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顕現の過程・・・「神」は個人的偏寄(かたより)なき「心」としては吾々に創造力として活(はた)らきかけるのである。

2021-01-31 11:46:15 | 日記
神が現象界にはたらくのは「創造力「としてである。
つまり人間は実相に属することを
神に創造してもらえばよいのである。
・スクリーンの上に映出せられたる絵は物質、肉体、状態、形象等に譬うべきである。
・それは顕現せるところの宇宙の本体なのである。
・「物質は最も低き階級に顕現せる霊なのである」
・それ故に吾等がスクリーンの上に、現実的なる像を如何にハッキリ見ようともそれは実は光(「霊」の譬喩)で成り立っているのである。
・それは永遠の本質を分ちもち、そして想念が永続する限り永続するものである。
・吾等は神と一体なるが故に、自分の想念するところのものは亦彼の観念なのである。
・「神」は個人的偏寄(かたより)なき「心」としては吾々に創造力として活(はた)らきかけるのである。
・それ故に自分(人間)の心に描くところのものは何であろうともスクリーンの上に録(しる)し出される・・・即ち自分の肉体及び自分の事件として顕現するのである。
・結局人間は、実相に属する物事を、神に創造してもらえばよいのである。
(心と運命 谷口雅春)
【スクリーンの上に映出せられたる絵は物質、肉体、状態、形象等に譬うべきである。それは顕現せるところの宇宙の本体なのである。それは空間及び時間の範疇に於いてあらわれた「霊」である。「物質は最も低き階級に顕現せる霊なのである」それ故に吾等がスクリーンの上に、現実的なる像を如何にハッキリ見ようともそれは実は光(「霊」の譬喩)で成り立っているのである。それは永遠の本質を分ちもち、そして想念が永続する限り永続するものであるが故に、これを幻の世界と呼ぶは、如何に愚かしきことであろう。若しこれをしも真実(リアル)でないと云うならば、何物も実在ではない、神も亦実在ではないと言わなければならない。
 自分は想念なしに神を考えることは出来ない。吾等は神と一体なるが故に、自分の想念するところのものは亦彼の観念なのである。そして「神」は個人的偏寄(かたより)なき「心」としては吾々に創造力として活(はた)らきかけるのである。それ故に自分の心に描くところのものは何であろうともスクリーンの上に録(しる)し出される・・・即ち自分の肉体及び自分の事件として顕現するのである。】

若しスクリーンの上に映し出された姿が、面白くないものである時、吾等が為すべきは光の方へ目をやる事だ「若し汝の目に光あらば、汝のすべての肉体は光にて充たさるべし」

2021-01-31 10:57:49 | 日記
要約します。
・若しスクリーンの上に映し出された姿が、面白くないものであるならば、吾等は何を為すべきであるか。
・吾等はそれに先立つ原因によって発生した結果であることを知るのである。
・吾等は光の方へ目をやるべきである。「若し汝の目に光あらば、汝のすべての肉体は光にて充たさるべし」と。
・それ故に吾等は自己の全想念を目的への誠実さで欲する観念に集注すべきである。
(心と運命 谷口雅春)
【若しスクリーンの上に映し出された姿が、面白くないものであるならば、吾等は何を為すべきであるか。吾等はそれを単に好まないと云う理由のみをもって、それが存在しないと云うべきであるか? 否! 吾等はそれを消し去ろうとすべきあるか? 否! 吾等はそれに先立つ原因によって発生した結果であることを知るのである。それ故に肉体が病気である時、そして「貧乏」がその痩せさらばうた姿をあらわした時、若し吾等が賢こければ、吾等は結果の方へ救治策を求めるには及ばないのである。吾等は憐れな身体を火で灸いたり、鍼で刺したり、薬毒で刺激したりするには及ばない。又事業を旨く進行せしめようとして競争場裡や、財界へ今よりも一層気狂いじみて跳び込んで行くにも及ばない。吾等は光の方へ目をやるべきである。「若し汝の目に光あらば、汝のすべての肉体は光にて充たさるべし」と。それ故に吾等は自己の全想念を目的への誠実さで欲する観念に集注すべきである。】

