時間・空間世界(現象世界)は
認識の形式に過ぎない、ということについて
雅春先生が
分り易く明快に書いてくださっている文章がありますので、
そこを転載したいと思います。
(参考 真理第一巻入門編 谷口雅春著)
<空間とは何であるか>
“いのち”を見せてくれと云っても見せられないでしょう。それを見せようと思うと「空間」と云う縦横厚みの枠にのせて見せる。すると肉体と云う形に見えるのです。肉体そのものが「ある」のではなく、いのちが「肉体」のように見えるのです。「人間は肉体ではない」と云うのはそう云う意味であります。
この間、ある講師が来られてこんな問いを出されました。
「先生、認識の形式と云うものはあるんですか」
「認識の形式と云うものはないんですよ」
「“ない”ものがどうしてあるんですか」
「それは心の中に描くのですよ。夢の中に見ている“ひろがり”みたいなものですよ。心で見ている間は“ある”けれども、心で見ないときには“ない”のです」
認識の形式に過ぎない、ということについて
雅春先生が
分り易く明快に書いてくださっている文章がありますので、
そこを転載したいと思います。
(参考 真理第一巻入門編 谷口雅春著)
<空間とは何であるか>
“いのち”を見せてくれと云っても見せられないでしょう。それを見せようと思うと「空間」と云う縦横厚みの枠にのせて見せる。すると肉体と云う形に見えるのです。肉体そのものが「ある」のではなく、いのちが「肉体」のように見えるのです。「人間は肉体ではない」と云うのはそう云う意味であります。
この間、ある講師が来られてこんな問いを出されました。
「先生、認識の形式と云うものはあるんですか」
「認識の形式と云うものはないんですよ」
「“ない”ものがどうしてあるんですか」
「それは心の中に描くのですよ。夢の中に見ている“ひろがり”みたいなものですよ。心で見ている間は“ある”けれども、心で見ないときには“ない”のです」