう
環境があった、
ということになる。
具体的なことは何もわからないが、
原因があって物事が生じるのだから・・・

戦前は神界、霊界と現象界とのつながりは
あったのだと思う。
戦後
その関係が
断たれてしまったのではないか?
そうしてしまった大元は何だろう?

苦しみの中にいる人達と共に

2014-07-30 18:55:00 | 日記
高齢者の生きがいとか
生きる喜びを作るために
共に生きる会のリーダーとして
手伝って欲しいという
誘いを受けた。
でも私は
子ども達のことが心配で
その話を受けられない。
学習指導を通して
子ども達の心の育成の手助けをする、
こんな方向に
いつの間にか
来てしまった。
不登校で苦しむ子、
勉強で悩む子、
人生問題で
行きくれた人たち
そんな人達と
一緒になって
人生を歩みたい。

「一切唯心造」

2014-07-29 21:53:45 | 日記
心一つで
天国みたいな
楽しい環境世界を造り出したり、
地獄みたいな苦しい環境を
造り出したりしているが、
当の本人は
その事実に
気づいていない場合が多い。
この真理を
「一切唯心造」という。
でも多くの人は
仏教哲学なんて
学んでいるわけではないから、
無理もないのだ。
ただ
日々苦しんでいる人は
日常思ったり考えたりしていることの結果が、
現在
出てしまっているわけなのであるから、
早くそのことに気づいて
現状を修正するとか
好転させるとかしないと
苦しみが持続して
人生の楽しさ、素晴らしさを味わうことが不可能とならないよう、
自分の想いの間違いを
直す必要があると思う。