2021年1月勉強会資料

2021-01-30 20:52:37 | 日記
実相現象化になぜ神想観(祈ること)が必要であるのか
2021/01/24
実相を顕わすには祈ればよいのである。
だが多くの人は祈らないのである。
祈らなければ実相が顕われるはずがないのである。
神様は神の子である人間が
神を求めて「自分は神の子です」と必死で親様を求める子供を
見棄てることなんてあり得ないのである。
認められて(自分が真理を分って)神が顕われるのである。
「真理は汝を自由ならしめん」となるのだ。
神に護られるためには、
「自分は神の子である」と一念不動で主張し、
その真理を「信」じ切り、
そのことを絶対他力の無条件無我全托で
神に任せ切ることである。
そうすれば絶対に、万に一つの狂いもなく、
神は私を護り切ってくださるのだ。
英国の光明思想家のトーマス・トロワード判事は
人間が本来そうである実相世界の主人公である実相の現象化には、
創造の神が実相世界を想念によって、
神御自身を元におつくりになったと同様に、
人間は神の子(神)なのであるから、
実相を現象化する方法として、
同様に自己想念(観)によって実相顕現するのだと、
彼の「The Creative Process In The Individual」という本の中で書いている。
何故“神の子”と“実相”を観じないと「神の国」が現われてこないのかという理由が、
これでわかる。
人間は“神の子”なんだから‟神の子”を観じることで
実相の現象化ができるのである。
つまり実相現象化になぜ神想観が必要であるかの理由はこのことである。
祈るから神は祈りに応えてくださるのである。
ということは祈らないと実相は顕われないということです。

「何となれば、彼は彼の愛を吾が上に置きたれば、吾れ彼を救い出せばなり」と。何から彼を救い出すのであるか、それは幻覚からではない。現実の危険からである
2021/1/24
谷口雅春先生は
「現象は無い。病気もない。それは心の反映に過ぎない。実相を観じれば病気なんて無いものは消えてしまう」
と、喝破するのは、
以下のご文章を言っているのだ。
(心と運命 谷口雅春)
神への信仰が
彼を救うのである。
彼が神を愛するが故に、
神が彼を救い出すのである。
神は嘆願の単なる対象ではない。
神は救済を真理によって祈れば
実際の救済を為してくださるのである。
(心と運命 谷口雅春)
【斯様にして吾々は、精神治療の教理には何ら「否定」を行う余地がないことがわかるのである。何故なら吾等が、病気又は不幸でないことを欲すると宣言することは一つの肯定であるからである。吾等が自己の陥っているところの恐怖や、危険に降伏しないと宣言することは、吾々にとって如何にも明らかであるところの事物を、経験でないと否定するのではない。が、それは最早吾々を捕えることが出来ないと肯定するのである。それ故に『詩篇』の第91には何人も疫病に罹らないとも疫病に苦しめられないとも書いてはないのである。「それは汝の近くに来たらざるべし。唯汝ら目をもって(汝自身の経験に於いてではない)悪の報いを見るに過ぎざるべし。何となれば、彼は彼の愛を吾が上に置きたれば、吾れ彼を救い出せばなり」と。何から彼を救い出すのであるか、それは幻覚からではない。現実の危険からである。「吾れは彼を高きに置きたり、何故なら彼は吾が名を知ればなり」と。】
(参考 詩篇第91)
第 91 章
1いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
2主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
3主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
4主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
5あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
6また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
7たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
8あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
9あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、
10災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
11これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである。
12 彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。
13 あなたはししと、まむしとを踏み、若いししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。
14 彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
15 彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。
16 わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。

絶対我としての彼・・・神・・・は悪を経験することが出来ない。何故なら彼は決して差別的知見を有っていないからである。
2021/1/20
「神においては“悪”とか‟苦痛”なるものは存在しない」とホルムスは言うのである。
このことは
「現象丸ごとナシ」で
現象の奥の奥に、現象と離れて不生不滅の「神の国」があり、
そこに住んでいる実相人間のみが本当の自分なのであるという、
真理の神随に至らないと
にわかには納得しづらい深い内容だ。
道元禅師は、
現象世界に住む人間の生を
一幅の絵を実在が描くようなものだと、
つまり現象の生を芸術みたいに書いているが、
谷口雅春先生もこうした記述はなさっており、
そうした観点から見れば「人生に苦痛なし」と
捉えることも出来ようが、
これには高い心境を必要とする。
つまり人間が神であるから言えることなのだ。
・絶対我としての彼・・・神・・・は悪を経験することが出来ない。何故なら彼は決して差別的知見を有っていないからである。
・苦痛は神のうちには決して自己を滅ぼしつくす経験としてあるのではない。何故なら絶対我のうちには決して何等の偏寄った選択もないからである。
・苦痛は永遠の可能の秩序のうちに横たわっているのであろうか・・・そうでなければ、吾々はそれを経験することが出来ない筈である。
(心と運命 谷口雅春)
【絶対我としての彼・・・神・・・は悪を経験することが出来ない。何故なら彼は決して差別的知見を有っていないからである。彼は常に無差別的渾一を意識している。全要素は彼にとっては知られているのである。従って彼は相対的関係に於いてはものを考えない。それ故、神はあらゆる人間の経験を分ちもつことなしには、渾てであることは出来ないにしても、尚苦痛はただ個体的顕現のうちにのみあるのである。苦痛は神のうちには決して自己を滅ぼしつくす経験としてあるのではない。何故なら絶対我のうちには決して何等の偏寄った選択もないからである。神はあらゆる既知の要素をもって選択する。では、苦痛は永遠の可能の秩序のうちに横たわっているのであろうか・・・そうでなければ、吾々はそれを経験することが出来ない筈である。而も苦痛は神を虜(とりこ)にすることは出来ないのである。・・・何故なら神自体は常に完き智慧と、全き選択とにより苦痛を超越しているからである。】
今日の部分は投稿者が、
フランス文学科の卒業論文と修士論文において問題にした、
「人生に何故苦しみというものが存在するのか?」
という疑問への解答になっている気がする。

