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われらのすべき目的と役割は「真理を学び広めること」のみです。

2020-01-31 20:19:25 | 日記

われら一人一人がクリアすべきいくつかのことがあります。

1 一般常識を超える必要

藤原敏之先生が指導する言葉であるところの

「見えるものがなくて見えないものがある」という真理は

本当の素晴らしい真理ではあるが、

必ずしも一般の人に分り易いとは言えない。

“見えないもの”というのは理念であるが

見えるもの触れるものしか信じられないのが、

一般常識だから、

その一般常識がそもそも誤りであるにしても、

なかなか常識を超えにくいのである。

これが分ってくると大変楽に生活できる。

2 真理根幹を分る必要がある。

時間と空間が非実在であるということは、

これが真理の根幹だ。

時間・空間がないのなら

あるみたいなのは何故なのか、

ということから

実相にたどり着くからだ。

確かにこれはすぐに納得し難い真理だが、

このことが分り始めると

実相独在に気付き始める。

『神癒への道』はこのことを詳しく説明している。

3 「病気なし」ということの受け入れにくさ

“病気はないのだから無視して行動する”という多くの指導例が、

病気の人に“自分にはできない”と“ひいてしまう”気持を与えがちだ。

藤原敏之先生の「真理+行動」のご指導は、

真理が分り、責任をもって指導できる“真理実現者”にしか

できない。

責任もってやれるだけの霊的指導者でないと

こわくてやらないだろう。

でも「現象ナシ実相独在」という真理が呑み込めると、

谷口先生、藤原先生はいなくても

自分自身で勇気をもって行動でき、

結果もよいはずだ。

自分でできるために書かれているのが、

『生命に実相』『真理』という聖典だ。間違いない。

いまや指導者は要らない。自分でできる。

だが医療を受けている人は医療を無視すべきではないと

私は思い行動している。

しかし医療を行うのは医師だが

治すのは本人であるということは、

絶対の真理だから、

医療を受け乍ら神に任せて行動し病気は治癒できるのである。

4 神想観で観じる対象は

見えない“神の子”“いのち”であるのであって、

この別次元に実在している実相を観じることができてくると

実相が顕われはじめる。

でもすぐにはそこに行かない。

多くの人は現象の神想観をしている。

だが実相は“いのち”の世界だから、

別次元にある。

実相を祈るのに現象を超えることができてくると

実相は顕われ始める。

5 目的は真理を学び真理を広めること

現象世界に“実相を顕わし出す”ことが

現象人間が此の世に生れ出た目的だ。

だからわれらのすべき役割も

全く同様だ。

どうしても現象問題の解決をと人は考えてしまうが、

本来ナイ現象なのだから

実相を顕わし出せば万事解決する。

目的を正しくとらえないと

実相顕現の素晴らしい目的から逸れてしまう。

目的は真理だけであって、

真理だけが人を救うのである。


“霊妙なる存在”は育てるべきもの

2020-01-31 17:42:53 | 日記

自分の内に

“完全なる存在”が

一点として存在しているという自覚は

約1年と3カ月ほど前頃から

睡眠中に「あるな」と直感されてきた自覚であります。

多分これは“霊妙なる存在”とか“神の子”の自覚とか呼ばれるものと

同じであると思っています。

これが感じられる日ほど

安心できる日を送れるので、

この絶対なる存在こそが

私の生活全体の指導の源なのだと

思っています。

この存在については

真理の自覚の深まりとともに

より絶対性への「信」が深まるので、

これは育てて行くべき存在なのだと思っています。

しかもこれを育てるための方法としては

真理の本を読むことと

神想観であると思います。

間断なき祈りで

“霊妙なる存在”は確実に育ってゆきます。

勿論育つというのは、

現象においての話ですが・・・。


自分自身が永遠者である

2020-01-31 11:26:57 | 日記

自分が理念の表現体である。

“いのち”の一瞬一瞬の光ぼうである。

光があるということは光源があるということだ。

生と死を何回でも司る本体が“見えない”霊妙な存在、

即ち“神の子”(神の理念)である。

つまり永遠者である。

(参考 神と偕に生きる真理365章 谷口雅春 日本教文社)

【ここで私は諸君に『光明道中記』の4月8日の日記のところを読んで頂きたいのである。

「お前が何を求めているのだ?」

「私は永遠を求めているのだ。わたしはその方法を探し求めているのだ」

「どこにも永遠を求めることは要らない。お前が永遠そのものだ」

「“この”私が永遠か?」

「そうだ、“その”お前が永遠なのだ。併し“そのお前”と云うのは肉体を指しているのではない。その肉体を“あらわしている”其のお前の“いのち”そのものだ。『永遠』が今お前の中に生活し、『永遠』が今お前の中に生活し、『永遠』が今お前と俱(とも)に歩んでいるのだ」

此の対話の示す真理を理会する者は幸せである。各人は自分自身が永遠なのである。自分自身が滅びない者なのである。是を発見するのが新生である。「人あらたに生まれずんば神の国を見ること能わず」とイエスは言ったが、自分自身の中に永遠を発見することが本当の新生である。

吾を新たに発見し、彼を新たに発見し、この世界を新たに発見することが新生である。】

私投稿者は思う。

“神の子”“実相”が自己に宿っているという真理を、

聖典を読み、

また時間空間非実在と知って肉体を十字架につけることは、

真理の現成に欠かせないと思う。

でも最後に“神の子”“実相”を

自己の内に一点として自覚するという

最後の段階があるのである。

ここで現象の心を

実相に委ねてしまう、任せてしまうという、

絶対他力の無条件全托を

行う必要があるのである。

この際「神に無条件降伏」してなどと云う言葉をよく聞くが、

これは人間我では何もできないということで

神に無条件降伏ということになるのである。

この最後の段階の全托が成されるにつれ、

如意宝珠が少しずつ形成され始めるのである。


“実相”という如意宝珠をからめ手で捕獲していく

2020-01-31 11:06:43 | 日記

たとえば入院患者が

「あなたは見えないけれども本当は“見えない健康体”をもっているので、外を歩いて大丈夫です」と言われたりしても、

真に受ける人はほとんどいないだろう。

“見えない”ところがネックなのだ。
現象の不完全な状態にある人が、

自己の“信じ方”次第で健全になれるという事を

受け容れることはなかなか難しい。

でも自分が見えないけれども“完全さ”つまり“神”を

既に所有しているのであり、

そのことの自覚で

現象が安全世界に変わるのである。

ただその珠は現象と違う次元にある珠だ。
それは真理を知ることで達成されるから

それほど真理を知ることが大事なのだ。

自分が宇宙展開の“大生命の宝珠”を

自己の本体として所有しているなんてすごい真理は

自己の手中にするのには、

それなりの探求がいるので、

モノにしにくいのではあるが、

だから藤原敏之先生みたいになる人がいなかったわけだが、

いったん自分の中に大生命の元が一点として存在していると、

分ってそれに自分を委ねてしまうと、

その一点がだんだん存在感を増してきて

現象に於いて実相の華が

少しずつ咲き始めるのである。