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新約聖書「ルカによる福音書」

2020-12-31 19:14:47 | 日記
新約聖書「ルカによる福音書」
24章 復活する
5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った、「なぜ、生きておられる方を使者の中に捜すのか。
6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。

愛について・・・吾等の観るところでは「創造の霊」の目的は愛である。

2020-12-31 11:10:18 | 日記
「創造の霊」の目的は愛であると、
本当のキリスト教そして、
雅春先生は教えてくださっている。
だがこの真理は、
宗教的真理から納得できることであるが、
多くの真理を知らぬ人たちは、
理解できないから真理にそむく生き方をしている。
やはり創造の神の“創造の原理”つまり「実相独在の真理」を
知ることによって
世界は正しい方向に行くのである。
(心と運命 谷口雅春)
【吾等の観るところでは「創造の霊」の目的は愛である。愛とは何であるか? 愛とは両個(ふたつ)の同種族のものの結合である。それは互いに相寄って両個のものが完体となることである。吾等がいずこに目をやろうとも、吾等は斯かる結合のなきところに、ライフの不完全さを見出さずにはいられないであろう。目に視える宇宙全体は此の「内なる原理」の外なる表現に過ぎないのである。それは分子の親和力にも見出すことができる。同種族のものがたがいに斯く相牽引することをしなければ、あらゆる物質分子は互いに離れ去って、この宇宙は混沌として捕捉しがたき不完全なものとなるであろう。植物の世界に於いても吾等は此の原理が存在することを見るのである。実を結ぶ植物は女性の花が、男性の“それ”によって受胎せしめられない限りは、更にその植物を生み出すことは出来ない。植物の性的機官が未だ発見せられない以前に於いては、例えばエジプトに於いては各個の植物は雌雄の別があると認められていたのである。ヘロデタスの云える所によれば、バビロニア人は植物の雌雄を知っていて、ナツメジュロ樹の男性の枝をその女性の枝の上に、受胎せしめるために差し翳(かざ)したと云われている。】

自然界の事物一切は、愛の法則が現存することを自証しているのである。

2020-12-31 10:29:58 | 日記
自然界の事物一切は、愛の法則が現存することを自証しているのである。
而して「創造の霊」は又「愛」でなければならない。
つまり
人間の目的は「霊」の表現であり、
「霊」の目的は「愛」なのである。
これはつまり
現象世界に活動する人間の「生」の目的は、
「愛の完成」ということになる。
以下の記事を私たちは
啓示的にとらえなければならないのである。
現代社会の風潮に対する一大鉄槌であり、
示唆に富む真理である。
世界はやがてこの真理をさとることになるであろう。
(心と運命 谷口雅春)
【くどくどと此の問題について、ここに述べねばならぬ必要もないであろう。自然界の事物一切は、愛の法則が現存することを自証しているのである。即ち同種属の男女両性が相合して真の完全なるものとなるのである。然らば吾等は「創造の霊」がその「創造の力」を吾らにわかち与えたのであることを悟らねばならない。而して「創造の霊」は又「愛」でなければならない。何故なら、「表現者」なくして「表現」は存在しないし、「愛する者」なくして「愛」は存在しないからである。それゆえ神は愛である。】

吾等は、この内在の神を表現せしむることに於いて、吾等自身を大なる創造の目的に連絡せしめ、而して無限の生命と合体することが出来るのである。

2020-12-30 10:43:35 | 日記
吾等には“神の子”という神が宿っている。
いやこの内在の神が本当の自分なのである。
この“神の子”なる霊を実現させることによって、
いぶせき茅屋(あばらや)より王者の殿堂へと、
移行するのである。
(心と運命 谷口雅春)
【然らば吾等が「霊」と偕(とも)に生きようと思うならば、何よりも先ず「霊」の目的を知らねばならない。それは唯一つ・・・自己表現あるのみである。然しその活動には多くの様式を必要とするのである。そしてその背後には一つの至上の衝動・・・即ち愛がなければならない。主の親しき友は次のように云っているのである。
「誰にても愛する者は神の子なり。愛せざるところの者は神を知らず、神は愛なればなり・・・常に神を見る所の人はなけれども、若し吾等が互いに相愛せば、神は吾らに宿れるなり。而して神の愛は吾等のうちに完成す。ここに吾等は神の内に吾れが住み、吾れの内に神が宿ることを知る。そは神は吾れに神の霊を与え給いたればなり」と。果たして然らば、愛の存在は吾等のうちに内在したまう証左なのである。吾等は、この内在の神を表現せしむることに於いて、吾等自身を大なる創造の目的に連絡せしめ、而して無限の生命と合体することが出来るのである。吾等は分離のあらゆる感じを失って、吾々自身を完全なる生命、完き愛、及び十全の供給の大海原に打ち浸しながら、死より生へ、いぶせき茅屋(あばらや)より王者の殿堂へと、移行するのである。吾れに内在し給う神の目的、及び動機を観察の要点として「創造の霊」を研究することは、まことにも無限に骨折り甲斐のあることである。】