人間の選択の唯一の禍(わざわい)は「不完全」と云うことであるがそれは禍ではない。何故ならその禍は吾等が全真理を理解し、それを駆使した時に消滅して了うからである。
2021/1/20
今日のご文章は重要である。
吾等が毎日為すところの行動の不完全に触れる真理を述べているからだ。
吾等の選択の誤りから生ずる禍は、
禍ではないのである。
何故ならその禍は吾等が全真理を理解し、それを駆使した時に消滅して了うからである。
(心と運命 谷口雅春)
【吾等は「永遠なるもの」、「全能なるもの」、創造者たる「宇宙霊」に関連しているのであるから、吾等は自己のために選択するのは、「永遠なるもの」「全能なるもの」、「創造者なるもの」の為に選択することであると知らなければならない。併し、神は吾等に自己の欲する事物を選択するために、個性を与え給うたのであるから、彼は吾等の選択せる事物を、また吾等のために製作し、創造してくれるに相違ないのである。然らば吾等が聡明を失って・・・即ちその場合に於ける全要素についての知識を有たずに選択したからとて、失望するにも当らないし、神を呪うにも当らないのである。唯一の禍(わざわい)は「不完全」と云うことである。そしてそれは禍ではない。何故ならその禍は吾等が全真理を理解し、それを駆使した時に消滅して了うからである。
 そして此れこそ吾等に何故「禍」の経験があり得るのか。しかも人間の過失は何故神の責任ではないかと云うことを説明してくれるに相違ない。】

「自分はコロナなんかにかかるはずはない」という信念を持てれば、それが一番良い予防法です。
2021/1/19
コロナコロナで毎日心配してたって、
心を変えなければ
心配は除れないでしょう。
「自分はコロナなんかにかかるはずはない」という信念を持てればいいわけであり、
それには、神と一体の自覚をもてば、
それで解決です。
(参考 真理第三巻 第6章 地上に天国をつくる自覚)
<心のフイルムに良い画を写しましょう>
 そんな憎み、怒り、嫉妬、怨み、奪い合い・・・・等のフイルムを人類の心の中から取り去ったときにのみ、この世界にエデンの楽園のような至福の世界が実現するのであります。憎みや、怨みや、争いの心を取り去らないで、休戦会談をしてみたとて、政治会議をして見たとて、それは無駄なことは明らかなのであります。この世界は、心のフイルムが形にあらわれた世界でありますから、心をかえずにいて幸福の世界や、平和の世界を実現しようと思っても、醜いフイルムをかけて置いて、美しい映画を見ようとするのと同じように無駄なことであります。

神の最大なる自己表現・・・諸君及び吾等は神の目的なのである。何故なら吾々を通じて神は間断なく大いなる冒険と、新しい経験とに入りつつあるからである。
2021/1/17
「諸君及び吾等は神の目的なのである。何故なら吾々を通じて神は間断なく大いなる冒険と、新しい経験とに入りつつあるからである。」
と以下の文章に書かれている。
これはどういう意味なのか。
大いなる冒険、新しい体験を為しつつあるのは、
自分の内なる「神」なのではなかろうか。
見えない“神の子”が肉体人間となって
人生という絵を描くのある。それも何枚も・・・。
(心と運命 谷口雅春)
【神が最大なる自己表現の試みは、吾々の各人に於いて遂げられるのである。吾々は此の大いなる構図の内に吾等が演じている驚くべき役割を暁(さと)ることを知らねばならない。諸君及び吾等は神の目的なのである。何故なら吾々を通じて神は間断なく大いなる冒険と、新しい経験とに入りつつあるからである。凡ゆる可能の経験が享受せられ得るのでなければ、それは全く神らしくないことである。個性なき絶対実在そのままとしては、神は吾人が個体として有(も)つ如き喜ばしき経験を有つことは出来ない。何故ならば彼は恋人なしに、恋するとは如何なることであるかを体得することが出来ないからである。また神は時間を超越せる絶対実在その儘としては、未来の期待を楽しくことが、どんなことであるかを体験することは出来ない。また神は空間を超越せる絶対実在そのままとしては、旅行の楽しみがどんなものであるかを体験することが出来ない。また神は直ちに万事を知る絶対者なるが故に、その儘では論理や帰納的思索の喜びを味わうことが出来ない。併しこれらのあらゆることを為し、あらゆる経験を閲(けみ)し得る能力がなければ、神が神たるの資格はないのである。かるが故に神は個体としての顕現を冒険し、個人我としてあらわれたのである。】

