新約聖書「ルカによる福音書」
第11章 ベルゼブル論争
21 強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。
新約聖書「ルカによる福音書」
第11章 ベルゼブル論争
21 強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。
神癒への道も、
実相を悟り健全な生活を送ることへの道も、
常にわたし達に利用されるように準備されているのである。
ただこのことの成就は
自分自身が「神を求め」続けて行った先に
神から与えられる、のである。
その時まで
聖典を読んで真理を学び行動し
執拗に、間断なく、
祈るしか他に方法はないのである。
(参考 奇蹟の時は今 アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)
【わたし達が忘れてはならない事のすべては、神癒の道を本当に理解し、しかもそれを実行して美事な成果をあげたイエスの教えに随順するということである。奇蹟には色々の面が宝石の彫琢された反射面のようにあるが、そのうちの幾らかに私は照明を当て、イエスがそこに教えたところの真理のうちの若干を解明しようと試みたわけであるが、読者自身、聖書に録されている神癒の奇蹟を繰返し繰返しお読みになるならば、また別のアイディアが心に“ひらめいて”来られるであろうと思う。あなたが、本当にその瞬間必要とせられる事柄~あなたにとって今重要な事柄~をあなたはそのアイディアの“ひらめき”の中に気がおつきになるであろう。あたかも、そのちょうど重要な瞬間のために聖書が書き遺されているかの如くにである。宇宙には唯一つの力~神の力しかない、しかもその唯一の力は常にあなたに利用されているように準備されていることを忘れてはならないのである。・・・・何故なら、あなたの内に神の国があり、神の力があり、その栄光は永遠のものであるからである。】
このようにアディントンは説き、
全く同様に谷口雅春先生も生涯説き続けてきたが、
自己の内にある「神の国」を
本気で、いのちがけで求めようとする人は
本当に稀なのである。
であるから、
雅春先生のみ教えも
人々に伝わっていくのには、
長い時間がかかるのである。
「自己の内に求める」という一番大切なことを
なかなか人はしないのである。
「神はわが生命の内に存する唯一の力である」
とアディントンが書いているように
私たち人間は
誰もが「神の無限の力」を
もっているのである。
その神の無限力は
吾らの「内」に在るのである。
だとしたら
それを使わない手はないのである。
でもこれは「内在」していても
使う意味が解らなかったり、
方法が誤っていても
使うことはできないのである。
「神の力」をどうすれば使えるのかという方法論は
イエスが教えた内容であり、
それをアディントンは
解説しているのである。
勿論谷口雅春先生も
方法論について
多くの著述で
詳述している。
(参考 奇蹟の時は今 アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)
【神はわが生命の内に存する唯一の力であるのである。内に宿る神の完全な生命は、外からする如何なるものも触れることはできないのである。過去に何があったにせよ、過去の経験の何ものも、私に対して支配権をもたないのである。私は神の子であり完全であり、何人が何を為そうとも、何を言おうとも、神の世嗣としてのわが完全さに干渉することはできないのである。わが生命の内に宿る神の力は、如何なる環境の影響力にも打ち勝つところの偉大なる力をもっているのである。神の力は神の世嗣たる私の力であり、いつでも使うことができるのである。】
神の力を使うには、
自分が“神の子”であることを
自覚できれば
そのこと自体から
“神の力”が顕われ出るのである。
“神の子”の自覚が何故必要であるのか
これでわかる。
新約聖書「ルカによる福音書」
第11章 ベルゼブル論争
20 しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
私たちの意識奥の領域が「神の国」である。
誰もが意識するわけだから
誰もが本当は「神の国」にいるのである。
ということは
本人の自覚にかかわらず
「自己の内にある神の完全な力」から
離れていると考えることは
できないのである。
でも意識の奥の領域が本当は「神の国」だとわかるためには
本当のところを
つまり真理を学ぶ必要があるのである。
この世の本質を説いた釈迦、キリスト、谷口雅春先生が
説いた書物があるのだから。
(参考 奇蹟の時は今 アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)
<イエスは神の国は“今此処に”“われらの内に”あると言ったのであった>
【パリサイ人はイエスに対して“神の国は何時来るか”ということを話してくれるように求めた。そのときイエスは“神の国は視える姿をもって来たるのではない。神の国は、此処に見よ、彼処(かしこ)に見よというが如くに来たるのではない。見よ、神の国は汝の内に在り”(ルカ伝第17章20~21節)と答えたのであった。イエスはこれ以上に解りやすく答えることができたであろうか。彼は“神の国”の所在を示したのであった。言い換えれば、“今此処に”神の国は“われらの内に”あると言ったのであった。】
<神はわれわれ皆のいのちの本源であり、創造主である。そしてその自覚の領域が神の国であり、それは常に我らの内にある天国である>
【天国とは或る一定の場所ではないのである。しかし一種の心の状態をいうのであって、神の力が今此処にわれらと共に現前し給うという自覚を指すのである。そのことはこの偉大なる“主の祈り”に如何にもハッキリとあらわれているのである。神はわれわれすべては同じ父を分ちもつのである。それだから“天にまします吾らの父よ”と呼ぶ。神はわれわれ皆のいのちの本源であり、創造主である。そしてその自覚の領域が神の国であり、それは常に我らの内にある天国である。ひとたびこの“主の祈り”に秘められたる意味を理解するとき、わたしたちは自分自身を自己の内にある神の完全な力から離れていると考えることはできなくなるのである。】