「その名を信じた者」と云うのは「名」はコトバであり「実相」であります。自分の「実相」が宇宙の創造主たるコトバと同体であると知った者は、既にもう神の子である。
2021/01/15
私投稿者が
ここにこそ“生命の実相”の神随があり、
これで救われるかも知れないと感じたのは
2015~2016年にかけて
ヨハネ伝を英語で読んだときのことであり、
本日のご文章は
その救済の原理が説かれており、
完全に聖経『甘露の法雨』の云っていることと
同一なのであります。
(参考 ヨハネ伝講義 谷口雅春)
【もろもろの人をてらす眞の光ありて、世にきたれり。彼は世にあり、世は彼に由りて成りたるに、世は彼を知らざりき。かれは己の國にきたりしに、己の民は之を受けざりき。されど之を受けし者、即ちその名を信ぜし者には、神の子となる權をあたへ給へり。かかる人は血脈によらず、肉の欲によらず、人の欲によらず、ただ、神によりて生れしなり。(ヨハネ伝第1章9~13節)
 ところが此処に人を照らす真(まこと)の光があって出て来たと云うのであります。之はイエス・キリストのことであります。
「彼は世にあり、世は彼に由りて成りたるに世は彼を知らざりき。」つまりキリストの生命は宇宙遍満のコトバがその生命として宿って出現したのである。宇宙の創造はコトバによって即ち波動によって行われたのである。従ってコトバが宇宙の創造主であり、だれでも自分の中に生命が宿っていることを知る者は、この世界は自分のコトバの所造だと知らなければならない。ところが世は彼を知らなかったのである。そのコトバこそ真の光であった。つまり宇宙を照らしている光明遍照の光がそこに人格化して現われて来ているのでありますけれども、それを知らない人が多いのであります。然し、コトバが創造主であり、そのコトバが自分に宿って自分の生命となっていると云う真理を受け信じた者は、神の子となる権を与えられていると云うのであります。「その名を信じた者」と云うのは「名」はコトバであり「実相」であります。自分の「実相」が宇宙の創造主たるコトバと同体であると知った者は、既にもう神の子である。世を照らす光がやって来た。それはお前の生命の中に宿っているではないか。その光を見よと云うのであります。見ると云うことは知ることであり、知ることが信ずることなのであります。「わからんから信ずるほかはない」と云うような「信」は本当の「信」ではないのであって迷信であります。】


今私たちのいるこの現象世界が、このまま極楽浄土と化する、これこそが谷口雅春先生の本当に目指されたことではなかったのでしょうか?
2021/1/30
今私たちのいるこの現象世界が、
このまま極楽浄土と化する、
これこそが谷口雅春先生の
本当に目指されたことではなかったのでしょうか?
「現象世界を極楽浄土にする」ということです。
これは夢なんかじゃなく、
現実に可能なのです。
真理が可能とするのです。

(参考 真理第三巻 第7章 無限の遺産を嗣ぐ自覚)
 <山も川も草も木も物質ではない>
 此処が極楽浄土だとわかれば、別に西の方へ、極楽浄土をもとめる必要はありません。又、死んでから極楽へ行こうなどと考えて、今いる此の世をおろそかにする必要はありません。今此処極楽浄土なのですから、唯、感謝感激で歓びに胸打ちふるえながら、世のため人のために尽くすことが出来、その尽す事、その事が歓びとなって来るから、働きも、課せられたる辛い仕事とはならずに、遊戯となるのです。すべての仕事が感謝感激の遊戯となるのですから、全く佛教経典にある「遊戯三昧」と云う語が当てはまるわけであります。この世がこのまま遊戯みつる天国浄土となるのです。そのためには別に改宗する必要はありません。お釈迦さんがサトリをひらかれたときと同じように山も川も木も国土も物質ではなく、佛の‟いのち”のあらわれだと観ることが出来たら好いのです。